自己の溶解
冷たい夜風が濡れたつま先に滲みる。転んで全身を泥塗れにしたら相当に不愉快だろうと思い、体重をかけても歪まなそうな、しっかりとした木の根を足の裏で慎重に探りながら歩く。
頭上では黄いろい月がテラテラと輝く。雲はあまりなく、清々しい空である。
ルートを間違っていなければもう少し登ったところにある湖の畔に寄宿舎があるはずだ。カルトの集団生活拠点だった場所で、今はもう誰もおらず朽ち果てているらしい。
はて。ルカは不思議に思った。なぜ自分はひとりでそんなとこへ向かわさせられているのだろうか。
考えたところで拒否権など無いし、行けば理由がわかるのだろうと一旦疑問を飲み込む。歩いていくうちに、木の隙間から揺らめく月が見えた。
水面だ! 湖に近づいてきているのだ。
湖を目指すうちに、少し開けたところに出た。懐中電灯をあたりに巡らせると、建物の影が浮かび上がる。写真と照らし合わせ、目的地に辿り着けたことを喜んだ。
ただ、到着した後のことは何も指示されていないので困った。とりあえず入ればいいのだろうかと恐る恐る建物に近づくと、玄関らしき扉がひとりでに開き、ルカは仰天して後ずさる。
玄関から姿を表したのは腰の曲がった弱々しい老人であった。老人はルカの姿を認めると、頭を恭しく垂れ、掠れた声で言った。
「ようこそおいで下さいました」
玄関を通され、彼がルカをずっと待っていた事、ここにいる誰もがルカを歓待すること、ルカの訪れが大変な歓びであることなどを老人から伝えられたものの、ルカは思考が追いつかず曖昧に頷き、ゆっくりと言葉を選びながら老人に問う。
「ええと……ここには…何人で暮らしているのでしょう」
「14人です。…みながグラアキを崇敬しております。そしてグラアキの言葉を伝える使者を……あなたを待っていました」
グラアキ……グラーキ?
「ああ、と……いえ、ここにいる皆さんを、ガッカリさせるようなことにならなければよいですが…なぜ、僕が使者だと?」
「夢……啓示…ある種のイメージを受け取れるのです。あなたが使者としてやってくる印象を、随分前から見ていた」
老人のよたよたしたぎこちない歩行に不安を抱きつつ、なんとか会話が成り立つことにルカは安堵する。
それにしても、主は僕を騙してここに連れてきたのだろうか。人が居るなら居るといってくれれば相応の心構えはできたというのに。
グラアキとは、僕の崇拝する神と同一と捉えても良いのだろうか。
廊下の突き当りに両開きの重厚なドアがある。老人が震える手で金属の取っ手を掴むと、難儀な様子で押し始めた。
「重たいでしょう。僕が開きますよ……」
ルカはそう言いながら返事を待たずに扉を押し開く。実際のところ、老人が扉を開くために苦労する時間が鬱陶しかったのだ。
ドアの向こうは廊下よりもじっとりと湿っているようだった。小規模な集会場のようになっていて、左手にはきちんと並んだ錆びた鉄パイプの椅子に人々が座っており、右手には舞台の奥に幕が引かれたステージがある。ステージ上には演台が置かれている。人々にまじまじと見つめられ、ルカはバツの悪い気持ちになった。
「どうぞ、壇上へお上がりください」
老人が促すので、しぶしぶ舞台に登り、演台に両手をついて尊大な雰囲気を醸し出しつつ人々を見た。13人……たったいま席についた老人を含めると14人いる。話に間違いがなければこの建物に居る全員がここに集まっている。
全員が椅子の上で項垂れているように見えるのに、それと同時にルカを見つめているようだった。どちらかが錯覚なのだとルカは思った。きっと、くたびれた、生気のない様子が項垂れていると錯覚させているのだろう……そうでなければ、人々の熱心な信仰心が視線として受け取られるから、顔を向けていると感じさせられるのか。
ともかく、ルカは何かを言わなければならなかった。グラアキの使者として相応しい言葉を。ルカは牧師のように説教なんてしたことがない。手元に聖書のようなものも無い。
「……世界は、人類は………人類とは、蛹であり……」
もごもごと歯切れの悪い物言いが続き、ルカは頭の奥が冷え冷えとして、呂律が回らなくなっていくのを感じた。
「グラ、グラアキの船は、太古、非常に古い都は……」
目頭が熱くなり、涙が零れそうになるのを必死に堪える。頬がかっかとした。今すぐ勘違いを訂正して、壇上からさっさと降りて建物を飛び出したい衝動に駆られて、壇上に置いた両手を強く握りしめる。
「……グラーキ、グラーキへの崇拝は、その、その根底は……」
