FILE:7-2 ―― 猿夢への嚆矢
採光窓が次々粉砕。
ガラス片と共に黒い塊がなだれ込んでくる。
最初に侵入した猿は、窓からそのままフローリングに叩きつけられ死亡、その上に落ちた個体がそれをクッションに生き残る……それが繰り返され、文字通り猿の山のようなおぞましい構造物が完成する。
構造物は続々と生まれ、山並みのように連なった。
猿の山へ着地した個体は下山を開始。
「一匹が入り口を開けに行きました! 」
男の一人がすかさず報告。
シャビはドアに向かう猿に狙いをつけたが、他の猿の波に埋もれるように消えた。
「入り口は放っておいて」霧雨の指示。
霧雨は馳芝と同じく二丁拳銃を扱う。彼女の指は小さな手に対してしなやかに長く、トリガーは簡単に引ける。
「反動で脱臼すんなよ」
「お黙り」
立て続けに銃声が轟くと、銃声を恐れたのか群れの侵攻が遅くなる。とはいえ止まりはせず、確実に包囲を狭めてくる。
「ドア開けられたぁぁああッ! 」
「見れば分かります! 」シャビの断末魔にツッコみつつ。柄木は接近した猿の一匹をフルスイングで月まで吹っ飛ばした。
開いた入り口から、猿が堰を切ったように侵入してくる。
荷稲は矢を一度に二本引き放ち、猿を二匹ずつ仕留めていく。
「おいおい、時代劇か? 」
シャビが荷稲を横目で見ながら言う。
「称賛と受け取りましょう。」
それから。
「ひっ、この、来んな……! 」
一延は、薙刀の先端にナイフを巻きつけ戦っている。
「まさか剣道で猿と戦う日が来るとは! 」
縦木は木刀で応戦。
二人ともある程度の熟練者。猿の攻撃をいなしつつ、周囲と連携を取って善戦している。
「柄木、イけ! ホームランバッターだお前は! 」叫ぶシャビ。
「はい! 」
金属バットで同胞を殴り倒す柄木の迫力に、猿の群れは本能で恐怖する。それは銃による理解不能な死よりも、はるかに本能に訴えかける物理的な恐怖だった。
「これ燃えます! 」
荷稲に矢を渡す女が、アルコールスプレーとライターを持って叫んだ。二つの組み合わせが火炎放射器になることに気がついたのだ。
「名案です! 」馳芝がリロードしつつ応答。
「私、使ってみます! 」
荷稲より前に出て、女がスプレーを噴きライターで火をつけると火炎放射が起き、群れは怯えて後ずさる。
「今のうちに移動しましょう! 」
集団は壁に沿い、一気に非常口側へと距離を稼ぐ。
しかし、その足はすぐに止まる。猿が銃や火炎に怯えず、後ずさりを止め、堅牢な壁のように微動だにしなくなったのだ。
状況を訝しんだ霧雨がある個体を視認する。
「あの猿……いや、ゴリラみたいね、あれ」
猿の山の頂上から、地に両手をついて戦闘を傍観する一匹の猿。肉体はゴリラそのもの。ニホンザルにもチンパンジーにも見えない、この場における明らかな異形。
「ボスか」
「でしょうね」
馳芝と霧雨が頂上を睨みつける。
「火炎放射はとっとけ」
シャビの指示で火炎が止むと、再び猿の勢いが戻った。勢いに乗じ、頂上のボスはゆっくりと下山を始める。生存者の間に動揺が芽生えた。
「勝てるの……あれ」
「無理よ、あんなの……」
「僕のとこには、絶対……来ないでくれよ……」
「全員動揺しないで、落ち着いて」
「さっきの猿が倉庫へ入りました! 」
皆がボスに気を取られた隙を突き、最初に入り口を開けた猿が倉庫へ侵入。
「バスケットボールを二つ持ってます! 」
その猿は群れの後部へ合流。
そこから、放物線を描くようにボールを遠投。球威は人間並で、当たったとしても問題はない。だが、猿の目的はあくまで、一石を投じることであった。
「うおっ!? 」
一延の顔の、その真横をボールが掠めた。
ボスの存在を最も恐れ、その出現に最も動揺していたのは彼だった。ボールに対し異常に驚き、思わず薙刀を握る手が緩み、さらにもう一球が額に当たると、思わず薙刀を落とした。遠くから猿の
「ぐっ……! あ、おいやめろ! 」
猿は一瞬の隙を見逃さない。落ちた薙刀を掠め取り、片手で槍投げのように持ち上げる。
先端にナイフを付けたそれを、一延は恐れることしかできなかった。
その光景を見た荷稲は仲間に伝えた。
「薙刀が猿に渡った! 」
あろうことか薙刀を持った猿は、後方の、まだ
「ええいっ! 」
生存者の集団は、少しずつでも確実に非常口に近づきつつある。真反対だった所から、残りを半分とする所まで来ている。
