第43話 武士道とノブレス・オブリージュ

 圭夏ちゃんの夏風邪はほどなくして無事に治り、そのまま何事もなく夏休み前の授業(三学期制の地域なら一学期って言ったほうがわかりやすいんだろうけど、あいにくうちの市は二学期制だ)も終わって、待ちに待った合宿の当日がやって来た。


 中学生は大人と同じ電車賃を取られるし、車の燃費は何人乗ってもそんなに変わらないという理由で、わたしたちは松平先生の運転する車に乗って、三浦半島から箱根まで、相模湾沿いを弓なりに移動することになった……んだけど。


「おっそいなあ……まだ動かないの……?」


 箱根湯本駅の手前にて、に巻き込まれた車の中で、わたしの右隣、運転席の真後ろに座った圭夏ちゃんがうんざりとした口調で言った。


「ごめんなさい、まさかここまで混んでるとは思わなくって……夏休みの湘南を舐めてたわ」


 運転席の松平先生(県外出身)が、覇気のない声で答える。


 ちなみに、これまでの渋滞ポイントは葉山、逗子、鎌倉(由比ヶ浜)、江ノ島の手前(七里ヶ浜)、二宮の五箇所である。


 わたしは合宿が楽しみすぎて昨晩あまり眠れなかった影響で、車内では長い間ウトウトしていたのであまり気にならなかったんだけど、ずっと起きていた人にとっては、かなりキツかったのだろう。


「お腹空いた……トイレ行きたい……」


「お手洗いは駅を過ぎてちょっとのところにあるけど、昼ご飯はもうちょっと我慢して。この辺のお店は、無料の駐車場がないから」


「西湘バイパスに乗るお金をケチったり、せんせーって意外とケチですよね……」


 大磯で内陸の道に入らずバイパスに乗っていれば、今の渋滞と二宮のそれは回避できた可能性があるって考えると、圭夏ちゃんの気持ちもわからなくはない。


「しょうがないでしょ、お金ないんだから……」


 でも、生徒のために身銭を切っていることを知っているわたしとしては、松平先生のことを責める気にもなれなかった。


 それに、渋滞で一番疲れるのって、運転をしている人だろうし。



×       ×       ×



 それから、わたしたちの乗った車は「歩いたほうが早いんじゃないか」ってくらいの時間をかけて箱根湯本の駅前を通過し、川沿いの無料駐車場に辿り着いた。


 お手洗いが道路を挟んで向かい側にしかないということもあって、特にお花を摘みたいわけでもなかったわたしと永井先輩は、圭夏ちゃんたち三人が戻ってくるまで、外の空気を吸いながら待つことにした。


「んーっ……やっぱり、箱根は空気がおいしいね」


「やっぱり、ってことは、よく来るんですか?」


 深呼吸をする永井先輩に、わたしは尋ねる。


「よく、ってほどではないけど、年に二、三回くらいは来るかな。箱根って、史跡や美術館がけっこう多いから」


「な、なるほど……ところで……」


「ん?」


「せ、先輩が社会派な歌詞を書く理由って、3S政策に利用されたくないってだけじゃないですよね……?」


 最近、永井先輩と二人きりになる機会がなかったわたしは、圭夏ちゃんの家に行った時からずっと気になっていた質問をした。


「……どうして、そう思ったの?」


「……わたし、中島先輩の家と圭夏ちゃんの家に行って思ったんです。家庭環境の格差って、自分が考えていた以上に激しいものだったんだなって」


「…………」


 永井先輩は真剣な顔で、わたしの言葉を聞いてくれていた。


「それから、こうも思いました。わたしでさえ気が付くようなことに、永井先輩ほどの人が気付かないはずがない、って」


「……わたしはそんなに凄い人間じゃないし、榎本さんは自分を過小評価しすぎよ。わたしには、演劇の台本なんて書けないもの」


「そ、そうでしょうか……?」


 リップサービスかもしれないけど、それでも永井先輩にそう言ってもらえると、嬉しさを感じずにはいられない。


「うん。でも、家庭環境の格差……いわゆる『親ガチャ』に関しては、わたしも考えたことはあるよ。少なくとも、経済的にはかなり恵まれているほうだって自覚はあるし」


 わたしは永井先輩の、経済的「には」という言い方が少し引っかかった。


 親子関係がうまく行っているのであれば、わざわざそんな言い回しを選んだりはしないだろうし。


「だから、先輩は『ノブレス・オブリージュ』を実践している……そういうことですよね?」


「……そうね。そうとも言えるかもしれないけど……わたしとしては、その言い回しはあんまり好きじゃないかも」


 先輩の反応は、わたしが予測していたものとはだいぶ違い、かなりのローテンションだった。


「と、言うと……?」


「なんていうか……ネット上だとこういう人よくいるんだけど、道義的に優れた思想や概念はすべて西洋や欧米が発祥、って考えが嫌なのよね。出羽守でわのかみっていうか、西洋崇拝っていうか……だって、象山しょうざん先生――幕末の学者、佐久間さくま象山が『西洋芸術、東洋道徳』って謳ったように、西洋が植民地からの収奪に明け暮れていた時代に、江戸時代の日本はほとんど戦争をしていなかったわけでしょ?」