ぐるぐると頭を巡らせるうちに、突如、ある記憶が蘇った。回転する思考の隅でグラーキの黙示録の1篇が閃いたのだ。
『グラアキは人類を支配し、従者とするべく地球へやってきました。グラアキが人類にあらゆる智慧を齎し、生死などという不毛なサイクルから脱却させることでしょう。我々人類はその慈悲を受け入れ、人類の正当な支配者を知ることとなります。そして、当然のことをするのです。かの者の存在する空間は遠く隔たりながら常に隣りにあるでしょう。神は人々を導くためにその境界を破り、多くの使者を送りました』
……そう、その一人がいまここに立っている……
ともかく、どうにかなったようだ。
人々はルカの下手なスピーチを聞き、感じ入ったらしい。ペタペタと滑った音の拍手を聞きながらルカは安堵のため息をついた。
僕はこんなことのために山登りをさせられたのか。もう帰ってもいいのだろうか。
やがて人々はゆっくりと扉から出ていく。ルカの前には老人ともう一人の女だけが残った。
「もちろん部屋は用意しております。案内しましょう」
女がそう言うので、ルカはステージを降りて従う事にした。少なくとも今晩はここで過ごすことになっているようだ。
「空も湖も見える最上階の部屋です。お気に召したら幸いですが」
きしむ階段を登り、三階にある部屋まで黙ってついていく。ルカにとって、寝起きなど外でもできるから安全であればどうでも良かった。
部屋はきちんと掃除されているようだったが、湖に面しているからか妙にジメジメしている。よく見ると窓は枠だけでガラスがなかった。窓の下に置かれたベッドにはシーツが敷かれているが、シーツの端っこには少しカビが生えている。壁際に設置されている机は、足にくちゃくちゃの紙を挟まれている。ガタつきを抑えるためだろう。
「ありがとうございます。わざわざ個室を用意していただいてしまって」
ルカは、寝起きには問題なさそうな部屋を眺めて礼を述べた。
窓は外側にガードがつけられていて、雨が降りそうなときは下げれば吹き込まないとのことなので、快適さもそれなりに保証されているようだ。
「食事は朝と夕の2回、お持ちいたします。その他の用があれば、この施設の誰にでもなんなりとお申し付け下さい」
ルカは、妙な抑揚のある喋り方だと思いながら、ふと女の足に目を向けた。
ステージに立ったときには人々が一様にゴムのサンダルを履いてると思っていたが、それはゴムのようになった足だった。そのことに今更気がついたルカは少しだけ怖くなり、早速やりたいことがあるなどと言ってさっさと部屋で一人きりになろうとした。従順なふたりは思惑通りに立ち退いたので、その試みは成功したのだった。
カビ臭いベッドに倒れて、この奇怪な状況に思いを巡らせた。
グラーキの教団があるのは良いとして、なぜ僕が単身でここに送られたのか。なぜここが教団であることを教えてくれなかったのか。そしてなぜ僕に司祭のようなことをさせるのか……自分の主が嗜虐的で、ルカの四苦八苦する様を笑うような性格であることを思い出し、僕がグラーキの信者の前で恥をかく事を喜んでいるのだろうという結論に至った。
信者たちは自分の信じる神の送った使者が無能なガキでガッカリするだろう。それを見てまた主は笑うのかもしれない……期待などした人間たちの失望を美味しく食べるのだろうか。
行って帰る予定だったので暇をつぶす道具など持ってきていない。通信器具も置いていくように指示されたから、主に直接確認する手立ても無い。
ああ、畜生。通信器具を置いてくように言われた時点で、主は僕をもてあそぶつもりだったのだ。そうでも無ければ、通信する手段を減らす利点がない。
ベッドに横になりながら星を見上げた。満月なので星は少ないが綺麗な夜空だ。凪いだ湖に反射して、星空に囲まれているようにも見える。
そういえば、一人で寝るのなんていつぶりだろう。ルカは寂しくてたまらなくなる前に眠ってしまおうと思い、掛け布団を頭まで被って丸くなった。
2つの大きな月が瞼の裏で輝いている……月は多くのことを魔術師に教えるそうだ……ルカには全てが不可解な言葉が空の月と映る月とを反復し続ける……
けたたましいベルの音でルカは飛び起きた。窓の外に月はなく、夜明け直前の鈍い紺色の光が部屋を満たしている。
目覚ましか?ルカは鳴り続けるベルの音の根源を探った。この僅かなくぐもりは部屋の外からしているからだろう。廊下に出て音のなる方向に目をやると黒電話があった。
出てもいいのだろうか?
