天狗狩り

猫太朗

第一話







空が光った。

朝から昼にかけて快晴だった空に一つ、二つと雲が現れ、増え、気づけばそれらは集合し、巨大な一つの雲となって目に映る空、全てを覆った。

曇天は内包する雷を時折瞬かせて光り、低い唸りを轟かせる。

湿りを帯びた空気の匂いは男に間も無く雨が降ることを悟らせた。

整地されていない、大小様々な礫が転がり、草生い茂る荒れた道を、男は進む。

男は右脚を引き摺るような、不恰好な歩行をしている。

古傷による障害だった。

悪天候。悪路。古傷。

しかし、男はそれらを物ともしない威勢を無言ながら発していた。

その姿は紛れもなく人間だが、その進行はまるで強大な意志そのものが人の形を模して突き進んでいるかのようであった。

やがて、遠方に、微かに、目的の地を見つけた。

男は無意識に歩みを急いた。

男は無意識に呼吸を速めた。

足早に、足早に、男の歩みが、ほとんど疾走に変わりかけていた、その時。

目的の地が、全貌を露わにした。

なんら変哲の無い、平凡な山である。

地元の人間ですらあまり訪れない、名も無い山である。

しかし先からの曇天と雷鳴が、この山を今日ばかりは悍ましく彩っていた。

人間では到底太刀打ち出来ない、自然が生み出した力の象形。

感情を持たない力の具現が、ぼぅと突っ立っている。

男は腰に手を伸ばし、携えた刀を握り締めた。

鈍く、鉄が啼いた。







およそ二年前。

村のある男が山に行くと言ったきり帰ってこなかった。

平凡で、普段は人が訪れるのも稀な山だが、その季節は茸の旬であり、それ目当てに山に登る者はこの男に限らず少なくなかった。

陽が落ちる前には帰る、と男は妻に告げて早朝から出たものの、夜半になっても戻らなかった。

妻は夫を見ていないかと、近辺の住民たちに尋ねたが、誰も男の行方を知らなかった。

この村に暮らす者なら幼少の頃、誰もが遊びに訪れた山である。

その男にとっても子供の頃から慣れ親しんだ場所で、傾斜の緩やかな、危険な獣もいない、そうそう事故など起こりそうにない山だ。

しかし帰ってこない以上、なにかがあったに違いないと、翌朝男の友人が探しに赴いた。

だが、その男も帰っては来なかった。

いよいよ只事では無くなり、村の長は体躯に優れた者を集め、捜索隊を編成した。

なにが潜んでいるかはわからぬが、無いよりはマシだろうと、各々農具や、急拵えの竹槍など武器を携えて、七人の男たちが明け方に出発した。


その夜。

村の者は男たちの帰りを今か今かと待ち構えていた。

そこに、ふらりと、幽鬼のごとく漂うように、男が帰ってきた。

一人きりだった。

村人たちは思わず駆け寄る。

この男は村一番の力自慢で、誰しもに豪快な印象を与える快男児だったが、今や見る影もなく憔悴している。

「大丈夫かっ」

声をかけた刹那、思わず慄いた。

男の左腕が途中から喪失している。

腕の断面からはボタリ、ボタリと止めどなく血が滴り落ちている。

男はその場に倒れ込んだ。

掠れた喉から搾り出すように男は唸り声をあげる。

「天狗だ・・・・・天狗だっ・・・!」

やがて、男は朝日を見ることなく、事切れた。


それ以降、山に近づく者はいない。







三日前のこと。

ある浪人が村にやってきた。

辺鄙な地にある小村故、他所から人が訪れること自体珍しいが、その浪人は中でも飛び抜けて奇妙な来訪者だった。

真黒な着流しは何年も着古しているのだろう、草臥れきっている。

ほとんど洗ってもいないようで、垢と汗染みが黒地を醜く彩っている。

着物から露出した右脚は包帯で周到に巻かれて地肌が見えない。

