「いろはさん、本当に無理はしないでくださいね。危ないとか、嫌だと思ったら、すぐに引き返して良いですからね」


 ご主人様は朝から三度、同じことを言う。


「大丈夫です。ほら、早くしないと遅刻しますよ」


 なおも心配そうなご主人様の背中を押して、仕事へ行ってもらった。


 ご主人様が出て行ってから、大きく深呼吸をする。


 見栄を張ったが、外は怖い。


 でも、首輪まで外してもらったんだ。


 ご主人様の役に立ちたい。


 私は着替えを済ませて、玄関へ向かった。


 買ってもらった靴を始めて履く。


「…………」


 ドアノブに手をかけて動きを止めた。


 大丈夫、ここは都市だから治安が良い、ってご主人様が言っていた。


 女が一人で出歩くと目立つけど、いきなり襲られるようなことはない……はず。


「行くぞ……行くんだ……行け……」


 動こうとしない体に命令する。


 でも、中々、動けない。


 ――そうだ、やっぱり止めよう。


 ご主人様には頑張ったけど、駄目だった、って言おう。


 ご主人様は優しいから許してくれる。


 そう、絶対に怒ったりしない……


「でも、甘えてばかりじゃ駄目だよね……」


 大きく深呼吸をして、ドアを開けた。


「…………」


 私は初めてまともな状態で外の世界に触れた。


 大通りへ出る。


 戦時中、というからもう少し暗いと思っていたけど、人は多い。


 それでも元の世界の池袋とか、秋葉原とかよりは全然、人は少なかった。


 人の流れに乗り、ご主人様から教えてもらった配給所の場所へ向かう。


 初めて歩く場所だけど、大通りを真っ直ぐ進んで突き当りを右に曲がるだけの簡単な道のりだ。


 問題はない。

 

 でも、人の視線を感じる。


 もしかして、奴隷だということがバレてるの?

 

 鏡で見たら、首には首輪の痕が出来ていたので、今はスカーフを巻いている。

 だから、バレるはずはない。


 じゃあ、私が黒髪だからかな?


 周囲の人の髪の毛は明るい色ばかりで、黒髪の人はいない。

 だから、珍しいと思われているのかもしれない。


 それか、そもそも私のことなんて誰も見ていない。


 私がビクビクしているから、見られていると誤解しているのかも……


 色々なことを考えていると体が熱くなる。

 大して気温は高くないはずなのに発汗していた。


 頭がクラクラする。


 それでも何とか配給所へ到着した。


「そんな……」


 到着すると長蛇の列が出来ていた。


「並ぶしかないよね……」


 私は最後尾に並んだ。


「…………」


 並んでいる最中、私はずっとビクビクしていた。


 話しかけられたら、どうしよう……

 奴隷だってバレたら、どうしよう……


 そんなことを心配しながら、俯いて列が進むのを待つ。


「次の人」


 そして、やっと私の番になった。


「配給券を提示してください」


「は、はい」


 配給をしている人に言われて、ご主人様から預かっている配給券を渡す。


「確認しました」と言いながら、袋を渡される。


「あ、ありがとうございます」


 私は袋をもらって、足早にその場から立ち去った。


 その後は一目散に家を目指す。

 帰り道のことはあまり覚えていない。


 もしかしたら、配給された物資を強奪されるかも、と思ってギュッと抱える。


 でも、私が心配したようなことは何も起こらなかった。


「ハァ……ハァ……」


 帰宅した私は玄関の鍵をガチャ、と閉める。


「やった! ちゃんと出来た!」


 こんな子供のおつかいみたいなことが出来ただけなのに嬉しかった。


 外の世界に触れて、ご主人様以外の人と話せた。


 一歩前進だ。


「でも、凄く疲れた…………」


 玄関でへたっと座り込む。


 体に力が入らない。


 そして、そのまま寝てしまった。




「いろはさん……!」


 少し遠くで声がした気がする。


「いろはさん!」


「え? あっ!」


 ご主人様が私の身体を揺すっていた。


「良かった。どうして、玄関で倒れているんですか?」


 ご主人様に言われて、私はあのまま寝てしまったことに気が付いた。


「も、申し訳ありません」


「謝ることはないですよ。大丈夫ですか?」


「はい、大丈夫です。外に出たら、少し疲れました」


 私は、あはは、と笑った。


「でも、ちゃんと配給はもらってきましたよ」


 私は握り締めていた袋をご主人様に渡す。


「頑張りましたね」


 こんなことが出来ただけなのに、ご主人様は褒めてくれた。

 

「でも、本当に大丈夫ですか? 無理そうなら、明日からは僕が……」


「だ、大丈夫です! 久しぶりの外で疲れただけですから! だから、明日も私に行かせてください!」


 私はご主人様に詰め寄った。


 するとご主人様は笑った。


「どうしたのですか?」


「いえ、いろはさんは頑固だから、こうなると引かないと思いまして」


 ご主人様にそんな風に思われていたなんて、初めて知った。


 でも、思い返すと結構、心当たりはある。


「さてといろはさんが貰って来た配給でご飯を作りますか」


「いえ、料理は私が……」


「僕がしたい気分なんです。……そうですね、これは『命令』です」


 ご主人様は少しからかうように言う。


「分かりました。それでは『奴隷』の私は命令に従います」


 私もからかうように返した。

 

 最近はこういうやり取りも増えてきた気がする。


 私はご主人様を立てるようにしているけど、距離は本当に近くなった。


 時々、夫婦ってこれに似ているのかな、と思ってしまう。


「いろはさん、熱があるのですか? 顔が赤いですよ」


 ご主人様に顔を覗き込まれた。


 そんなことをされたら、もっと顔が赤くなってしまう。


「だ、大丈夫です。そ、そうだ、今日はまだ浴室の掃除をしていないんです。ご主人様が料理をしている間にやっておきますね!」


「えっ? あっ、はい、お願いします」


 ご主人様と奴隷の私。


 この生活が出来るだけ長く続けばいいな、と願っていた。





 でも、日常の崩壊は突然に……ううん、予感はしていたけど、考えないようにしていたんだ。


 ――――一か月後、ご主人様は戦地へ向かうことになった。

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