「それは……確かに」


 江戸時代にもアイヌや琉球の人々に対する搾取や抑圧はあったんだろうけど、欧米列強の植民地に対する蛮行に比べれば、相対的にはだいぶマシだろう。


「ちなみに、ここで言う『芸術』って言うのは、さっき言ったような美術館に飾られている芸術品のことじゃなくって、科学技術のことね」


「そ、そうなんですか……?」


 だったら「西洋科学、東洋道徳」でいいような気がするんだけど、当時と今では言葉の使われ方が違うんだろうか。


 もしかしたら、幕末にはまだ「科学」っていう「Science」の訳語自体がなかったのかもしれない。


「うん。わたしは音楽に関してはやっぱりロックが一番好きだなって思うけど、絵画や彫刻とかの立体造形物に関しては、和物のほうが素敵だなって思うし。実際、中島さんが言っていたように、浮世絵に影響を受けた西洋の画家も多いわけだし」


「そう……ですね」


 言いたいことはわかるんだけど、そろそろ話の脱線がキツくなってきた。


「……ごめんなさい。話を戻すわね。とにかく、江戸時代には武士以外の人間に兵役の義務はなかったわけだから、『身分の高い人間は義務を果たさなければならない』って思想は、何も西洋の専売特許じゃないと思うの。戊辰戦争の時に敵前逃亡したせいでよく臆病者扱いされる徳川慶喜だって、禁門の変では安全な後方から指示を出すんじゃなくって、自ら前線に出て戦っていたわけだしね」


「な、なるほど……」


 それは立派なことだと思うけど、要するに永井先輩は何を言いたいんだろうか。


「つまり、わたしが言いたいのはね、わたしは金銭的に恵まれた環境に生まれたおかげで、歌や楽器の練習を効率的にできたわけだから、今、歌い手としてそれなりに評価されているのは、自分の努力や才能のおかげだけじゃなくって、運に助けられた部分もかなり大きいって自覚はあるし、だから、個人の努力の問題……通俗道徳、自己責任論でなんでも片付けようとする人はおかしいとも思う。それで、そういう貧富の格差を生み出している人間を風刺した歌詞を書いたことも確かにあるけど、『ノブレス・オブリージュ』を実践しているって意識は特にないの。どちらかといえば、『武士は食わねど高楊枝』って言葉のほうがピンと来るかも」


「武士は食わねど高楊枝……つまり、武士道ですか?」


「もちろん、武士だって必ずしも高潔な存在だったわけではないんだけど……雑に言ってしまえば、そういうことかな」


 どうやら、わたしの予想そのものはそれほど的外れだったわけではなかったものの、先輩としては「ノブレス・オブリージュ」という表現が気に食わなかった、ということらしい。


 わたしは別に「道義的に優れた思想や概念は『すべて』西洋や欧米が発祥」だなんて一言も言っていないし、正直、今日の永井先輩は単なる「学校の先輩」としてはかなり面倒臭いんだけど、でも、こういう「独特だけど、まったく共感できないわけではない」価値観を持っている人だからこそ、情報が飽和している現代社会で、埋没せずに評価されているのかもしれないって考えると、なんていうか「長所と短所は表裏一体なんだな」って感じがする。


「ところで、経済的、金銭的『には』恵まれているって言っていましたけど……」


 話が一段落ついたと判断して、わたしは新たに生じた疑問を先輩に投げかけた。


「ああ、親子仲? 全然良くないわよ。うちの親はクラシックをやれとか、進学校に行けとかうるさいし。中学受験の塾をサボってカラオケで歌の練習をしてたのがバレた時なんて、大喧嘩になったわよ」


 とんでもないことを、まるで天気の話題のようにサラッと話す永井先輩。


「ろ、ロックですね……」


 でも、そういうことがあっても自分の好きな音楽を続けられている辺り、永井先輩の親御さんは、なんだかんだ娘に甘いんじゃないかって気がする。


 これがもし、中島先輩のお母さんだったら――


「……先輩ほどの人でも、親からああしろこうしろ言われるんですか?」


 そう問うたのはわたしではなく、トイレから戻ってきた中島先輩だった。


「うん。まあ、流石に最近はあんまり言われなくなったけどね。具体的な結果を、数字で出すことができたから」


「具体的な結果……数字……やっぱり、親を黙らせるにはそれしかないですよね」


 この時、わたしはようやく理解した。


 元々、ファッションデザイナー志望で、演劇にはそれほど関心があったわけではないはずの中島先輩が、コンクールに出場することに異様なまでのこだわりを見せていたのは、そこで結果を出して、お母さんに自分の夢を認めてもらいたかったからだということに。

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