第1話 異変
太陽は沈み、宵闇に紛れた日本。
その都心で、消防車や救急車、パトカーの慌ただしいサイレンの音を聞きながら作業をする男がいた。
首元には『塩谷英治』と書かれた社員証をぶら下げたまま、コーヒー片手に大量の書類を処理している。
「サイレン近…」
普通の人なら窓から周囲を伺う程のサイレンの大きさだが、この英治という人物は全く動こうとしなかった。
それどころか、優雅にコーヒーを飲んでいる始末。
度重なる残業で危機管理能力が落ちているにしろ、常人が見れば呆れる光景である。
しかし、それは周囲の住人も同じだった。
外から聞こえるのは木の燃える音と消防隊員の掛け声のみで、野次馬の声どころか、逃げようとする足音も聞こえない。
(随分前にも小火騒ぎがあったな…まぁ、ここは大丈夫だろ。アパートが集まってるからサイレンの音が聞こえやすいだけで、ここが燃えてるとは限らないし)
謎の余裕でコーヒーを啜る。
このオンボロ木造アパートに火がつけば、一気に焼け落ちるというのに、呑気なものである。
仕上がった書類をまとめて、確認のために目を通す。
「テロの恐れがあります!住人のみなさんは急いで避難してください!急いで!」
外からの、消防士の悲痛な叫びに顔をあげた。
いつもなら、こんな警告なんて無い。
テロ自体が非現実的であれど、ココ最近は原因不明の火災や爆発事故が多いと聞く。
半年後に迫ったオリンピックがあるから、と風の噂で聞いたが、そんな無差別に行われるものだろうか。
(一応、必要なものだけでもまとめておくか)
鶴の一声と言わんばかりに、両隣の隣人の足音が聞こえた。
さすがに危険を感じて、避難の準備をしようとマグカップを机に置いた時だった。
――パリン。
「あっ…!」
マグカップが割れて、中のコーヒーが書類に押し寄せた。
英治の脳裏に怒り狂う上司の顔が横切る。
ただでさえ毎日残業して帰ってきているのだ、これ以上の仕事は抱えたくない。
コーヒーまみれになった書類と、無事な書類を手に取った。
そう、手に取った。
――ボッ。
そんな間抜けな音と共に、視界が鮮やかに染まる。
燃えるような、赤で。
「!?うえ、な、ッ?!」
違う。本当に燃えている。
確かな熱を持って、書類を持っている右手を中心に黒い焦げを残しながら広がっていく。
火元はどこだ、そんなことを考える暇もなく、玄関脇のキッチンに駆け込んだ。
持っている部分が燃えたのだ。
火傷をしていても何らおかしくない。
取り乱しながら蛇口をひねり、問題の右手を流水に突っ込んだ。
その瞬間、英治の目が驚愕で見開かれる。
じゅううう、火で炙った鉄器を水につけたような音と共に、視界が一気に白くなる。
曇る視界の片隅に映った自分の手は、水の中でも赤く発光し、普通ではない熱量で水を水蒸気に変えていたのだ。
「な、いや…は…?」
目の前の意味の分からない光景に呆然とする。
目を擦る。左手で頬をつねる。
駄目だ、目の前の映像は変わらない。
痛みも何も無いが、ただその右手が燃えていたという現実は変わらず、ひたすら流水につけて置くことしかできない。
頭が真っ白になり、自分を落ち着かせるために深呼吸をした。
「逃げろ!家が、家が焼け落ちるぞ!!」
ばりばりと木の折れる音と、甲高い叫び声が鼓膜に届いた。
家が揺れるほどの振動と共にキッチンの磨りガラスからは赤い炎が揺らめいているのが見てとれる。
近所の家が燃えている、逃げなければ。
でも、この状態で逃げられるか?