脚を引き摺っているため、怪我をしているようだが、その包帯の執念深い締め付けは、治癒のため、というよりも何らかの強い念を封じ込めているようにも思えた。

一見細身のようだが、垣間見える腕や胸元は幾重もの筋が走り、太い。

よく見れば着物の上からでも、随所に肉の隆起が確認できる。

相当な膂力を見る者に予感させた。

髪も髭も整えられておらず伸びるままに生やしている様子だった。

後ろで束ねられた蓬髪は脂で鈍く照っている。

陽に焼けた浅黒い肌もしばらく洗っていないようで、汗が塗装したように顔を覆っていた。

太く、濃い、斜めに上がった眉毛。眉間には深い皺が寄っている。

瞳が、暗い。

深く、黒い瞳には光が一縷も宿らず、闇だけを映している。

全ての色を吸収し、二度と外には出さない小さな漆黒が二つ。

異様な眼力、異様な迫力を放つ風貌だった。


村人たちは当初彼を野盗ではないかと訝しんだが、下卑た腹づもりを感じさせない、それどころか貧相な身なりに似合わぬ品格のような物が浪人から発せられていた。

恐ろしい者には違いない、だが自分たちに害なす者ではないと不思議と信じられた。

しかしながら平凡に生きてきた百姓たちは不必要な面倒に関わるのを忌避しているため、皆浪人から目を逸らした。


「お侍様、なにか御用か?」

浪人に最初に声をかけたのは村長だった。

村の静かな動揺を感じとり、自ら勝手出た。

侍という言葉を用いたが、そのような肩書きを持つ者の出立ちには見えない。

腰に刀を携えた獣のような風貌の男。

危険を孕んでいると思われても仕方のない姿である。

目的を知り、村に害意があるか、それを見極めたかった。

浪人はその深く、黒い瞳でしばし年老いた村長を見つめた後、静かに口を開いた。

「この周辺の山に…天狗が出ると聞いた」

意外な言葉であった。

村人たちが山に近づかなくなって約二年、過去の惨劇に封をして、皆、山を存在しない物として扱いつつあった。

あの曰くを口にするこの浪人は、一体。

「天狗…」

無意識に村長からその言葉が溢れ、それに呼応するように浪人は言葉を継いだ。

「俺はそいつを・・・・・斬りにきた」


低く、力の籠った声であった。







島風 志緑郎(しまかぜ しろくろう)の父、島風 仁右衛門(じんえもん)は腕の立つ剣客だった。

若き頃は要人の警護や剣術指南を主な生業とし、時には巷に現れた辻斬り等危険人物の討伐を任される強者であった。

四十を過ぎた頃に自身の道場を開く。

武家の者だけではなく、商家、農家、身分を問わず誰でも受け入れ、武術を教えた。

武が単なる力ではなく、その者の心身を救い、人生を豊かにすると信じていた。

剣術だけではない、人徳に富んだ人物であった。

志緑郎は一人息子だった。

仁右衛門の妻は身体が弱く、志緑郎を産んで間も無く死んだ。

その後縁談を何度か持ちかけられたが、全て断った。

道場の経営と子育てを一人で担っていたため、志緑郎が幼い頃は苦労が絶えなかった。

そんな父を間近で見続けたためか、志緑郎は人一倍大人びた少年に育ち、子供ながら父を支えるため、よく働いた。

仁右衛門は志緑郎の利発さに親としての不甲斐なさと充分に甘えさせられない申し訳なさを感じていたが、志緑郎はむしろ父のために働くのが誇らしかった。

卓越した剣術の腕、不器用ながらも深い人徳、亡き母の分まで己を愛そうとする大きな優しさ。

幼心に仁右衛門の偉大さが身に沁みていた。

父のような男になりたかった。


志緑郎が十二歳の時、道場に物盗りが現れた。

空が朱に染まりはじめた黄昏時、仁右衛門は所用で出かけており、志緑郎は一人晩飯の準備をしようとしていた。

