side story

きづきまつり

第1話

 彼女は勢いよくドアを開けて、我が物顔で部室に入ってくる。一瞥すれば全景が見渡せる狭い部室を大げさに見渡し、つまらなそうに目を伏せた。僕と目が合ったはずだが、まるで意に介する様子はない。とはいえ、認識していないわけではないらしい。中央に二つ並べて置かれた事務机の向かい側の椅子についた彼女は、目についた雑誌を手に取って開く。一般向けに出版されている科学雑誌の先月号で、DNAの特集らしく二重らせんが表紙を彩っているものだ。

「読むんだ?」

 ノートパソコン越しにこちらから声をかけてはみるが、反応はない。彼女は確か文系のはずだ。とはいえ生物は一年の時に必修で習っているし、理解できなくはないだろう。本人に理解しようという意思があれば、の話だけれど。

 案の定、間もなく彼女は乱暴に雑誌を机に置いた。僕は聞こえるようにため息をついたが、その態度は思ったより彼女の癪に障ったようだった。

「なんで一人なの? あいつは?」

「委員会のほうに呼ばれたとか言ってたような。聞いてないのか?」

 最後の一言は余計だった。僕は目の前のパソコンの画面に集中するふりをしながら、いくつかキーをたたく。しばらくはいらいらしたような動きをしていたようだが、やがて携帯でなにかメールをした。そして右手に携帯を握りしめたまま、組んだ腕を枕にして雑誌の上に突っ伏してしまう。

 いくつかのグラフを作り終えて、恐る恐る画面から目を離す。正面にいる彼女は先ほどの姿勢から微動だにしていなかった。まさか本当に寝ているわけではないだろうが、あまりにも無防備に思える。鮮やかに白いつむじと、焦げ茶色のうなじ。僕とさほど身長が変わらない彼女の、普段なら決して見られない部分だ。




「彼女ができた」

 夏休みに入ったばかりのころ、くそ暑い部室の中で唐突にそんなことを言いだした。滴定中だった僕は一瞬だけだが視線を外してしまい、戻したころにはビーカーの中身は鮮やかに赤く染まっていた。

「おい、いま何滴行ってた!?」

 悲鳴に近い声をあげてしまった。彼は僕の声に驚いたようだったが、ビーカーを見て似たような悲鳴を上げた。

「悪い……変なこと言ったせいで」

 スターラーを止めた彼は本気で申し訳なさそうな声を絞り出す。

「まあ、しょうがない。今度はお前数えろよ」

「わかったわかった」

 それで記録係と滴定係を交代する。ビーカーの中身を廃液溜めに捨てて、途中まで彼の記録したノートを引き継ぎ。几帳面な文字が並んでおり、字の汚い僕は交代したことを少しだけ後悔した。

「知ってたよ。噂でもともと聞いたことあったし」

 高校一年の終わりのころから、女子バレー部に入った編入組の女子に彼のことを好きなやつがいるとは耳にしていた。そんなに彼と親しいわけでもなく、彼自身は本当に全く気付いていなかったらしいことも知っていた。

「ほら、俺、彼女とかできたの初めてじゃん?」

 薬品のセットを終えた彼は、スターラーを回し始める。最初の2mlほどは勢いよく落とし、その後は一滴ずつ滴下する。中高一貫のうちの学校で、中学から合わせてこれでもう五年もこんなことばかりしているのだから手慣れたものだ。