けたたましい音が頭に響く。
僕はこの電話に出なければならないのではないか?
フラフラと電話に近づき、受話器を取る。
「ルカくん!どうよ、うまく行ったか?」
「グラーキー様?」
ルカは素っ頓狂な声で主の名前を呼んだ。
「グラーキー……ここじゃグラアキと発音したほうがいいぜ。うん、それはどうでもいいんだがな、演説はうまくやれたかい」
「グラ、アキ。グラアキ様。はい、ブーイングは起きませんでしたよ」
「よしよし。お前は声がいいから自信を持って喋れば何でも様になる。気を抜いてやれよ。今日はここの奴らのために教えを書いて、明後日また説法してやれ」
「そんなことできるとお思いですか。僕にはそんなもの書けませんって」
「やってみろよ。昼頃また電話するからその時あらためて無理かどうか話し合おうぜ」
そう言い放たれ、電話が切れた。困ってしまったがやるしかない。施設の人が朝食を運んできたら、書くものを持ってきてもらおう。それからで良いだろう。
部屋に戻ると空はすっかり朝の色になっていた。朝食まであとどれくらい時間がかかるだろうか。部屋の中に暇を潰せるものがないか探していると机がガタガタすることに気がついた。詰め物をしているのに……と確認すると、むしろ挟まれた紙のせいで足のバランスが崩れているらしい。紙を抜き取ると机のガタつきは治まった。
紙を広げると鉛筆で何かが書かれている。内容を確認しようと全部広げる前にドアを叩かれた。
「朝食をお持ちいたしました」
朝食はひどい味だった。ゼラチンっぽいヌルヌルした何かが浮かんだしょっぱいスープがお椀に一杯ぽっち。寺だってもう少し食い出があるものを出すだろうに。
さっさと食べ終わると紙を取り上げる。シワシワで筆跡も薄いので、紙をくるくると回しながらどの向きで読むのかを探った。
やがて正しい向きを見つけると、書かれていることをじっくり読み解く。なんたって文字が掠れて汚いのだ。朝食の時に持ってきてもらった筆記具でその内容を転写した。
『教団員…25人 施設のトップは老人?名前を教えてくれない。意味がないと繰り返す。教義か』
『集団でありながら集団ではない。神との合一?全員が同じ意識を共有。思想の統一の比喩か。集団生活によって強める可能性』
『霧の中に人々?外出し確認しようとするも野生動物のおそれがあり断念。要調査』
『子供が説教をしている。何故?丁重に扱われている。血筋か』
『比喩ではない。全員が同一の意識を持っている可能性が排除できない。悪夢。精神の衰弱。予定より早く下山する。』
『起きたらドアに鍵。窓は外から何らかのかたちで封鎖。逃げようとしていることがバレた。何故?もう出られない。神との合一。救済?』
『日付の感覚がない。もう何日もまともなものを食べていない。あの気持ちの悪いスープが旨くなってきた。味覚がおかしくなっていく。』
『乗り込むべきではなかった。私のあとに来たものは、スグ立ち去るように。恐ろしい集団。この土地自体が呪われている。命が惜しければ立ち去るように』
『グラアキ。支配者の名前。素晴らしき啓示。』
