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ポラリスの羊飼い:もうじき墜ちてくる。カルコサの歌を歌うものが。
キノスラの鷹匠:カルコサの歌を知る者ですか。
ポラリスの羊飼い:泣き叫ぶような歌ですよ。
しまった。
空が紫がかったのを見て、ルカは自分が良くない場所に入り込んだことを悟った。
こんなはずではない……こんなはずではなかった……サクサクと草を踏みつけながらあてもなく彷徨い、太陽の方角を探す。
丘を登り始めた時、太陽は真上にあった。ならば太陽の反対側を歩けば来た場所へ戻れるはずだった。
しかし実際は、透き通ったアメジストのような空には太陽が浮かんでおらず、ポツポツと黒い星のようなものが浮かんでいるだけ。広い草原のどこにも果てが見えず、ずっと続くよう。
丘の上のどこにも、視界いっぱいに広がる土地などなかったはずだ。遠くの方を見れば海岸か森は見えるはずなのだ。それが、見えない。ただただ草原の続くのみである。
ならばここは丘の上ではない。ここは自分のいる島ではない。
漠然とした不安がどんどんかたちを帯びてゆく。僕はこの広大な大地に閉じ込められている!息を吐くたび、喉の奥が冷たくなっていく。
夢を見ているのだろうか?
そうではないと直感していた。生身の自分が、どういうわけか丘を登りながらこの果てしない草原に迷い込んだのだ。
「なんだここは!」
そう叫べばツクツクと空から音が降るのだが、その意味も理由も分からない。ワンワンと耳鳴りがしてくる。
下手に進まず、ここでじっとしていれば誰かが……グラーキー様かにゃあさんが……迎えに来てくれるだろうか。彼らは僕に実に良くしてくれるのだ。
そのような思案もそこそこに、心が随分くたびれたので、柔らかい草原で横たわった。存外心地の良いものだ。ひんやりと湿っていて、外で過ごしていた時期を思い出す。
あのときはまだ、主に心を許してなかった……暗闇が恐ろしく、自分の行く末がどうなろうと不幸に違いないと悲嘆に暮れ……
柔らかな眠りと覚醒の狭間で突飛な妄想が飛び回る。カラカラ周る滑車の音に、懐かしいような笛の音と、吹き抜けるような青空の下、鮮明に聞こえる足音が……
跳ね起きた。足音は続いている。やはり、足音は夢の音ではなかった! 何者かが近づいているのだ。
音の方に見える人影はグラーキー様でもにゃあさんでもなかった。しかし見覚えはある。
「ハストゥール様?」
くるくるした髪と質素な羊飼いの服装の少女。あれはハストゥールの姿の一つに酷似している。
でも、おそらく違う。ハストゥールは視覚で判別するものではない。知覚した瞬間、それだと分かるものだ。
しかしハストゥールで無いならば? あれは何になるのだろうか。
「誰ぞ、その名を呼ぶ者は!」
その羊飼いの服の少女は怒ったように叫ぶ。
「忌まわしき名を呼ぶ者は!」
「お前が名乗れ! 羊飼いよ!」
叫び返すと、少女は歩みを止め、羊飼いの杖を握り直す。
「ポラリスの羊飼いである! さあ汝も名乗れ!」
「レイスイ島の従僕である!」
ポラリスの羊飼いは怪訝な顔をして、再び近づいてきた。逃げるべきかと思ったが、逃げたところで何もできないのだ。
「レイスイ島の従僕よ、貴様は何故あの名を知っている?」
「あの名? ああ、ハストぅ……」
ザン!と激しく音を立てて杖を僕の真ん前に突き刺す。
「言うな!」
「はぁ……分かりました」
羊飼いはため息をつくと、僕の前に突っ立って、責めるように見下してくる。
「どこから来たのだ。なんの為に」
「島を歩いてたら迷いました。どうやって来たのか、どうやって帰るのかも分からないのです」
「島だと。貴様、レイスイ島の従僕と言ったな。レイスイ島とはなんだ」
「日本にある島です。その…僕の仕える神が住んでいます」
「ニホンなど聞いたことがない」
羊飼いが本当に意味がわからないという風な顔をする。ずっと見下されてるのは気分が悪いので立ち上がろうとすると、杖で胸のあたりを突かれ、できなかった。
「貴様は嘘をついていない。だが、意味がわからない」
「嘘をついてないと断言できるなんて、奇特なお方ですねぇ」
ヤバ。つい癖で茶化してしまった。こんな時ですらこの悪癖を抑えておけないとは。
「ここでは嘘をついたら口から煙が出る」
「へぇそりゃすごい。ところで日本じゃ鳶はニャーと鳴くんですよ」
途端に喉奥がカッと熱くなって喉からしゅうしゅうと灰色の煙が出てきた。なるほど、本当に嘘はつけないらしい。
「馬鹿め。だがこれで分かっただろう」
口から煙を吐きながら頷く。二、三回息を吐くと煙は出なくなったが、口の中は煙たいままだ。
「アレ、あれだ。良くわからないことはカッシルダに聞くのが良い。ここで待っていろ。全部聞いてくるから」
「僕もいきますよ……」
言い切る前に、再び牽制するように僕の胸部を杖でつつき、くるりと背中を向けとっとと行ってしまった。
彼女の口から煙が出なかった以上は、博識らしきカッシルダにアレコレと聞いてくれるのだろう。彼女が僕を連れていきたくない理由が何にせよ、その点は信じる他ない。
嘘を吐くと煙も吐く羽目になるのが、部外者だけに課せられたものだとしても、そこまでのことは知るすべが無いし、考えるだけ無駄なのだ。