今晩は以前漬けた糠漬けを食おうか、など考えながら調理場に向かうと、床が外され、食料が保存されている地下から何者かが物音を立てていた。

即座に物盗りだと理解した志緑郎は「誰だっ」と叫ぶ。

声を発しながら志緑郎は不安と戦っていた。

盗人は武器を持ってはいまいか、体格の優れた者だった場合自分が敵うだろうかと。

同時に日々父と共に鍛錬を積んできた自負もある。

そうだ、こんな時のための武ではないか。

極短い刹那に幾多の思考が少年の脳髄を駆けた後、盗人が地下から上体を出した。


一瞬、猿か、巨大な鼠かと思ったが、やはりそれは人間。それも志緑郎とさほど歳の変わらぬ少年に見えた。

薄汚れた蓬髪、同様に薄汚れた襤褸を身に纏った少年は、土がついた芋をごりごりと生のまま齧っている。

眼ばかりが厭に光っていた。

志緑郎は相手が大人とばかり思っていたのでやや混乱したが、同じ子供ならば武術の心得ある自分のほうに勝機があると持ち直した。

俺は島風仁右衛門の子、志緑郎だ。

己を奮い立たせるように心中で唱え、志緑郎は咆哮した。

「だああああぁっ!」

突進する志緑郎、しかし盗人の少年に動揺は見受けられなかった。

ごく落ち着いた動作で、盗人は今しがた食っていた芋を志緑郎に放った。

武術に秀でた父に鍛えられ、道場では毎日試合に励んでいるが、少年は決め事の無い実戦経験は皆無だった。

志緑郎は敵の意外な行動に対処出来ず、顔面に芋が直撃した。

志緑郎が怯んだ刹那、盗人の少年は地下から跳躍した。

志緑郎の背丈を軽く上回るであろう高さの跳躍。驚くべき身軽さだった。

少年は落下しながら志緑郎に迫り、志緑郎の胸元を踏みつけるようにして蹴倒した。

「ぐっ…!」

肺から空気が全て押し出され、志緑郎は呻く。

それを尻目に盗人は駆け出した。

志緑郎は沸々と怒りと、情けなさを感じはじめていた。

あの父から常日頃鍛えてもらったにも関わらずこの体たらく、自分を恥じた。

そしてこのまま奴を逃してしまえば二度とこの恥を払拭出来ないと直感した。

痛みと呼吸の乱れは治まっていないが、気にしている場合ではなかった。

素早く立ち上がり後を追い駆ける。

まだ見失ってはいない。

少年は獣の如き身軽さで廊下を駆けていたが、脚の速さには志緑郎も自信があった。

少年は素早いものの、ここに来たのは初めてで間取りを知らないため、どこに逃げれば良いか、若干動きに迷いが見えた。

そのため徐々に二人の距離は縮まっていき、やがて、志緑郎は少年に向かって身体ごとぶつかり、押し倒した。


互いに必死だったため気づかなかったが二人は奇しくも稽古場に転がり込んでいた。

二人共に、息を乱しながら立ち上がった。

盗人の少年は逃げずに志緑郎を睨んでいた。

観念したわけではなく、逃げる隙を生むために志緑郎とここで格闘した方が良いと判断したからだった。

志緑郎も当然少年から目を逸さなかった。

父の教えとこれまでの努力が、たかが物盗りの小僧に遇らわれてたまるかと、気合いに満ちていた。


しばしの沈黙の後、巨大な破裂音が道場に響く。

盗人の少年が力強く床板を踏み蹴った衝撃の音であった。

志緑郎が身体を咄嗟に強張らせた瞬間、少年が飛びかかる。

敵に隙を作り、その間に攻め入る。それが少年の戦闘に於ける定石らしかった。

しかし志緑郎も今度は引かなかった。

飛びかかる少年の襟元を掴み、そのまま相手の勢いを殺さず己の身体を軸に、弧を描くように、背負い投げた。

少年は背面を床に強か打ち付けられ「ぐっ」と声が漏れ出た。

志緑郎はまだ手を離してはいない。

そのまま腕を極めて、少年を無力化しようと試みるが、刹那右手の親指に痛みが走る。

