第36話 「幕府」と「御公儀」

「なるほどね……」


「……榎本さん、わたしからも一ついいかな」


 中島先輩が納得する中、話が一段落つくのを見計らっていたのか、永井先輩が手を挙げた。


「は、はい、なんでしょう」


「この台本だと『幕府』って単語が何度も出てくるけど、これ、『御公儀ごこうぎ』に変えたほうがいいと思うの」


「御公儀……ですか?」


 大河ドラマとかでたまに聞く表現で、幕府を指す言葉だということは知っているものの、具体的にどういう意味合いなのかまでは知らない。


「うん。単純に当時は『幕府』って言葉が使われていなかったっていうのもあるけど、これ、武家政権の権威を否定するために生み出された蔑称だから、あんまり使わないほうがいいとわたしは思う」


 反権威、反権力的な志向の永井先輩が当時の政権の肩を持つようなことを言うのは意外だなあ――


「でも『御公儀』だと、それこそ観客に伝わらなくないですか?」


 わたしがそう感じていると、中島先輩が永井先輩の主張に異を唱えた。


「時代劇や大河ドラマでも『御公儀』って表現は使われてるし、そんなことはないと思うけど……」


「いや、時代劇や大河ドラマはある程度歴史に興味がある人しか観ませんけど、私たちの公演はそうじゃないわけでしょう。だったら、一般的な表現である『幕府』を使ったほうがいいんじゃないですか?」


「その『幕府』って表現が広く一般的に使われていること自体、わたしは問題だと思うんだけどなあ……さっきも言ったけど、『幕府』って言葉は尊攘派が徳川政権を貶めるために作った蔑称で、この単語を用いることによって生じる否定的なバイアスは、中立的に歴史を俯瞰する上でかなりの問題が……」


 顎に手を当てて、少し視線を下向きにしながら、持論を展開する永井先輩。


「先輩、なんか長々と得意げに語ってますけど、要は歴史知識でマウントを取りたいだけなんじゃないですか?」


「…………」


 あからさまに面倒臭そうな態度で言い捨てる中島先輩に、永井先輩は口を半開きにしたまま言葉を失った。


 怒っている、というよりは、驚きのあまり声が出ない、という感じだ。


(これ、かなりまずいんじゃ……?)


 これまでもミーティング中に揉めることは何度かあったものの、永井先輩が毎回、うまいこと場を収めてきた。


 でも、今回はその永井先輩自身が、揉め事に巻き込まれているのである。


 わたしか圭夏ちゃんがなんとかしないと、最悪喧嘩別れなんてことも――


「あ、あああああ、あのっ!」


 そう感じた瞬間、わたしは考えるよりも先に立ち上がり、叫んでいた。


(どどど、どうしよう……)


 とりあえず、注目を集めることには成功したものの、次にどうしたらいいか、まったくわからない。


(お、落ち着け、わたし……)


 今までは、永井先輩が調停役をこなしてきたってことは、こんな時、彼女ならどうするかを考えれば、きっとうまくいくはずだ。


(中島さんは、忖度されたり気を遣われたりするのが嫌いなタイプみたいだからね)


 そう判断したわたしが、軽く深呼吸をすると、脳裏に以前、永井先輩が言っていた言葉が蘇った。


「そ、そそそ、そういう議論の内容と関係のない、ひ、ひひ、誹謗中傷とか人格否定みたいなのは、よ、良くないと思います……!」


「っ……」


 思ったままのことを口にするわたしに、中島先輩が押し黙る。


 別に、今の行動が間違いだったってわけではないだろうけど、でも、中島先輩のことをただ否定するだけじゃなくって、何かしらのフォローもしたほうがいいだろう。


 でも、それはお世辞とかリップサービスでは駄目で、ちゃんと本心からの言葉じゃないといけない。


「あ、あと、関所破りをしようと、政権に刃向かおうとしてるヒロインは『幕府』って、関所で働いている主人公や伴頭は『御公儀』って言葉を使えば、観客に意味が伝わらないってことはないでしょうし、言葉の使い方としても、そんなにおかしくはないんじゃないでしょうか……?」


 そう考えたわたしは、話題を「劇中での徳川政権の呼称をどうするか」というものに戻すことにした。


 確か、幕末ものの大河ドラマでも、そういう使い分けがされていた気がする。


「当時の人々は『幕府』って言葉を使っていなかったって問題は残るけど、観客への伝わり方を考えると、それはしょうがないか……中島さんはどう思う?」


「私は……いや、私もそれがベターだと思います」


 ある程度の譲歩を見せる永井先輩に、中島先輩が同意する。


 まだ気まずい雰囲気は残っているものの、どうにか、大事にはならなずに済んだらしい。


(よ、よかったあ……)


 わたしは全身の緊張を解いて、ホッと胸を撫で下ろした。

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