第109話蛇足

 何もない白い部屋。

 古都主は髪を掻き上げ、ため息を吐く。本来肉体の疲労など感じるはずもない彼であるが、精神の疲労はどうやら蓄積するらしい。

 とはいえ、常人ではその意味するところに理解が及ばないだろう。なにせ彼の内面を伺い知れる人間は、この世に数えるほどしかいないのだ。


「まぁ、それは気にもならないけどねぇ」


 そんな時のこと。ふと彼は、違和感を覚えておもむろに振り返った。


「おや?」


 そこにいたのは、彼にとっても予想外の人物。本来、ここに立ち入るはずのない少女。


 ――少々、彼の精神に深入りし過ぎたか。


 顎に手を当てる古都主。

 制服姿の彼女は敵意を剥き出しにして、夕闇のような瞳を妖しく輝かせる。


「アンタ、何者?」


「さぁね。当ててごらん?」


 ニコリと笑みを浮かべる古都主。

 月詠は一つ舌打ちして、

 

「分かる訳ないでしょ? 気味が悪いほど丁寧に、自分を嘘と虚飾で塗り固めておいてよく言うわ。でも、アンタがロクでもないヤツなのは確かね」


「これは手厳しい」


 苦笑しつつ、古都主は月詠を見つめる。


「でもまぁ間違いじゃぁない。君の言う通り、僕は碌でもないヤツなんだ。きっと、本性がバレたら嫌われてしまうくらいにね」


「もう既に嫌いだから安心して」


「悲しいなぁ」


「そんなことより」


「!」


 直後、ぐにゃりと古都主の右腕がひとりでに捻じ曲がる。関節可動域など完全に無視した挙動。真っ赤な血が黒い袖に滲んでいく。


「ほう?」


 古都主はきょとんとしながら、破壊された自身の腕をプラプラ揺らしてみせた。気付けば、いつの間にか傷は癒えている。

 月詠は、凍えるほど冷たい目で言った。


「アンタは、カイトの敵?」


「彼から見れば、そうなるだろうねぇ」


「そう……じゃあ」


 再び輝く月詠の瞳。権限発動の予兆。

 真に神なる存在が異能を振るうのに、詠唱や術式など必要ない。先ほど古都主の腕を圧し折った不可視の力が、少女の権限をもって具現化する。

 だが、彼は手を広げて呟いた。


「無駄だよ。それは僕に『届かない』」


 直後、古都主の前の空間が不可解な歪曲を起こし、軋むような嫌な音とともに弾ける。

僅かに遅れて、ドゴゴゴゴッッッッ!!!! と、天を割くような異音が轟いた。

 この間、両者は一歩たりとも動いていない。にもかかわらず交わされた、人間には理解不能の応酬。


 無傷の古都主は、苛立ちを顔に滲ませる月詠を嘲笑うように言った。


「にしても、カイトねぇ」


「なに?」


「分かってる癖になぁ。彼はであってじゃぁない……いや違うか。まだカイトたり得ないという方が正確かな」


 その言葉に、月詠は一瞬ドキリとしたような表情を浮かべる。彼女は整った眉を吊り上げ、大きな瞳を鋭くして古都主を睨んだ。


「一体……何を」


 古都主は、そんな彼女に慈しむような視線を向けて、穏やかな声で念押しする。


「君は、彼をカイトだと思い込みたいだけでしょ。違うかい? ☓☓☓☓さん」


「っ!?」


 月詠は目を見開く。その名前を知っている存在は、恐らくもう数えるほどしかいないはずなのだ。何故、目の前の男はそれを当然のように言って見せる?――彼女は、動揺を孕んだ表情で問いかけた。


「アンタは……誰なの?」


「それはまだ言えないなぁ。だって、誰のためにもならないからねぇ。それに、ネタバレはしない主義なんだ」


 ふいに、古都主の姿が月詠の視界から消えた。ばっと振り返る月詠。その真正面にいつの間にか立っていた古都主は、彼女の顎をクイと上げて軽薄な笑みを浮かべる。


「まぁ、紛い物どうし、紛い物の世界で仲良くやろうよ。彼がカイトに成れるよう、一緒にサポートしてあげようじゃぁないか」


「ィっ!!」


 月詠は、不快感を露わに古都主の手を払い除ける。古都主はそのままクルリと翻り、愉快そうな口調で告げた。


「じゃぁね☓☓さん。海人くんは頼んだよ」


「待てこの覆面野郎ッ!!」


 勢いよく手を振るうが、彼は既に射程外。運命を司る彼女の力は、僅かに空間を揺らして散っていく。


 誰もいなくなった白い部屋。月詠は頬に冷や汗を浮かべ、悔しげに拳を握りしめた。

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