『正気のうち命をたつ。上浪辰夫 もしゲザンできたらかぞくにシにました、おしえてください』
何らかの調査のために来て、出られなくなったから死んだのか。不思議なことだ。なぜこの人は信仰することを選ばずに自死することにしたのだろう。形だけでも信仰を示せば一時の難は逃れたはずなのに。
まあ、一般人の感覚なんて僕には不可解なものだ。ルカはくだらないことに時間を費やしたことにため息をつき、主に言われた仕事に取り掛かった。
取り掛かった…のだが、鉛筆を握り、先を紙に押し付けたまま固まってしまった。やはり何もできない。部屋の中をぐるぐると歩き回っても何も出てこない。
「えー…グラーキの黙示録番外編、鏡面からの侵入……ではなくて、意識の合一についてとか…」
そんなことを呟いているうちに時間が刻々と過ぎ、やがて電話のベルが鳴り響いた。
「グラアキ様!やっぱり全然書けなかったんですけど」
「うん。書けないだろうとは思っていた」
ルカは大げさに呆れた声を出す。
「まあいいさ。今からオレの言うことを一言一句正しく書きな。それだけで預言書の出来上がりってわけ」
ははあ。最初からそうすれば訳ないのに。そう思いながら筆記具を壁に押し付け、肩で受話器を押さえながら、言われたとおりに書き下していった。
『使者からの啓示。海流に乗るプランクトンのように、人々も神の意志で揺れ動きます。動きに身を委ねることが安寧を叶える唯一の方法です……』
その内容は貰った紙束にちょうどピッタリ収まった。
夕食の時にその紙束を渡す。この集団のために神が僕を通して記したと添えて。
「感謝いたします。神の御慈悲、寛大な御心に」
まずいスープを飲みながら、信者が感激する様子を見た。
「明日また僕が説法します。それでいいですよね?」
勿論そのように準備いたしますという返事を聞き、ルカはなんとなくサマになってきた気分になった。僕は今とても神の使いっぽいのではないか。
夕食を食べ終わると、特にやることも無いのでさっさと寝てしまうことにした。
布団に横たわると、突然強い疲労感がのしかかってくる。身体が鉛のように重くなり、とろとろと眠りの世界へ誘われる。目の内側に星が瞬く。
歩いていた。這うような霧の中、クラゲが泳いでいる。その多くは灰色で赤みがかった輝きを、いくつかはプリズムの輝きを放つ。捻れた触腕を悶えさせ、ルカの周囲に浮かぶ。
僕は眠りに落ちた……これは夢なのだろう。
しかし夢と現実を厳密に分ける必要もないことをルカは知っていた。
足を忙しなく動かす。見下ろすと、棘のような足があった。不思議なことではない……不思議なことではないのだ。
尖った結晶の都を歩き回る。初めて見る風景のはずなのに道がわかる。クラゲのようなものが不自然にねじまがり、旋回する。
不安。逃避への願望。忘却の希望。死という脱出。
苦しみが渦巻き、心に入り込んでは通り抜けていく。数多の持て余す記憶を保持する。
なるほど!常人が真の支配者を忌避する心とは、こんなにも単純な自尊心と脆弱な常識と記憶なるものにのみ保たれる自己同一性への執着心!
