第6話

「悪霊退散! あたしに近づかないで!」


 震える声で叫ぶと、魂子は塩の袋を取り出して周囲を丸く囲った。

 黒星の鼻がそれを笑う。


「効かないよ。僕の姉さんは最強だ」


 黒い影が歪な人型に膨らみ、捩じれた両手が生えだして魂子を捕まえようとする。

 影の手は見えない壁に阻まれた。

 力の拮抗する音が、甲高い耳鳴りのような音となって屋上に響く。

 魂子はホッとすると、唖然とする黒星に向けて舌を出した。


「見たか! あたしの塩はもっと最強だし!」

「黙れよ! 手加減してやっただけだ! 姉さんの本気はこんな物じゃない!」


 激昂した黒星が叫んだ。

 あまりの代わり様に、魂子は目を白黒させる。


「そ、そんなに怒る事ないでしょ!? 白神君のシスコン!」

「黙れと言ったぞ」


 黒星が手を伸ばし、虚空を握りつぶすような動きをする。

 呼応するように、影の胴体から二対の腕が生えだし、計三対となって結界を抱き砕こうとする。

 甲高い音は大きくなり、魂子の足元に盛られた塩の堤防がぶすぶすと煙を出しながら黒く朽ち始める。


「う、うそぉ!?」

「だから言っただろ! 僕の姉さんは最強だ! 手間取ったのだって、殺さないように手加減するのが難しいからで、その気になれば一瞬なんだ!」


 パリン。


 ガラスの割れる音にビクリとする。

 振り返ると、屋上のフェンスに沿って並べられた塩の小瓶が一つ割れていた。

 真っ白だった中の塩は、遠目でも分かる程黒く朽ちている。


「……ぁ」


 しまったという言葉を黒星は飲み込んだ。


「あ~! 白神君があたしの結界壊したぁ~!」


 そちらを指さして魂子が叫んだ。


「ぼ、僕のせいじゃない! 勝手に割れたんだ!」

「どう考えても白神君のお姉ちゃんが暴れたからでしょ!」

「姉さんを悪く言うな!」

「お姉ちゃんを操ってる白神君を悪く言ってるの!」

「僕だって悪くない! 君の腕がヘボなのが――」


 割れた一つを中心に、左右の瓶が次々爆ぜる。


「――ぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 ドグチャッ!


 断末魔の絶叫と共に、屋上の中心にそれは墜落した。

 古旗心だったもの。

 先程とは違って、今回の死体は原型が分からない程ぐちゃぐちゃに潰れている。


「――ぅっぷ」


 魂子が口を押えるが、堪えきれずにびしゃびしゃと足元を汚した。

 黒星はそちらを見ていなかった。

 優しさではない。

 そんな場合ではない。

 それよりも、解き放たれた怪異の強度を測る必要があった。


 足元が揺れた事から分かっていたが、心の霊の墜落した場所は放射状に砕けて陥没していた。

 それこそ、数千メートル上空から人が落下した跡のように。


「Bクラスは間違いない。下手したらAも有り得るか」

「……うぇ、えへ、ぁぅ……。白神君、冷静過ぎでしょ……」


 口に残った胃液を吐き、涙目で口元を拭いながら魂子が顔を上げる。


「プロだと言っただろ。こんなのは茶飯事だ」

「ふぇぇ……。心ちゃんの飛び降りには慣れたつもりだけど、これはちょっと……うっぷ……」

「だから帰れと言ったんだ! 君の結界で無理やり抑えられてただけで、もはやこいつはただのバケモノなんだよ!」

「……そんな事、ないもん!」

「アレを見てもまだ同じ事が言えるのか? この手の怪異の行動はそこに宿る想いによって決まるんだ! 古旗心は誰かを道連れにしてやろうと思いながら飛んだんだよ! その想いは君に封印されてる間により凶悪になった! その結果がこれだ!」