「女バレの練習、金曜日ないらしくて、それで、悪いんだけど部活出るの月、水、木曜にしていいか?」

 金曜日は彼女と過ごしたい、と。そりゃ男同士で薬品混ぜて記録するよりはよっぽど大事だろう。

「いいけど、条件付きな」

「条件?」

「どうやったら彼女できるか教えてくださいよ、先輩」

「知るかっ。俺だってよくわかんないんだよ、まじで」

 そうかね。人当たりはいいし成績はいいし、科学部なんてのに入っているわりには運動だって人並みにはできるんだから、お前に彼女できなかったら俺なんて絶望的だろ。

「なんか言えよ、おい」

「ん、ああ、いやいや謙遜しないで下さいよ先輩」

 僕はそう言って笑い、彼も照れたように笑い声をあげた。


 そんなやりとりはあったものの、彼は結局金曜日も部活に顔を出した。十月の文化祭に向けた実験が思ったより進まないことと、文化祭実行委員会にも所属している彼が直前にもっと忙しくなることは明らかだったからだ。僕は僕で後輩の実験に先輩面して教える手間もあり、親の命令で夏期講習まで取らされていたからなかなか時間が取れなかった。金曜日に実験できるのはその点では好都合だったが、問題がないわけでもなかった。

「ねえ、それなんの役に立つの?」

 僕らがひたすらデータを取っているのを眺めていた彼女は、いらつきを隠すことなくそんな言葉を口にした。

「高校生の部活が役に立つかとか言われてもな」

「はあ? はっきり言えよ」

「いや、別に」

「まあまあ、もうちょっとで終わるから、ごめんな」

 彼はそう言って僕と彼女に頭を下げる。何の衒いもなくこういうことをするのがこいつのすごいところだし、彼女もそこにひかれたのだろう、おとなしく椅子に腰かけて僕らの実験を眺める。いや、正確には彼を眺めているのだろうけど。

「よし、終了! これであとはまとめるだけ……だよな?」

「そっちは俺がやるから、お前は文実とかやっとけ」

「助かるわ。おい、終わった……よ?」

 彼女は実験机の上で横になっていた。問いかけに反応がない当たり、眠っているらしい。スカートの下にジャージのズボンを履いているので肌の露出はないが、あまり褒められた格好ではない。他人の彼女のそんなはしたない姿を見るわけにもいかず、僕は慌てて目をそらした。彼はあきれたように息をつき、口の前で人差し指を立てて静かにするよう合図すると、手近な蛇口をごくゆっくりと開く。少量の水道水を掌に貯めて眠る恋人に近づき、顔の上でそれを垂らしたようだった。彼女は奇声を上げて目を覚まし、あたりを見回してすぐに犯人に気が付いた。

「ごめん、寝ちゃってた」

「いいよ、待たせてごめん」

「でももっと普通に起こしてよ!」

 そういって、日々ボールをアタックする手で彼を小突く。笑いながら大げさにリアクションを取る彼に、彼女は嬉しそうに追い打ちをかけた。不愉快というほどではないが、少々疎外感を覚える光景だ。

「のろけんのはよそでやってくれませんかね?」

「悪い悪い。ほら、片づけ手伝ってよ。そうすりゃ早く帰れるし」

「えー。手、荒れない?」

 先輩後輩含めて男ばかりのうちの部員には決して思いつかないような言葉だった。僕と彼は顔を見合わせて、どう答えたものか迷う。

「いや、角質が落ちてむしろ手がすべすべになるよ」

 彼女は僕をあからさまに不審そうな目でにらみ、次に彼氏に視線を送る。彼はすぐに視線をそらし、片づけに取り掛かる。

「……本当に?」

「うん。少量の硫酸で酸性条件にしているし」

 彼はあえてあっけらかんと答えた。彼女は怒鳴ったものか呆れたものか判断つかず表情をゆがませて、やがて後者を選びため息をつく。その吐息を、僕と彼は大きな声をあげて笑うのだった。彼らが付き合い始めて一か月、僕は僕で、彼女は彼女で、その場にいる邪魔者にいくらか慣れてきていた。

 といって、困ることがないわけでもない。たとえば二学期が始まってすぐのころ、授業が長引いて普段より遅れて部活に来た僕は、普段なら開けっ放しになっている部室のドアが閉まっていることに気が付いた。あいつ、また委員会か? 連絡は来てなかったけど。