ところで自分は信者だろうか、主だろうか。支配とは、その境界すら溶け崩れるような……
瞼を開く。夢は波のようにサーッと引いて、カビ臭いシーツを被っている現実だけが残される。ぼんやりとした頭で、荒唐無稽な夢を理屈付けようとしたが、あらゆる光景も感情ももはや思い出せず、霧散した夢想をすんなりと諦めた。
今日は説法をするのだ。なるようになればいいと思っていたが、さすがに少しくらいは話の筋道を考えておいた方が良いだろう。
ベッドから起き上がり、机に向かう。そうだ。何かを書いておける紙は昨日全部渡してしまったのだ。ずっと机の足に挟まれていたしわくちゃの紙は柔らかくなりすぎて書くのには向かない。
机に突っ伏してアレやコレやと頭の中で説法をする。昨日書いた内容をそれっぽい声色で言えば良いだろう。緊張で頭が真っ白になるほどシャイではない。
一通り流れを考えてから頭を上げて外を見る。そろそろ朝食が運ばれてきそうだ。
電話のベルの音。
慌てて部屋を出て受話器を取る。
「ルカくん。今日の説法が終わったら全員を湖へ連れてってくれ」
「はあ。わかりました」
「あと説法の内容を教えるから頑張って覚えろよ。まず……」
突然の指示にルカは面食らって思わず声を上げた。
「ま、待ってください。急すぎますよ。覚えられません」
「いいや、覚えられる。これは前々から知っていることでもあるし」
なんの事だと思ったが、主がそう言うなら取り敢えず説明を聞くしかない。
「まず、ここから見えるすべての星座の名を……」
そこまで聞いたところで、別の物音に気がついた。
施設の人間が朝食を持ってきたのだ。
「あら、電話を使いたいのですか。ここの電話は電話線を繋いでいないんです。下の階の電話なら繋がりますよ」
「え?いや繋がりますよ……繋がってるでしょう?」
電話から伸びているケーブルを引っ張って見せた。
異様に軽い感触がする。そんなはずはない。ケーブルが長すぎるのだろう。止まるまでケーブルを巻き取っていく。
やがてケーブルがすっかりルカの手元に巻き取られる。そのケーブルの先端は千切れていた。
「おい、ルカ。用は済んだか。じゃあ順序を教えるぞ」
言われた内容が頭に入っていない気がするのに、全く問題ないように思える。
やるようにやるのだ。そもそも、そのやり方は前々から何度もやってるようなこと……
まだ夢の中なのだろうか。口から出る言葉は今まで一度も発したことのない発音なのに、それは地球が生まれる前の時代から存在していた言葉だと確信した。いいや、知っていた?
時間の感覚が歪み……戻り……また歪んで……気がつけば重たい霧の中に14人の敬虔な人々を引き連れ、湖に……凪いだ水面から鏡の向こうの世界に誘い、幸運な人々は永遠の神に傅くのだ。かつての26人と同じように……それ以前にも多くの人々がこの地でしたように。そして、これからもするように……
気がつけばルカは湿った地面に突っ伏していた。泥だらけで、不愉快だ。
起き上がって泥を少しだけ払い、周囲を見渡す。木々の隙間から揺らめく月が見える。
僕は何をしていたんだ?僕は確かにグラアキの教団にいたが、何らかの儀式をした後の記憶がない。
走って施設があるはずの場所を目指す。前に見た光景と同じだ。難なくたどり着けた。
完全に朽ち、以前見たよりもひどい有り様だった。玄関のドアは倒れ、壁紙は剥がれ、壁も一部壊れて、ステージのある集会場が外から見える。
僕がどれほど長く眠っていたら、ここまで朽ち果てるのだろう。それとも、あの出来事のほうが僕の夢で、実際は何もなかったのだろうか。
崩れかけの階段を慎重に登る。三階の部屋がどうなっているのか見たくなったのだ。
思いの外簡単にたどり着くと、まず電話が目に入った。ぐるぐる巻きになった電話線が電話台の足元にある。そのビニールは溶けてくっついている。先端は千切れている。
言いようもない不安に駆られ、下の階に降りた。その時、階段の最下段に錆びた金属の箱があることに気がついた。
金属の箱にかかっている金具を力任せに壊して開くと、中に紙束があった。
『使者からの啓示。』
箱を閉めてさっさとここから離れることにした。ルカは、自分の身を包む不安の正体がわからないにしても直感に従うべきだと思ったのだ。
服をまさぐりコンパスと地図を取り出したが、廃墟と化した施設から出るとそれらの道具はいらないことに気がついた。
「ちょっと遅れた。駐車場にあったうどん屋で食べてたんだ」
グラーキー様だ……ルカはすっかり力が抜けてへたり込んでしまった。
拠点へ帰りながら、自分の身に起きたことを必死に説明した。
「僕に何をさせたかったんですか?」
ルカの話を適当にうんうんと聞いていた主は、最後の質問に対して少しの間を置いて答えた。
「司祭ごっこだよ」
ルカが下唇を噛んでふてくされた顔をしたのを見て微笑むと、答えを付け足す。
「ルカくんの扱い方を練習してた。でもずいぶん慣れてきたし充分だ」
付け足したところで不十分な答えにルカはますます不機嫌になったが、わかったことが一つだけあった。
主と自分との境界は、もはや彼の思うままなのだ。
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