第16話 スケッチブック
わたしたちが中島先輩の家に到着したのは、それから十分ほど後のことだった。
先輩の家は海沿いに建てられた、公営の集合住宅――いわゆる団地である。
築年数はどれくらいだろう。
正直、かなりのボロ団地で、先輩の家はあまり裕福ではないということが嫌でも察せられた。
「…………」
中島先輩はわたしたちを引き連れ、壁面に「6」と書かれた、エレベーターのない建物の五階まで階段で上り――たぶん、今の建築基準法だとアウトだろう――五○三号室の前で立ち止まると、そのまま無言で玄関扉を開き、足を踏み入れた。
「おじゃましまーす」
「お、おじゃまします……」
中島家の人間ではないわたしたちは、先輩のように何も言わずに敷居をまたぐわけにはいかないので、きちんと挨拶をしてから続く。
すると、狭い土間に女物のスニーカーが一足だけ揃えて置かれていた。
玄関の鍵が開いていたということは、これは先輩の家族――お母さんか姉妹のものだろう。
(先輩、どうして留守でもないのに、ただいまって言わなかったんだろう……?)
少し引っかかるものを感じつつも、わたしは靴を脱ぎ、先輩の後に続いて廊下を歩く。
「ここが、私の部屋よ」
そう言って、先輩は玄関から見て三番目の扉を開いた。
(まさか、初対面の先輩の部屋にまで入ることになんて……)
リビングに通されるものだとばかり思い込んでいたわたしは若干、怖じ
机とベッドが二つずつ置かれていて、かなり狭く感じる上、洋間なので正確な広さはわからないけれど、たぶん六畳間だろう。
中島先輩は衣装作りに興味があると言っていたから、ファッション誌が置いてあるほうの机が先輩のものである可能性が高い。
「センパイって、お姉ちゃんか妹さんがいるんですか?」
あまり広いとは言えない部屋に、机とベッドが二つずつあることに疑問を感じたのか、それとも玄関に置いてあった靴のことが気になったのか、あるいはその両方か。
動機はわからないけれど、とにかく圭夏ちゃんは中島先輩にそう尋ねた。
「……兄なら一人いるけど、姉妹はいないわよ。この部屋は母と一緒に使ってるわ」
それに対して、中島先輩はやや不機嫌そうな態度で答える。
ひょっとして、先輩はお母さんとあまりうまく行っていないんだろうか。
それで、さっきも何も言わずに玄関扉を開けたのかもしれない。
「……へえ、そーなんですね」
わたしと同じように、先輩の心情を察したのか、圭夏ちゃんはそれ以上、その話題を続けようとはしなかった。
「兄が小学生だった頃までは、私と一緒の部屋を使ってたんだけど、流石に中学生の兄と小学生の妹が一緒の部屋を使うわけにもいかなくってね……」
先程とは打って変わり、昔を懐かしむような口調で、中島先輩は言った。
お兄さんのことは好きだけどお母さんのことは嫌いで、だからお母さんと一緒の部屋で寝泊まりしている現状が不満、といったところだろうか。
「……まあ、そうですよね」
しかし、たとえどれだけ兄妹仲が良かったとしても、二次性徴を迎えた男女が同じ部屋で寝泊まりをすると色々な問題が発生する以上、先輩の言葉にただ頷くことしか、わたしにはできなかった。
この家、そんなに部屋数は多くなさそう――たぶん、2DKか2LDKだろう――だから、先輩とお母さんが別々の部屋で寝れば解決、とも行かないだろうし。
「ごめんなさい、どうでもいい話だったわね。それより、スケッチブックを……」
と言って、中島先輩はブックエンドを使って机の上に立ててあったスケッチブックを二冊持って来ると、わたしと圭夏ちゃんに一冊ずつ渡した。
「はい」
「あ……ありがとうございます」
「早速、読ませてもらいますね!」
わたしはおずおずと、圭夏ちゃんは明るく元気に答え、スケッチブックのページをめくる。
「ステキ……シンプルだけど、洗練されてて……」
「うん。こーゆー服なら、あたしも着てみたいかも」
そして、そこに描かれていたデザイン画を何枚か見て、少なくともわたしは正直な感想を口にした。
「……ありがとう。でもね、これじゃダメなのよ」
しかし、中島先輩はそう言って、首を横に振る。
「なんで? すっごくエモいと思いますけど」
「確かにシンプルな服は普段着にしやすいし、装飾が多ければいいというものでもないわ……けど、シンプルなデザインって情報量が少ないから、既存の服との差別化がすごく難しいのよ。そのスケッチブックに描いてあるデザイン画だって、全体的にどこかで見たような感じでしょ?」
「いや、まあ、そうかもしれませんけど……今の時代、完全なオリジナルなんて無理なんだし、最初は誰かの
その圭夏ちゃんの言葉に、わたしは少し驚いた。
別に、彼女が「模倣」なんて難しい言葉を知っていたのが意外だったわけじゃない。
勢いだけで突っ走っているように見えて、創作についてはきちんと学んでいる――そのことが、今の発言からは読み取れたのだ。
実際、わたしが持っている小説の書き方を解説した本にも、似たようなことが書いてあった。
「そうね……けど、クリエイターってその中でもどうにか個性を、オリジナリティを出していかなきゃいけないわけじゃない?」
「それはそうですけど……あたしたちまだ中学生ですし、そんなに焦って思い悩まなくってもいいんじゃ……」
「何を言ってるの。ボーッとしてたら、十代なんてあっという間よ。物事の上達が速い今のうちに、ライバルに差をつけておかなきゃいけないのよ」
「そうなのかなあ……」
「ええ、そうよ」
首を傾げる圭夏ちゃんに、中島先輩は自信満々で力説する。
「……それより、圭夏ちゃん。これだけ素敵なコーデをデザインできるんだし、中島先輩にはぜひとも演劇部に入ってもらいたいよね?」
場の微妙な空気をどうにかしたくって、わたしは二人の会話に割り込んだ。
「そりゃあ……もちろん」
「だよね。それじゃあ……中島先輩のほうは、どうですか?」
「まあ……このまま美術部を続けるよりは、あなたたちと一緒のほうが、成長できそうではあるし……入れてくれる、って言うのであれば、こちらもぜひお願いしたいわ」
「よかった……じゃあ、決まりですね」
どうにか、うまく話がまとまって、ホッと胸を撫で下ろすわたし。
安心したら――なんだか、トイレに行きたくなってきた。
「あの……すみません。ところで、お手洗いは……」
「……玄関側から見て、一番すぐのドアよ」
わたしが尋ねると、中島先輩は呆れ気味に答えた。
せっかくいい感じにまとまっていたのに、台無しだとは自分でも思うけれど、こればっかりは生理現象なのだから許してほしい。
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