そっと、流水から手を取り出した。
霜焼けでは無い、赤い皮膚はさらに色を増して、とうとう皮膚に赤い炎を纏わせた。
ひっ、と息を飲んで再び水に突っ込む。
「逃げ、られない…!」
逃げる最中で何かに引火してしまえば、自分が放火魔として疑われてしまう。
それだけじゃない、こんな現象がメディアに取り上げられたり警察に知られれば、下手すれば危険人物扱いだ。
どうしようもない状況に頭を抱えた。
「おい、危険だ!逃げなさい!」
その時、タンタンタン、階段を早足で登る音が響く。
隣人は先程逃げたはずだ。
足音は止まることもなく真っ先に俺の部屋に近づき、磨りガラスからは鮮やかな金髪が垣間見えた。
「おい、誰か居るんやろ!?鍵開けろや!!」
「ひぇッ………」
消防隊員が安否確認に来たと思ったが、まるでヤクザの取り立てのような怒号に小さく悲鳴をあげる。
扉がノックされる。
蛇口からは絶えず流水がシンクに叩きつけられており、その音を止めることはできなかった。
せめてもの救いで、息を潜める。
「あー、くそっ……」
足音が数歩遠ざかる。
止めてくれたのか、安堵の息を着く暇もなく。
「ふんっ!」
小走りに駆けた音が聞こえたと思ったら、その瞬間にドアが吹き飛んだ。
いくら金具が磨り減って錆びているとはいえ、そう簡単に吹き飛ぶような脆さでは無い。
どんな力の持ち主だ、そんな場違いなツッコミを入れてしまうほど英治の頭は混乱でパーティー状態だった。
いや、混乱しない方がおかしいだろう。
急に手は燃え出し、大事な書類は水浸しになり、近所が火事になりここも危険なのに出られなくなったり。
「げほっ、げほっ…ドア脆すぎんか?」
ドアを蹴破って来たのは警察でもなんでもない、一般人だったり。
「だ、誰…?」
「やっぱり。急いで来んと焼け死ぬで」
金髪男は、肩に付いた木屑を手で払い除けて英治に近づいた。
しかし、英治にはそこから動く勇気は無いに等しい。
右手は未だに水蒸気を発しており、無闇矢鱈に動くとこの不法侵入者まで怪我をさせてしまう。
「いや、だから誰?というか、俺もすぐ逃げるんで放っておいてもらえると…」
「いや、あんたが一緒に来んと最高に面倒くさいことになるから」
面倒くさい?
どういう事だ。火事の火がここまで来ているのか?
「火がここまで来てる感じぃ…ですか」
そうなってしまえばお陀仏確定である。
火に焼かれて骨と成るか、このまま外へ逃げて社会的な死を味わうか。
あぁ、四面楚歌。前門の虎、後門の狼。
為す術なし。
「……なんか勘違いしとるな。俺が言っとるのは外の火災の事やなくて、いやここも時期に焼け落ちそうやけど」
男は口吃り、うーんと唸って再び口を開いた。
「今燃えとるお前の右手。俺が言っとる面倒くさい事は、
男が何を言っているのか分からなかった。
異能?超能力?
そんなラノベに出てくるようなファンタジックすぎる言葉に理解が追いつかない。
「ということや。訳分からんかもしれんが、大人しく着いてきてな。あ、水が無いと動けん状態か。なるほど、分かった分かった」
男は一人で自問自答して納得したように頷き、一歩もう一歩と英治へと接近する。
今度こそ、英治は一歩後退した。
冷却出来なくなった右手が、周囲の空気を焦がしていく。
それにすら気が付かないほど、本能的な恐怖を感じて数歩下がる。
しかし、部屋の大きさには限りがあって。
「…ぁ」
背中が、壁に触れた。
「逃げんといてや。こっちも仕事でやっとるんやし、そうせんと怒られるから。堪忍な」
一定だった距離が縮まっていき、英治は目を閉じて身を守るように両腕を交差させ、男との間に壁を作った。
その左手を掴まれた刹那。
――バチバチバチッ。
なにかに貫かれるような痛みと共に瞑った視界が白く染まった。
点滅したような感覚に思わず目を開けると、自分は座り込んでいるではないか。
それだけでは無い。
身体は言うことを聞かず、どんどん動かなくなっていき仕舞いには床にぺたりと伏せてしまう。
「大丈夫、痛いことはせぇへんから…」
視界が暗くなっていく。
落ちる瞼を必死に保っているが、意思に反して視界はどんどん幕を下ろしていく。
何をされるか分からないのに、寝てしまうなんて絶対に駄目だ。
そう理解しているのに、深淵から手を伸ばす睡魔に勝てるわけがなく、その無意識の海に身体を放り投げた。
『次のニュースです。日本各地で起こる不審火事件で、本日も東京、千葉、兵庫で六つの大規模火災が起こりました。出火原因はいずれも不明で……。はい、速報です。東京で住宅五棟が燃える火災が起きています。テロの可能性があります。周辺地域の方は速やかに避難をしてください。繰り返します、ただ今東京にて………』
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