二、或る男の追憶

 それは、新嘗祭にいなめのまつりを控えた霜月の頃だった。藤原氏代々の邸宅である東三条殿ひがしさんじょうどの釣殿つりどのから池を眺めていた少年は、不意にぴりりとひりついた空気に眉をひそめる。飴色の髪の彼は、アメジストのような紫の目で塀の方を面倒そうに一瞥した。


「やはり君か」


 その視線の先には、少女がいる。長い緑髪に琥珀こはくの目。質素なようで上質なのが見て取れる絹の生地の衣に身を包んだ彼女は、悪戯っぽい笑みを浮かべて頬杖をついていた。


「今日も来てやったぞ。我は暇だったからな!」


「結界はどうした。ここの結界は許しなき者の侵入を拒むはずだが……」


「あれか? あんなもの我にかかればないに等しい。無理やり破ってやったわ!」


「なるほど、道理で家人が騒がしいわけだ」


 寝殿しんでんの方を仰ぎ見ると、少年は顔を押さえて再びため息をつく。

 彼女の身分なら、しかるべき手続きをとれば正面から入ることも出来るはずだ。なんなら、彼女の邸宅に少年を呼び寄せることだって無理ではない。にもかかわらずこうして強行突破してくるのは、余計な噂が立つのを面倒がってのことである。

 だが残念なことに、屋敷の主や彼女の親にこの暴挙はバレている。つまり完全に骨折り損というわけだ。


「で、今日は何の用?」


「用など無いが?」


 少女は指を唇に当て、不思議そうに首を傾げる。「何を訳の分からぬことを」とでも言いたげな様子だ。彼女はここを自分の家か何かと思っているらしい。

 少年は呆れたように、


「君にも立場がある……こんな所で油を売っている場合では無いだろう」


「だからこそ、ここにおるのじゃ。我は雑務が嫌いぞ」


「当然のようにサボるな。さっさと帰れ」


 まったく、と呟いて、少年は再びため息をつく。だが、その目は妙に穏やかだ。そして聡い少女がそれを見逃すはずもない。彼女は塀を蹴って軽々少年の横に着地すると、ニヤニヤとした笑みを浮かべながら、


「そう言う割には満更でもなさそうではないか。なんじゃ? 照れ隠しか?」


「……!?」


「相変わらず分かりやすい奴じゃのう! まあ良い。我はそういう其方は好きじゃ」


「好っ!?」


 顔を真っ赤にしてタジタジになる少年に、少女は腹を抱えてけらけらと満足そうな笑みを浮かべる。


「あははっ! 面白いのう!」


「うるさいっ……!」


 先ほど彼女は用など無いと言ったが、実際のところこれが目的であった。

 少年をからかうのは、このところ少女の日課になっている。こうして彼女は自身の嗜虐心しぎゃくしんを満たしつつ、時間を潰して公務をサボタージュするのだ。

 少女はいつものように少年の横へ腰を下ろすと、手で顔を覆う少年の頬を「えい」とつっついた。少年は不服そうな調子で尋ねる。


「……どうして君は僕に構う」


「え、面白いからじゃが?」


 きょとんとした表情で告げる少女。少年は顔を覆ったまま、


「僕の何が面白い。兄上に比べれば、大した人間でもないだろうに」


「其方の兄? ああ、少将のことか。彼奴はつまらん。顔は悪くないがそれだけの男よ」


 薄ら笑いを浮かべたまま、少女は手を広げて言い放つ。少年は俯いてしばらく黙り込んだ後、自信なさげにポツリと呟いた。


「そんなことはない」


「?」


「……兄上は、才においては僕の全て上をいく。漢籍の素養も、まつりごとの知識も、和歌も何もかもだ。父上も、次の当主は兄上にするおつもりだろう」


「じゃが、地味じゃ。対して其方は変な髪に変な瞳。帝の第一の臣下たる藤原の当主なら、そのくらい奇妙で目立った方が面白いじゃろ?」


 屈託ない笑みで告げる少女。少年は呆れたように目を伏せて「髪と瞳は君も大概だろう」と返すが、彼女は満面の笑みで「ああ! お揃いじゃな! 色全然違うけど」などとあっさり口走った。

 少年は少女の顔を一瞥して、再び俯く。


「僕は所詮冴えない次男坊。藤原嫡流の末席を汚すだけの存在。当主なんて立場、望むことも許されないさ」


 自嘲気味にこぼし、諦めたような力ない笑みを浮かべる少年。少女はげんなりとした表情を浮かべると、ごろりと床に寝転がった。

 そして、呆れたように告げる。


「まったく……相変わらず其方は卑屈じゃのう。もう少し威張ったらどうじゃ。それでも藤原の氏人か?」


「名前だけだ。僕なんて――」


「その僕っていうのもなんか嫌じゃな。僕ってしもべのことじゃろ? まずそこから卑屈じゃ。弱っちい。もっと偉そうな名乗りをせぬか?」


 寝転がったまま、眉をひそめて少年を睨む少女。少年は怪訝そうな顔をして、


「偉そうな名乗り……?」


「ああ。例えばそうじゃな……」


 少女は腕を組んでしばらく考え込む。

 そして、しばらくするとふいに勢いよく飛び起きた。


「我、とかどうじゃ?」


「それでは君と被るだろう」


「別に構わんが?」


「僕が構うんだ」


「良いではないか。ほれ、使うてみよ」


 少女はニヤニヤしながら、むに、と少年の頬をつついた。彼は鬱陶しそうにその手を払いのけ、面倒くさそうな目を向ける。


「また機会があればな……それより、まだ戻らなくて良いのか?」


「?」


 小首を傾げる少女。

 少年はおもむろに目を伏せる。


「そろそろ父上がお戻りになるぞ」


「げっ!? それはマズい! また雷が落ちる……それに父帝の小言も鬱陶しい。ここは素直に退散するか……」


 露骨に顔をしかめて、少女は口惜しそうにごちゃごちゃ独り言つ。しばらくうんうん唸った後、彼女はため息をついた。

 そして、また一飛びに塀へと着地する。


「悪いな、また来る」


「もう来なくていいぞ」


 しっしっ、と手を払う少年に、少女はからかうような笑みを浮かべつつ、


「遠慮するなよ恥ずかしがり屋め。なんなら其方の方から来てくれても良いのじゃぞ?」


「それは陛下が許さないだろう」


「嫌とは言わんのじゃな?」


「やかましい。さっさと帰れ!」


 叫ぶ少年に一度ニイと笑顔を見せて、少女は手をひらひら振りながら塀を飛び降りる。

 再びひりつく空気。許しなき者が結界を通った時に生じる現象だ。結局少女は、勝手に来て勝手に帰っていった。

 苦い表情を浮かべて、少年はまたため息をついた。そして、ぽつりと呟く。


「我……か」

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