二、或る男の追憶
それは、
「やはり君か」
その視線の先には、少女がいる。長い緑髪に
「今日も来てやったぞ。我は暇だったからな!」
「結界はどうした。ここの結界は許しなき者の侵入を拒むはずだが……」
「あれか? あんなもの我にかかればないに等しい。無理やり破ってやったわ!」
「なるほど、道理で家人が騒がしいわけだ」
彼女の身分なら、しかるべき手続きをとれば正面から入ることも出来るはずだ。なんなら、彼女の邸宅に少年を呼び寄せることだって無理ではない。にもかかわらずこうして強行突破してくるのは、余計な噂が立つのを面倒がってのことである。
だが残念なことに、屋敷の主や彼女の親にこの暴挙はバレている。つまり完全に骨折り損というわけだ。
「で、今日は何の用?」
「用など無いが?」
少女は指を唇に当て、不思議そうに首を傾げる。「何を訳の分からぬことを」とでも言いたげな様子だ。彼女はここを自分の家か何かと思っているらしい。
少年は呆れたように、
「君にも立場がある……こんな所で油を売っている場合では無いだろう」
「だからこそ、ここにおるのじゃ。我は雑務が嫌いぞ」
「当然のようにサボるな。さっさと帰れ」
まったく、と呟いて、少年は再びため息をつく。だが、その目は妙に穏やかだ。そして聡い少女がそれを見逃すはずもない。彼女は塀を蹴って軽々少年の横に着地すると、ニヤニヤとした笑みを浮かべながら、
「そう言う割には満更でもなさそうではないか。なんじゃ? 照れ隠しか?」
「……!?」
「相変わらず分かりやすい奴じゃのう! まあ良い。我はそういう其方は好きじゃ」
「好っ!?」
顔を真っ赤にしてタジタジになる少年に、少女は腹を抱えてけらけらと満足そうな笑みを浮かべる。
「あははっ! 面白いのう!」
「うるさいっ……!」
先ほど彼女は用など無いと言ったが、実際のところこれが目的であった。
少年をからかうのは、このところ少女の日課になっている。こうして彼女は自身の
少女はいつものように少年の横へ腰を下ろすと、手で顔を覆う少年の頬を「えい」とつっついた。少年は不服そうな調子で尋ねる。
「……どうして君は僕に構う」
「え、面白いからじゃが?」
きょとんとした表情で告げる少女。少年は顔を覆ったまま、
「僕の何が面白い。兄上に比べれば、大した人間でもないだろうに」
「其方の兄? ああ、少将のことか。彼奴はつまらん。顔は悪くないがそれだけの男よ」
薄ら笑いを浮かべたまま、少女は手を広げて言い放つ。少年は俯いてしばらく黙り込んだ後、自信なさげにポツリと呟いた。
「そんなことはない」
「?」
「……兄上は、才においては僕の全て上をいく。漢籍の素養も、
「じゃが、地味じゃ。対して其方は変な髪に変な瞳。帝の第一の臣下たる藤原の当主なら、そのくらい奇妙で目立った方が面白いじゃろ?」
屈託ない笑みで告げる少女。少年は呆れたように目を伏せて「髪と瞳は君も大概だろう」と返すが、彼女は満面の笑みで「ああ! お揃いじゃな! 色全然違うけど」などとあっさり口走った。
少年は少女の顔を一瞥して、再び俯く。
「僕は所詮冴えない次男坊。藤原嫡流の末席を汚すだけの存在。当主なんて立場、望むことも許されないさ」
自嘲気味にこぼし、諦めたような力ない笑みを浮かべる少年。少女はげんなりとした表情を浮かべると、ごろりと床に寝転がった。
そして、呆れたように告げる。
「まったく……相変わらず其方は卑屈じゃのう。もう少し威張ったらどうじゃ。それでも藤原の氏人か?」
「名前だけだ。僕なんて――」
「その僕っていうのもなんか嫌じゃな。僕ってしもべのことじゃろ? まずそこから卑屈じゃ。弱っちい。もっと偉そうな名乗りをせぬか?」
寝転がったまま、眉をひそめて少年を睨む少女。少年は怪訝そうな顔をして、
「偉そうな名乗り……?」
「ああ。例えばそうじゃな……」
少女は腕を組んでしばらく考え込む。
そして、しばらくするとふいに勢いよく飛び起きた。
「我、とかどうじゃ?」
「それでは君と被るだろう」
「別に構わんが?」
「僕が構うんだ」
「良いではないか。ほれ、使うてみよ」
少女はニヤニヤしながら、むに、と少年の頬をつついた。彼は鬱陶しそうにその手を払いのけ、面倒くさそうな目を向ける。
「また機会があればな……それより、まだ戻らなくて良いのか?」
「?」
小首を傾げる少女。
少年はおもむろに目を伏せる。
「そろそろ父上がお戻りになるぞ」
「げっ!? それはマズい! また雷が落ちる……それに父帝の小言も鬱陶しい。ここは素直に退散するか……」
露骨に顔をしかめて、少女は口惜しそうにごちゃごちゃ独り言つ。しばらくうんうん唸った後、彼女はため息をついた。
そして、また一飛びに塀へと着地する。
「悪いな、また来る」
「もう来なくていいぞ」
しっしっ、と手を払う少年に、少女はからかうような笑みを浮かべつつ、
「遠慮するなよ恥ずかしがり屋め。なんなら其方の方から来てくれても良いのじゃぞ?」
「それは陛下が許さないだろう」
「嫌とは言わんのじゃな?」
「やかましい。さっさと帰れ!」
叫ぶ少年に一度ニイと笑顔を見せて、少女は手をひらひら振りながら塀を飛び降りる。
再びひりつく空気。許しなき者が結界を通った時に生じる現象だ。結局少女は、勝手に来て勝手に帰っていった。
苦い表情を浮かべて、少年はまたため息をついた。そして、ぽつりと呟く。
「我……か」
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