親指の爪が強引に剥がされ流血していた。

いつ仕掛けられたか、まるで気づかなかったが、痛みと、敵の意外なほどの容赦無い手段に一瞬力が緩んでしまった。

それを見逃さず、少年は志緑郎の腕を乱暴に振り解き、転がるように距離を取る。

だが、志緑郎は開きかけた距離を一気に詰めるよう前進する。

少年が体勢を直そうと中腰のような姿勢になったところに、志緑郎はすかさず顔面に膝蹴りを喰らわせた。

鼻の奥からべきりと音がして、たちまち血が噴き出る。

少年は意識が飛びかけるのを懸命に堪え、仰け反りながらも顔面を蹴りつけてきた志緑郎の右脚にしがみついた。

片脚で重心を危うげながら保ちつつ、志緑郎は少年の頭を殴りつける。

「離せっ」

だが少年はむしろ腕に力を込めて志緑郎の脚を抱く。

「っ!?」

志緑郎の脛あたりに激痛が生じる。

少年が、右脚に齧りついていた。

大量の釘が一箇所に集中して突き刺さるような、鋭い痛みだった。

とんでもない顎の力だ。

「離せっ!離さぬかこの猿めっ!」

志緑郎は噛まれた右脚を出来る限り揺すり、少年の髪を千切らんばかりに引っ張り、更に激しく殴打を加えるが、少年は一向に口を外さない。

生暖かきものが脚を伝ってぽたりぽたりと垂れ落ちる。無論それは志緑郎の流血である。

「畜生めっ!」

とうとう頭髪がぶちぶちと根本から引っこ抜かれ、度重なる殴打により腫れ、歪み、止まらぬ鼻血が顔を真っ赤に汚していくも少年は志緑郎の脚から歯を引き抜かない。

次第に志緑郎の脚から痛みが徐々に失せ、代わりに痺れが広がってきた。

「ええいっ!離せいっ!」

激しくも醜き泥試合の様相を、劈くように、怒声が響き渡った。


「何をしておるかッ!」


父、仁右衛門が帰還した。







翌朝、右脚の痛みで目が覚めた。

志緑郎は掛け布団を押し除け、昨日巻いた包帯を解き、傷の様子を確認する。

歯型がくっきりと残り、血は止まったものの傷口の周囲は黄色くぶつぶつと膨らみ、膿んでいた。

志緑郎は奥歯を噛み締めて、畳を殴った。


昨晩、帰宅した仁右衛門は盗人の少年に飯を振舞った。

志緑郎は納得がいかず、珍しく父に抗議した。

奴は物盗りの乞食で、自分も怪我をさせられた。

そんな下賤の者を許すのかと。

すると仁右衛門は志緑郎の頬を叩き、「お前は黙っていろ」と一言だけ言い放った。

志緑郎は一人いち早く床につき、盗人の少年と父はなにやら会話しているようだった。

志緑郎は布団の中で静かに泣いた。


一晩経ち、父の正しさをなんとなく理解は出来た。

自分とさほど変わらぬ歳でありながら盗みをしなければ腹を満たせないあの少年の境遇は確かに哀れだ。

自分がもし同じ立場なら悪事とわかっていても必死の抵抗を試みるだろう。

心優しき父が少年に飯を食わせたのも当然だろう。

道理は分かっている。

だが心が納得していなかった。

同年代の子供よりも大人びた志緑郎だが、やはりまだ精神に未熟な側面が残っていた。


居間に向かうと、父と、驚いたことに昨日の少年が座していた。

風呂に入れられたのだろう、昨日の格闘でついた痣が顔中に残っているが不潔な印象は無くなっていた。

蓬髪も切り揃えられて整った長さになっている。

志緑郎の着物を借りて胡座をかいている少年の姿は忌々しかった。

少年は志緑郎を一瞥すると、すぐに目を逸らした。

志緑郎も同様に少年を見ずに父にだけ「おはようございます」と言った。

仁右衛門も頷きおはようと言った後、そこに座れと継いだ。

志緑郎は言われた通りに正座する。

仁右衛門の左隣に少年。志緑郎は二人に向き合う位置に座した。

仁右衛門は志緑郎をしばし見つめてから、