寝転がり、空を見上げる。見つめれば宇宙の向こうまで見えそうだ。黒い点に混じって、一つ、白く輝く星が見える。
罰だ―――この星に課せられたのは、正常な星空の剥奪―――黄衣の王の君臨する日はもはや来ない―――
馬鹿げた妄想を! この突拍子もない文字の羅列は何だ! 黄衣の王とは……戯曲の名でありカッシルダを見舞う悲劇であり……幼きカミラの悲嘆であり……
白い星から目を背けても目の奥に焼き付いたようにチカチカして、この意味もない空想とふざけたマッピングを塗り潰すように別のことを必死で考える。
グラーキ、グラーキ、グラーキ……僕の敬愛する者、生そのもの。僕がもしも邪悪に飲まれることがあろうと、夢を介してその魂を決して手放すことはないと……故に僕の魂はこの地に注ぐ客星の光に惑わされることはない……
意識を失っていたのか、時間感覚が歪んでいたのか、どちらでも構わないが、足音が聞こえて来て起き上がると、羊飼いが戻ってくるところだった。
「聞いてきた。遠い星から来たのか。あー、地球という……」
「ああ、それで合ってますよ」
「だろうな。カッシルダ様は全てをご存知だ。お前がここに来たのは黄衣の王の思し召しであるから、帰る必要も、その方法も無いと」
「ああはは、そりゃ間違いですよ。だって僕は黄衣の王なんて知りませんから」
喉に痛みが走り、黒い煙を吐いた。ずっとずっと、僕が変な馬みたいなものに括りつけられて引きずり回されてる最中もずっと、黒い煙が絶えなかった。
煙のせいでしばらくは周囲が見えなかったが、ようやく収まってきた時には何か大きな建物に入るところだった。
石でできた、豪華な彫刻のしてある門をくぐり、広間のようなところで縄から解放されたと思えば、異様にデカい人に腰の後ろに回した腕を左右まとめて掴まれながら、大きい机のようなものの前まで歩かされる。
「この者はカミラ。カッシルダの伴侶。襤褸を纏う王の御前に」
「なんですって。僕が?」
壁の向こうから女が歩いてくる。金色の髪と血の通っていないような青白い肌、黒い衣服に身を包んでいる。
「おお、私のカミラ。私の娘。私の妻。黄衣の王の恋」
虚ろな声にゾッとして、目を合わせないように机に視線を下ろすと、磨かれたそれに反射したカッシルダの瞳があった。
「僕はカミラじゃない。ルカです」
一瞬、喉が裂けたのかと思った。今まで以上に真っ黒な煙があがり、思わず悲鳴を上げる。
「黄衣の王がお待ちしております」
「知るもんか。僕じゃない……僕はお前なんか知らない!」
痛みも煙もどうでもよかった。僕は僕の正しさを証明しなければならなかった。
カッシルダの虚ろな声は脳を引っ掻くようだ。僕の腕を掴む力は、とても振りほどけ無い。
「カミラ。何があなたの心を乱す」
僕はルカだ。僕はカミラじゃない。馬鹿みたいにそれだけ繰り返しているうちに、ふと閃いた。
ハストゥール。羊飼いはそれを聞いて動揺していた。この名を出せばカッシルダか、馬を引いてる者たちでもいい、揺さぶれるかもしれない。
先程までの言葉をやめ、ハストゥールと叫んでみる。
「何を言うのです。やめなさい」
カッシルダの諭すような声が、途端に悲鳴のようになる。拘束も解ける。ぼくをここまで引き連れてきた者たちが、背後で何やら慌てふためく。
ハストゥール。
「ああ、お許しください。私の愚かさを。名を与えた私を」
いつの間にか喉の痛みと煙は収まり、広間には蹲って啜り泣くカッシルダと僕だけ。
「私の罪を、過ちをお許しください。その名を与えたことを……」
可哀想な姿を見せられると、酷い目に合わせやがってという怒りが萎え、憐れみが湧いてしまう。
慰めの言葉の一つくらいかけようか、しかしどのような言葉が良いのか……そう巡らすうちに机に空が映った。何だ、と見上げたら、天井をくり抜いて見下ろす者を知覚してしまった。
それから聴こえた噎びはカッシルダだろう。僕は彼女の声が途絶える前に、建物を飛び出して、人のいない集落を抜け、ひたすら走った。果てのないこの草原がアレに掌握される前に。生ける神の手に落ちる前に。
頬をつつかれ目を覚ました。ここは……丘の上だ。太陽はすっかり水平線で赤くなっている。
「ルカくーん。こんなとこで寝ちゃ駄目だよ」
「ああ、はす……いや、はは…」
夢のせいでハストゥールと言うのが一瞬躊躇われた。だがアレは夢だと思い直す。
「ハストゥール様。起こしに来てくれてありがとうございます」
「ふゆ……起こしに来たわけじゃないけど、たまたま見つけただけで。でも感謝なら貰っておくね」
黄色い頭巾をふわふわと揺らして嬉しそうにする。撫でると更にぽゆぽゆと揺れた。
夢の話は寝る前にグラーキー様にでもきかせよう。ハストゥール様には、このまま抱えて僕の住む基地の前まで送ってくれるように頼もうか……撫でながらそんな勘案をしていると、ハストゥール様がするりと手のひらから抜け出し、触手をヒラヒラして話し始めた。
「ところでルカくん。こんな歌知ってる? 北にある星の司祭が最期に歌ったとされる歌」
知らないし聴きたくないと言う前に歌い出した。
『お許しください私の罪を私の愚かさを……』
ついさっき聞いたような、噎ぶような歌。
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