 ドアノブに手を伸ばしたそのとき、中から人の気配がした。彼と、もう一人。音の出ないようにゆっくりとドアノブを回し、軽く押す。鍵はかかっているようだ。僕はその場を静かに離れ、十五分後に彼に遅刻を詫びるメールを送ってさらに五分後に部室の前に来た。今度は鍵はかかってなかったし、彼のほかに誰もいなかった。

「遅刻だな」

「しょうがないだろ、授業が延びたんだから」

 彼は普段と変わらず軽口をたたく。やっぱり彼女ができる人間はすげぇな。僕は変に感心してしまった。




 彼が部室に顔を出すのは普段ならあと二十分ほど先だが、文化祭を来週に控えていることを考えるともうちょっと遅れるだろうか。彼女もそれを知ってはいるはずだが、変な場所で待つよりは、ここ三か月で慣れたこの部室で待つほうが楽ということなのだろう。本当は後輩たちが入りづらくなるからやめてほしいのだが、彼の恋人を邪険に扱うほど女子に慣れた人間が我が部には一人もいないのは悲しいところか。

 校内で彼女とすれ違う時に声ぐらいはかけるようにはなっていたが、二人きりになるといまだにどう扱ったものかわからない。本来ならお互い関わり合いになるような人種ではまるでないのだから。もっとも、彼にとってもそれは同じだろう。以前は確かに髪の長い年上のほうが好みだとかえらく熱く語っていたはずだ。運動部の彼女は髪も短いし、年上らしい落ち着きもまるで持ち合わせていない同級生だ。顔だって、学年でかわいい女子を二十人挙げろと言ってもまあ入らないだろう。それでも告白されればそりゃうれしいし、付き合って一緒に時間を過ごせばかわいく思えてくるものだ。三次元に興味がないという後輩は理想を追求しない彼を責めたが、そんな後輩だって、彼の立場になれば態度を変えるだろう。なれれば、だが。

 頭皮しかろくに見えなかったが、肩が規則正しく動いているのは間違いなさそうだった。本当に寝てしまったのだろうか。女子バレー部も、近く地区対抗戦か何かがあるらしい。うちの女バレは割と強く、全国に出場したことはないものの県ベスト4ぐらいにはちょいちょい行くらしい。練習が増えて一緒にいる時間が減ってしまった、と自分も文化祭実行委員の仕事増えていることを棚に上げてのろけていた。

 十月に入り冬服になってから、彼女は下にジャージを履くのをやめてストッキングをはくようになった。季節柄風も冷たくなってほかの女子がジャージを履く割合はむしろ増えていたが、おそらくは彼のために。運動部ゆえの筋肉から、はっきりいって脚は太い。それゆえに生足を出すまでには至れないだろう。女子は大変だな。彼のほうは別に身だしなみを変えた様子は全くないというのに。

 突然、彼女の手のなかの携帯の背面LEDが光った。振動や着信音はない。二回長い明滅があって、その後は点滅を繰り返す。おそらくはメールだろう。時計を見ると、普段なら彼が来ているだろう時間を過ぎている。遅れるという連絡か、先に帰ってという内容か。いずれにしても、本当に寝てしまっているらしい彼女は気が付く様子もない。

 いずれにしても、起こしたほうがいいか。椅子を引き、立ち上がって彼女に手を伸ばす。瞬間、椅子を引いた音が刺激になったのか、彼女はもぞもぞと体を動かし、隠れていた顔が姿を現した。服のしわで右頬に一筋の痕ができている。

「んん……」

 起きてはいないようだったが、声が唇から漏れ出た。女子の唇なんてものをじろじろ見てしまったのは、これが初めてだった。あの日、部室の前で踵を返したあの日、彼らはおそらく……

 彼女の手にある携帯は、LEDの黄色い明滅を繰り返していた。おそらくメールを確認するまでこの調子だろう。まだしばらくかかるという連絡だったのだろうか。彼女の指は思ったよりも白く、大画面化が進む携帯に比べればずいぶんと華奢に見えた。バレー部のくせに。ちゃんと練習してんのかね、こいつは。彼氏といちゃついてばっかだから、部活でしごかれて疲れるんじゃないか?