「志緑郎、まず昨日のことを謝る。お前の気持ちを考えれば怒りを感じるのも当然だろう、済まなかった」

と頭を下げた。

「いえ…」

とだけ返す。

自分の行動に誤りがあった場合、非礼を犯した時、相手が誰であろうとすぐに詫びる。

父はそういう男だ。

「しかし、彼がやったことを責めないでほしい。彼には身寄りが無い。飢えていたんだ。…志緑郎、わかってもらえるか」

志緑郎は無言で頷いた。

まだ納得は出来てはいない。が、これ以上父を幻滅させたくもなかった故の了承である。

そこからやや間を置き、仁右衛門が口を開く。

「彼をここへ住まわせようと思う」

志緑郎は耳を疑った。

「父上っ、それは…」

「お前の気持ちはわかる」

志緑郎の言葉を遮るように父は言う。

「だが、このまま放逐すれば、彼はまた同じ行いを繰り返さざるを得ないだろう。人は飢えればどんなことでもする。…彼に今必要なのは支えだ」

志緑郎はなにも言えなかった。

考えてみれば仁右衛門の性格を鑑みれば予想の出来る展開だった。

父は孤児を突き放せるほど冷たい人間ではない。

だからこそ志緑郎は父を尊敬しているはずだった。

「しかし、ただ家に置くわけにもいかぬ。彼には丁稚として働いてもらう。志緑郎、色々と教えてやってくれ」

志緑郎はやはり無言で頷いた。

納得がいっていない志緑郎の心中を見透かしたような表情の仁右衛門は、やがて傍の少年に目を移した。

「これからここで暮らすのだ。挨拶なさい。それから…昨日のことを謝れ」

それまで寡黙を通してきた少年は促されるまま口を開く。

「…昨日の無礼、申し訳ございませんでした。…以介(いすけ)と申します…今後、よろしくお願いいたします」

淡々とした、感情の無い声だった。







一月が経つ。

以介は意外にもよく働いた。

要領も悪くなく、家事炊事、然程滞りなく覚えて仕事に励んだ。


一月共に暮らしているものの、志緑郎は以介とほぼ言葉を交わしていない。

たまに買い物を頼む時などに、ごく業務的な血の通わぬ言葉を告げる程度だった。

以介から声をかけてくることもない。

以介は用のある時以外は一切声を発さない。

徹底して寡黙だった。

その態度が志緑郎には不気味に映った。

彼がここに来る以前、どこでどのように生きてきたか、いまだに知らなかった。

父はどうやらここに迎え入れる時に生い立ちについて以介と話したようだが、志緑郎は特に聞きたいとも思わなかった。

自分から以介について知ろうと行動するのは癪に思えた。

風呂に入る時などに右脚を見ると、以介の歯型がまだ残っていた。

剥がされた親指の爪も完全に生え変わってはいない。

志緑郎にはまだ以介の凶暴が鮮明に焼き付いている。

あの時父に促されて言った謝罪以外、以介から自発的な詫びは無い。

悪事についての釈明も無ければ、この家に溶け込もうという努力も見られない。

依然として、志緑郎にとって以介は忌々しい存在であることに変わりはなかった。


それは志緑郎だけではなかった。

誰が言ったというわけではないが、道場の門下生たちにも以介が盗みを働いた孤児、ということが伝わっていた。

なにを考えているか皆目わからぬ以介の態度も相まって、門下生たちからも以介は白眼視されていた。


ある日、事件が起きた。

門下の生徒が道場での稽古中に脚を折ったのだ。

脚が折れた原因は、折しも以介であった。

その生徒は志緑郎の一つ上、十三歳の少年で、正吾(しょうご)という。

身体が大きく、力も強く、時に横柄な、近所のガキ大将のような存在だ。

他の子供達から慕われているものの気性の荒いところがあり、怒り出すと手がつけられなくなる。