薙刀を奪われた一延は、生存者の一人が持っていた予備の薙刀を受け取り前線に戻る。
「まだ戦います! 」
「でなきゃ困る! 全員まだまだイケるよなぁ! 」
シャビの檄に全員が雄叫びをあげた。
ところが。
全ての猿が、最後尾を振り返る。
………………。
人も猿も、会場の全てが気圧され、沈黙した。
群れは厳かに割れる。
最奥から来たるは、薙刀を携えたボス猿。
その風格たるや、間違いなくこの場で最も強大な暴力。
「あれが来るまでに……! 」
馳芝がそう言いかけた時、猿は包囲を解き、全て非常口側に移動し、壁のように連なった。
「んだお前らァ! 」
シャビが怒号を飛ばす。
「まさか陣形を組んだのか! 」
疑った荷稲はその群れに一矢放つも、道を開ける気配も、引き下がる気配もない。それどころか、さらに威嚇の声をあげて
「突破の手段はあるんですか!? 」柄木が情けない声をあげた。
ボスとの戦闘と、群れとの持久戦を同時に処理する戦力は無い。
「お前が突っ込め! 」シャビの一喝。
「無理です、ごめんなさい! 」
馳芝と霧雨は、この時、同じことを考えていた。
ボスを倒さずしてこの状況を脱する手段はない。そして一人の犠牲も出さずしてボスを撃破する手段もない。
ここから二人の考えは分かれる。
「(私が犠牲になってでも、あの猿を倒す)」
「(民間人を犠牲にしても、あの猿を殺す)」
馳芝と霧雨が、マガジンを換装しつつ顔を見合わせる。霧雨を見下ろす馳芝は、ひょっとこの面越しに心中を読み取った。
「ふん、所詮チンピラか」
「上等でしょう? 目的が一緒なら」
ボスを仕留めるという目的は同じ。
「銃で殺せるかしら? 」
「分からない……どうだろう」
「何言ってるの」
霧雨が二丁の拳銃をクロスさせ、ボス猿に差し向ける。
「銃は神様でも殺せるの」
計十二発の正確無比な弾幕が、まだ三十メートルは離れているボスの肉体に突き刺さる。それでも。
「あ、前言撤回していいかしら? 」
ボスは怯みもせずに猛進を開始。槍投げのように薙刀を振りかぶる。
「くるぞ! 」シャビが叫んだ。
槍投げ選手が槍を九十メートル投げる場合、その初速は約百キロ毎時。
ボスの種をチンパンジーと仮定すれば、成獣の握力は約三百キロ。本来日本に野生のチンパンジーはいないが、動物園から逃げ出したばかりの個体や、偶然環境に適応した種が一匹でもいたとすれば。
この猿は、その偶然であった。
並の個体を上回るフィジカルと知性を持ったこの特異個体が、直感的に槍投げの動作で槍を投げた場合、それは果たして時速何キロで飛ぶか。
そのうえ、薙刀の先にはナイフがあり、それが槍としての重心を安定させる。
人の反射神経はどうあがいても、反応までに0.1秒以上の時間を要する。訓練を受けていないとすれば、さらに長い時間。
超速の槍に反応できず死亡したのは、訓練されていない者の一人だった。
「あ、え、これ、う、そ」
荷稲に矢を渡し、アルコールスプレーとライターで戦っていた女性、槍となった薙刀は、彼女の右胸に刺さった。
まもなく、吐血。
彼女が手に持っていた矢の束が、からから、と音を立てて散らばった。
足から順に力が抜け、うつ伏せに倒れる前に荷稲が抱きとめ、横向けに寝かせる。
「は、るく、ん」
震える手を、宙へ伸ばす。その先には猿の遺体があるばかり。彼女の息子は、最後方でそれを目撃する。
「ご、めん、ね」
掠れた声。意識の途絶。
先程からあまりに現実離れした光景を見ていた子どもたちだったが、生存者がほぼ怪我をせず、死にすらしない状況で、正直、危機感を抱いていなかった。
特に、小さな男子はそれをアトラクションとすら錯覚しかけていた。
手下の猿どもが囃し立て、ボスが突撃を再開する。
荷稲は自ら矢を番えようと、床の矢に手をかけたが、その必要はなかった。
「これ、早く」
母を殺された小学生高学年ほどの息子。彼は母の役目をすぐに引き継いだ。それは無意識の行動であり、この極限の状況が、戦う意志を少年の中に芽生えさせたように見えた。
「仇討ちは、任せなさい」
荷稲は目を眇めて狙いを定める。荷稲の視力は卓越しており、それが弓道の才能を支えている。ボスの肩部や胴体に出血があり、表情に浮かぶほんの僅かな苦悶をも読み取っていた。
「確実に、頭を射る」
―― 剛弓、一閃。次回へ続く。
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