その時

 その日、ご主人様の帰りは遅かった。


「ただいま……」


 帰ってきたご主人様の声は暗い。


「おかえりなさい。すぐに食事が出来ますよ。それともまずはお風呂に入りますか?」


「…………いろはさん、その前に大事な話を聞いてくれますか?」


 ご主人様の表情や仕草、声で何となく察しは付いた。


「…………はい」


 私とご主人様は居間へ移動して、ソファーに横並びで座った。


「僕が所属する部隊の出兵が決まりました」


「そう……ですか」


 ずっと予感はしていた。


 いつかは言われるかも、と覚悟していた。


 でも、いざ言われると心が酷くざわつく。


「多分、いいえ、絶対に生きて帰って来ることは出来ません」


「嫌です」と私は即答する。


「嫌です、って言われても……」


 ご主人様は困った表情になる。


「私はご主人様がいなくなることに耐えられません……」


「生活が心配ですか? もしも僕がいなくなったら、僕の財産の全てはいろはさんに渡します。だから、当面の生活は大丈夫なはずです……」


「前にも私は言ったはずです。お金とか、生活の心配をしているのではありません!」


 私はご主人様に抱きつく。


「ご主人様がいなくなるのが嫌なんです。怖いんです。耐えられません! 私にとって、ご主人様はこの世界で唯一、心を許せる存在です」


「ありがとうございます。でも、安心してください。あなたは元の世界へ戻れます」


「…………え?」


 ご主人様の唐突な言葉に理解が追いつかなかった。


「ごめんなさい。僕は今まで嘘をついていました。転移者が元の世界へ戻る方法を僕は聞いています」


 聞いてる?


 それはどういうことだろう??


「転移者はこの世界に痕跡を残す前なら、一年周期で転移した場所から元の世界に戻れるらしいです」


「本当ですか?」


「確信はありません。でも、あの日、僕にいろはさんを買うように勧めた女性がそう言っていました」


「私は買うように言った女性?」


 そんな話、初耳だ。


「はい、あの日、僕は全てに絶望していました。そんな僕に女性が話しかけてきたんです。とても不思議な女性です。独特の雰囲気がある人で、人間ではないのでは、とさえ思えました」


 もしかして、その人が私をこの世界へ転移させた人物なのかな?

 

 だとしても、何故、私じゃなくてご主人様の元に現れたのだろう?


 私は何も聞いていない。


「その女性が『奴隷オークション』で売られている『黒い髪と瞳』の女性を買えば、運命が変わると言いました。自暴自棄になっていた僕は初めて奴隷オークションの会場に行き、そして、あなたを買いました」


 奴隷オークションなんて場所が似合わないご主人様が、なぜあの場所へ居たのか、その謎がやっと解けた。


 どうやらこの出会いを仕組んだ人間、ううん、転生転移系で言うなら、女神がいるらしい。


 だとしても、分からない。


 私にはご主人様の運命を変える力なんてない。


 なんの能力も無かったから、あっという間に奴隷に堕ちた。


「あの女性の言った通りでした。僕の運命は変わった」


 それなのにご主人様は満足そうに言う。


「いろはさんは望んで、ここへ来たわけじゃないのに、本当に色々なことをしてくれました。僕は子供の頃に両親も、兄も失ったので、家族のことをよく覚えていません。だから、いろはさんが居てくれて、家族ってこういうものなのかな、って思えました」


「ご主人様……」


「す、すいません。いろはさんをお金で買ってきておいて、こんなことを言う資格はないですね」


「そんなことはありません」


 私が即答するとご主人様はホッとしたようだった。


「いろはさんはずっと心配していましたけど、その……いろはさんと〝愛し合うような行為〟をしなかったのは、その行為で、この世界に痕跡を残すことになってしまうかもしれないと思ったからです」


「どういうことですか?」


 察しの悪い私に対して、ご主人様は気まずそうに、

「子供が出来たら、それが痕跡になってしまうかも、と思ったんです」

と答えた。


「あっ……」と私は声を漏らし、この一年近く、ご主人様が私に性的のことをしなかった訳を理解する。


 ご主人様はずっと私の為に、私を元いた世界へ返す為に、私を抱こうとしなかった。


「すいません。僕は嘘つきで、自分勝手です。もっと早く話せば、良かったのに……」


 ご主人様は頭を下げる。


 私に怒りは無かった。


 だって、ご主人様以外に買われていたら、早々に戻る権利を失っていたかもしれない。


「本当に優しい人ですね……」


「はい?」


 元の世界に戻りたい、と思う気持ちは今もある。


 でも、最近は戻りたい理由が分からない。


 未だに家族や友達のことは思い出せない。


 アニメ、漫画、小説のことは気になるけど、どうしても続きが見たいわけでもない。


 元の世界で、私が何を生き甲斐にしていたか、それが思い出せない。

 無かった、とさえ思えてくる。


 ご主人様に必要とされて、感謝される、今の生活には充実感がある。


 今の私が、元の世界とこの世界、どちらかを選ぶとしたら……


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