それを仁右衛門からは度々注意されていた。

道場は指導の日には扉を開放しており、門下生が自由に出入り出来るようにしてある。

子供の生徒などは稽古がはじまる半刻程前から集まって遊ぶのが慣例だった。

その日正吾達がいつものように道場にやってくると、以介が稽古場の中心あたりでしゃがみ込みなにやらやっていた。

床板が劣化によりささくれ立っていたため、仁右衛門から補修を言いつけられていたのだった。


正吾は以介がいけ好かなかった。

彼も以介がここに迎え入れられた経緯は知っているが、それよりも以介の陰気さが気に入らなかった。

出会った当初は子供同士なこともあり仲間に入れてやろうと声をかけたが、以介は

「自分は丁稚の身であります故、お気遣いなく」

と、小声で言うばかりで一切心を開かなかった。

正吾はどうにも面白くなかった。

気が合わないならば会わなければそれで良いが、道場に行けば必ず顔を合わせることになる。

ある時の稽古中、以介がこちらを見ていたことに正吾は気づく。

その時の、なにか見下したような、暗い、厭らしい目つきがやけに印象的だった。

明確な因があるわけではないが、ほとんど生理的な由来で正吾は日に日に以介への嫌悪を募らせていた。


正吾は以介を見るなりわざとらしく大きな溜息をついてみせた。

が、以介は全く意に介さず作業を継続している。

正吾は軽く舌打ちをした。

この日の正吾は妙に虫の居所が悪かった。

正吾は以介のほうに歩み寄ると、ほとんど蹴りを入れるようにわざとぶつかった。

以介は不恰好に床に転がされた。

その様子を正吾と他の子供達は笑う。

正吾ほどでないにせよ、他の子供たちも以介が気に食わず、嘲りの対象としていた。

「そんなとこにおったら邪魔だぞ、さっさと退け!」

正吾は嘲笑しながら蹲る以介に言い放つ。

が、以介はゆっくりとした動作で起き上がると、元の位置に戻り、作業を再開した。

その以介の様子に笑いは鎮まった。

以介のあまりの反応の薄さに、正吾は怒りを感じはじめていた。

正吾は以介の襟首を掴み、強引に立ち上がらせる。

青筋を浮かべた正吾に対して、生気すら乏しい無表情の以介。

「なんでしょうか」

そこではじめて以介は口を開いた。

以介としては主の言いつけに従い仕事をしていただけであり、稽古中ならまだしも今はその時間ではない。

妨害も恫喝もされる謂れは無い。

鼻息荒くしつつ、正吾もそれはわかっていた。

今やっていることは難癖をつけることに他ならず、わけもなく以介を痛ぶれば仁右衛門からまた叱責を受けるだろう。

しかし気も治らず、なにかしないではいられなかった。


正吾はおもむろに持っていた木刀を以介の胸に押し付ける。

「以介よ、試合をせんか?なに、ちょっとした遊びだ、本気は出さん。だが、俺はお前がどの程度やるのか知りたいのだ、いいだろう?」

正吾は子供同士が戯れに試合をし、それで当たり所悪く怪我をした、という筋立てを思いついた。

叱責は受けるだろうがなにも釈明できる理由が無いよりはマシだと思った。

とにかく、一度以介を痛めつけなければ気が済まなかった。

この一月で鬱積した以介への嫌悪を解放してしまいたかった。

「出来ません。仕事が途中ですし、自分は、丁稚の身です」

いつものように淡々とした口調で拒絶の意を示す以介だったが、正吾は聞かなかった。

「先生には言わんさ、それにすぐ済む。いいだろう。さぁ、やるぞ」

強引に、以介に木刀を握らせた。


悲鳴を聞きつけた仁右衛門が稽古場に駆けつけると、正吾は脚を抑えて蹲りながら泣き叫んでいた。

片手に木刀を握った以介は正吾を無表情で見下ろし、他の子供達は目に涙を浮かべて唖然とした様子で見ていた。