 ――もう少し、寝かせてやってもいいだろうか。どうせ部室に電気がついていれば、彼は委員会が終わり次第こちらに来るだろう。そこで起きれば十分か。どうせ彼も彼女も先に帰りはしないだろう。一緒に帰る時間をこの二人が大切にしているのは、駅までは一緒の僕が一番よく知っている。

 僕は体を乗り出してゆっくりと彼女に手を伸ばす。携帯を取り上げて、気になる点滅が見えない位置に置きたかった。携帯電話にしか触らなければ大丈夫だろう。前に実験室で寝ていた時だって、軽い物音では起きる気配もなかった。あのときよりも今日のほうが疲れている。手の携帯電話も、強く握りしめている様子はない。

 思ったよりもすぐに携帯に触れることはできた。あとはこれをゆっくりと引き抜き、机のどこかに置くだけでいい。ジェンガでもやっているような気分になってきて、力を入れる前に一度唾をのむ。

 携帯を親指と人差し指でつまみ、力を込める。この角度を維持したまま、斜め上に引き上げていけばいい。ゆっくりと、彼女を起こさないように。

 彼女は気の抜けた顔で寝こけている。顔についた痕は、まだ消えていない。口はかすかに開いており、白い歯がかすかに覗けた。僕と身長こそ変わらないが、女子という生き物はやはりどこか華奢に感じる。髪だって、男子とそう変わらない短さだが、どこか細く柔らかそうだ。

 携帯をつまんだ指の力を、ゆっくりと抜いていく。それでも離しはしない。少しずつ、携帯を伝って指先を下していく。薬品と器具の洗浄とで乾燥した僕の指は、その先にある白く柔らかい彼女の指はまるで異なるものに写った。

 あと一センチもないところで、僕のポケットの中から静寂を突き破るような振動が鳴りだした。一瞬、着信音まで鳴ったかと思ったが、マナーモードにはなっていたらっしい。脊髄反射のように手を引き戻し、慌ててポケットの中の携帯電話を取り出す。それは、予期していたように彼からのメールだった。

『彼女、部室いる? もうちょいしたら部室いけるわ』

 改めて視線をやるが、起きる気配はまだない。

『いるよ。俺は先に帰るから戸締りよろしく。データまとめたから見といて』

 僕は静かに荷物を持ち、部室を出てからメールを返した。校舎を出ると、思ったよりもあたりは暗くなっている。秋も深まってきているようで、夜風が体を震わせた。

 一人で駅までたどり着き、改札をくぐる。普段彼らと一緒に帰る時もせいぜいここまでで、ここから先は反対方向になる。ホームに降りるとちょうど電車が来たところで、少し駆け足に乗り込んだ。車内はほとんどガラガラで、僕は端の座席を取ることができた。

 ――もう、彼は部室についたころだろうか。

 電車の外の景色は、チェーンの居酒屋の看板ばかりだ。見慣れた景色の流れは、思考を遮ることもなく通り過ぎていく。

 ――もう少しメールが遅かったら、あのまま……?

 あと一センチ、いや五ミリもなかっただろうか。あの指先、あの髪、あの唇が矢次早に頭をめぐる。

「はっ」

 わざとらしく顔をしかめ、鼻で笑う。見た目はともかくとして、せめて会話が合うような相手じゃなければこっちからごめんだ。

 あー、文化祭、女子が見に来ないもんかな。

 例年、科学部の発表を見に来るのは、受験を控えた小学生、中学生の男子ぐらいで、異性といえばその保護者ぐらいのものだ。もうちょい女子と関わる部活に入っていれば、今頃こんなことにはなってなかっただろうか? 別に今の部活は好きだし後悔もないのだけれど、もしもの話として。

「あー……彼女欲しいな」

 僕は人生で初めて、心からそんな思春期のたわごとをつぶやいてしまった。できれば髪の長い、おしとやかな、理系の彼女が。

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