 黒星は指さすが、いつの間にか古旗心のぐちゃぐちゃ死体は消え失せて、破壊跡だけが残っていた。


「消えちゃった?」

「……違う。次が来るんだ!」


 その言葉に答えるように、頭上から絶叫が近づいてくる。

 見上げると、凄まじい顔をしたセーラー服の女子が真っ逆さまに落下している。


「に、逃げなきゃ!?」

「僕から離れるな!」

「きゃぁっ!?」


 駆けだそうとする魂子の腕を掴み無理やり引き寄せる。

 次の瞬間。

 頭上で人体が爆ぜた。

 傘に巨大な雨粒が当たって弾けたような爆音と振動。

 二人の頭上にはドロドロした黒い人型の手から伸びた傘が巨大なキノコのように広がっていた。

 ビシャビシャと、周囲に血肉や内臓、肉の付いた骨が散らばる。


「ひぃっ!?」


 怯えた魂子が片足立ちになって黒星に抱きつく。


「くっつくな。姉さんに殺されるぞ」

「ぇ」


 魂子が傍らに立つ二メートル程の人型を見やる。

 泥が流れるような黒い体の側面、魂子の側にだけ、切れ長の裂け目のような目が無数に浮かび、ギョロリと睨みつけている。


「ご、ごめんなさい白神君のお姉ちゃん! あたし、全然そんなつもりじゃなくて! うっかりだったんです!」


 慌てて弁解すると、身体に浮かんだ目玉達は疑わしそうにじっとりと目を細め、程なくして瞼を閉じた。

 足元の方の幾つかは、まだ怪しむような上目遣いを浮かべていたが。


「気を付けろよ。姉さんが守るのは僕だけだ」

「ぅ、ぅん……。ありがと……」

「勘違いするな。君の生き死になんか僕はどうでもいい。一般人を死なせたら怒られるし、姉さんの評価を下げる事になるから助けただけだ」

「……白神君ってツンデレ系?」

「………………見殺しにしてもいいんだぞ。事故死って事にすれば言い訳もできる」

「照れなくてもいいのに。人を助けるのは恥ずかしい事じゃないでしょ?」

「……もういい。黙れ」


 ウンザリして舌打ちを鳴らす。

 そうしている間にも、古旗心の霊は屋上の地面に染み込むようにして消えた。


「――ぁぁぁぁぁぁああああああああ!」


 今度は背後に堕ち、爆ぜた肉体が散弾のように二人を襲う。

 黒星が念じるまでもなく、姉の怪異が傘を横にして防いだ。


「無駄だ。ライフル狙撃だって姉さんは止められる」

「……白神君のお姉ちゃん、凄いんだね……」

「そりゃそうさ! だって僕の姉さんは――」


 得意気に言いかけて、黒星は慌てて顔を引き締めた。


「姉さんは、なに? もっと聞かせてよ」

「う、うるさい! 君には関係ないだろ!」

「あるでしょ! 今だって助けて貰ってるんだし!」

「君じゃない! 僕を守ったんだ!」

「「「「「ぁぁぁぁぁあああああああ」」」」」


 今度の声は一つではない。

 数え切れないほどの絶叫が空から近づいてくる。


「姉さん!」


 姉の身体が弾けて、巨大なゴムボールのようになって二人を守った。

 爆撃のような轟音と振動を完全に防ぐと元の歪な人型に戻る。

 辺りは臓物と血と骨の地獄絵図。


「僕に吐くなよ」

「……大丈夫。もう空っぽだから」


 青い顔でえずきながら、魂子が力のない笑みを浮かべる。

 黒星は鼻で笑った。


「お前達! 大丈夫か!?」


 屋上の扉が勢いよく開き、現れた中年教師が叫んだ。


「教頭先生! 来ちゃだめ!?」

「なんだこりゃ!? なにがどうなって――がぁ!?」


 姉の手が伸び、教頭を塔屋に押し込むんでドアを閉じた。

 直後、教頭の立っていた場所を古旗心の霊が直撃する。


「止めて心ちゃん!? 殺しちゃうよ!?」

「言っても無駄だって言ってるだろ!」

「言ってないし! 白神君だってお姉ちゃんに話しかけてるじゃん!」

「屁理屈言うな! 姉さんは特別なんだ!」

「そんな事ない! あたし毎日心ちゃんにお参りしてるけど、気持ちが伝わってるなって思う事あるもん!」

「……そんなの、君の妄想だろ」

「なんでもいいから時間を頂戴! もう一度塩の結界を張れば心ちゃんも大人しくなるから!」

「そんな余裕はないしやった所で怪異の強度が上がるだけだ!」

「でも――」

「お前の相手をしてる間に死人が出たら責任取れないだろ!?」


 魂子の顏が悲痛に歪む。


「でも、でも、でも……」


 そう繰り返して魂子は泣き出した。


「……諦めろ。僕が来た時点で時間切れなんだ。アレはここで始末する」


 やり辛そうに呟くと、黒い影が床を広がり、世界を闇色に染め上げる。


「……なにしたの?」


 白黒になった世界で魂子が尋ねる。


「巻き添えが出ないように結界を張ったんだ。今ここには、僕達とアレしかいない」

「だったら――」

「戦闘用の結界だ。長くは持たない。そうでなくとも、君の自己満足に付き合う義理はない」

「――ぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああ!」


 今度の声は正面から。

 ミサイルみたいに一直線に飛んでくる。


「姉さんを舐めるなよ」


 足元の影から巨大な手が生えだし、水平に飛んできた古旗心の霊をキャッチした。


「これで終わりだ」


 影の手の中で暴れ回る古旗心の霊を睨みつけ、黒星は顔の前に掲げた右手をグッと握った。

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