仁右衛門は正吾に駆け寄る、右脚の脹ら脛が赤黒く腫れ上がり、折れた骨が皮膚を押し上げていた。

「何があったッ!」

怒号が飛ぶ。

仁右衛門の剣幕に子供達は震えがったが、以介は全く動じず、表情は変わらなかった。







「先に一太刀当てた者の勝ち」という取り決めで試合を開始した。

正吾は正眼に構え、対する以介は構えもせず棒立ちのままだった。

正吾は内心ほくそ笑む。

やはりこいつは武芸を知らない。構えるフリさえも出来ぬ素人だ。

先に一太刀、と言いつつめった打ちにしてやる腹づもりであった。

余裕綽々と、踏み込み、勢いよく木刀を突き出す。


が、手応えが無い。

まず当たったと思われた初撃は躱された。

以介は僅かに半身、身体を逸らしたのみ、最低限の動作で避けた。

「ぬ…」

一旦退く。

なんだ、こいつは。

剣を知らないのではないのか。

再び正眼に構え、素早く振り上げ、下ろす。

しかし、これも躱される。

以介はやや左に身体をずらしただけ、やはり紙一重の回避だった。

「くっ…」

正吾は顔を紅潮させ、そこから猛烈に攻め入る。

上段、中段、下段、打ち、突き、薙ぐ。

様々な攻撃を連続して、間断無く打ち込み続けるが、以介には当たらない。

まるで予めどこから攻撃が来るのか知っているかのように、無駄の無い動きで全て躱し、擦りもしない。

正吾の動きが止まる。

息が乱れ、汗が流れ出していた。

その様子を暗い瞳で眺める以介が不意に、口を開く。

「…もう止めませぬか」

感情の無い声だったが、正吾にはその言葉が自分への憐れみ、そして侮りに聞こえた。

「一太刀当てたらと言っただろうっ!終わらせたいのならお前も避けているばかりでなく打ってみろっ!」

その言葉を受けると、伊介はやや間を置いてから動き出す。

「…では」


その場にいるだれも見たことのない構えだった。

以介は伏せるように、左手を床につけ、両膝をやや曲げて爪先を立てる。

木刀を握る右手首はほぼ顎に触れるあたりに配置する。

切先は、横から見ると以介の目線と平行の角度であった。

まるで四足獣か、蜘蛛。

異形の構えである。

正吾はわなわなと震える。

それが怒りなのか、恐れなのか、本人にもわからない。

「なんだそれはっ!」

正吾の言葉に、以介は答えない。

侮られている。

正吾の裡に屈辱が充満する。

乞食の以介に、泥棒の以介に、武術を知らない以介に。

正吾は冷静を保てず、叫び、突進する。

「だりゃあああああああッ!」

しかし、侮っていたのは紛れもなく正吾の方であった。


べちぃいっ


言葉にするならそのような、濡れた布に覆われた枯れ枝をへし折ったような、厭な音が響いた後、正吾が悲鳴をあげた。







医者の見立てによれば全治およそ三ヶ月。

治ったとしても後遺症が残り、以前のように正常な歩行が出来るか定かではないとのことだった。

正吾の家は酒屋であり、仁右衛門はよくそこで酒を買っていた。

主人との付き合いはもう十年以上であり、正吾の歯が生え揃う以前から仁右衛門は彼を知っている。

それだけに今回の事は仁右衛門をも深く傷つけた。

道場はしばらく休むこととし、連日連夜仁右衛門は正吾の家に脚を運んで詫びた。

正吾の父は寛容であった。

物を知らない子供同士のやったことであり、武術を学ぶとはそういった危険も孕んでいるとわかっていた。

それに武士でありながら他を見下さず、身分違いを感じさせない物腰柔らかな態度の仁右衛門が連日わざわざ出向いて深々と言い訳もせずに謝罪を伝えに来る姿を見れば、誰も何も言えはしなかった。


仁右衛門が正吾の家に出向いてる際、志緑郎と以介は二人だけで家に残された。

ある夜のこと、以介は今朝干していた着物の皺を伸ばしては畳み、箪笥に収めていた。

黙々とそれを繰り返す以介を、志緑郎は凝っと睨むように、観察する。

それを以介は知ってか知らずか、なんら普段と変わらずに仕事を続けている。

そのような奇妙な時間が四半刻ほど続いていた。


「おい、以介」

不意に、志緑郎が声をかける。

「はい」

と、以介は小声で答えた。

「仕事はいい、こちらに来い」

有無を言わさぬ語気で、志緑郎は命じる。

若干間があったものの、言われるがままに以介は手を止め、立ち上がった。

志緑郎の後ろに従い、二人は廊下に出た。

月がいつもより大きく光り、普段より明るい夜だった。

ひたひたと、しばらく廊下を歩く志緑郎。

続く、以介。


唐突に、志緑郎は振り返り、以介の胸ぐらに掴み掛かった。

「貴様はどういうつもりだ!」

以介は反応しない。

「お前を拾った父上に泥を塗るようなことをなぜしたかと聞いているんだっ!」

しばしの間、沈黙が続く。

以介の顔を睨め付ける。

変わらぬ無表情、光の無い眼。

精巧に作られた人形のようで、心が見えない。

機械仕掛けの如く無機質な挙動で、以介の口が開閉する。

「私は貴方のお父上には感謝しております。食事も住む所も与えてもらいました。私が生まれてから間違いなく今が最も恵まれております…」

「ではなぜっ!」

「ですが、感謝はすれど、私は奴隷ではありません。少なくとも、心までは支配出来ません」

「・・・・・」

志緑郎には以介の言葉の意味が掴めなかった。

それを察したか、以介が言葉を継ぐ。

「志緑郎様たちの望みは、私があの時反撃せず、黙って殴られてくれればそれで良かったのでしょうか。…ですが、あの時、あの方は私にも打てと言いました。言われたまでのことをしただけです」

「しかしっ、あれは…」

「命令であれば耐えましょう、ですが私も人間です。痛みもあれば屈辱も感じます」

「・・・・・」

「志緑郎様、私は武を知りません。知りませんが、武とは無抵抗の者を痛ぶるためにあるのですか」

志緑郎は言葉が出なかった。

以介の声色はいつも通り起伏の乏しい物だったが、その内容はこれまでで最も人間を感じさせるものだった。

志緑郎は出会った時から今まで、以介を異質な存在と捉えていた。

人の姿をした獣か、怪異か、そのような得体の知れない者だとばかり思っていた。

しかし、やはり、彼は生身の人間なのだ。

生きていればこそ、道理を破って、死に物狂いで飯を盗んだ。

人だからこそ、粛々と恩に対して奉公で返す。

寡黙だが、彼の姿勢には父への感謝と償いがあったのではないか。

また志緑郎は正吾と当然ながら古くから付き合いがあり、どのような者かをよく知っていた。

正吾の、時に爆発するあの癇癪は誰もが手を焼く。

そして、正吾はじめ皆の、以介に対しての不穏な感情が醸成されていたのも志緑郎は知っていた。

いずれなんらかの揉め事が発生するのは予知出来たことではないか。

以介は後ろ暗い過去を持つ弱い立場だ。

それでいて人の中で立ち回るのも上手くない。

自分はそれらをわかっていたにも関わらず、なんの配慮もしなかった。

今回起きたことはある種必然だったろう。

だが、起きたことの全てを以介の罪にしてしまうのは、今更ながら、間違いのような気がするし、卑怯な気がした。

鉄面皮で無口な以介、だが不当な扱いを受けて胸を痛めぬわけではなかったのだ。

彼にも怒りがあり、哀しみがある。

志緑郎は以介から手を離した。

魂無き人形に見えた以介が、ようやく人間に見えた。

気づけば先程までの激しい感情は、霧散していた。

「確かに、お前の言うことも最もだ…」

だが、あれはやり過ぎている。

どのような手段を使ったか聞いた限りでは不明だが、あれほどの重傷を負わせるのは並大抵ではない。

今回の件で明確に理解した。

以介は、強い。

それは志緑郎も身を持って体感している。

そして気性に難があるのも否めない。

このままではまた再び誰かと揉め事を起こしかねないと悟った。

ならば、自分がすべきことは。


「…武を知らないと言ったな」

心なしか、以介の眉が微かに動いたように見えた。

「父上には俺が頼もう。以介、お前は力の使い方を覚えろ。…武を教えてやる」




(続)



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天狗狩り 猫太朗 @nktro28

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