№30 マジックアワー
その目からも、とうとう光が消え失せていく。『モダンタイムス』はもうすぐ死ぬのだ。その事実があまりにも現実離れしていて、ハルには受け入れがたかった。
「……見たかったんだよねえ……桜……」
『モダンタイムス』がまぶたを下ろそうとした、そのとき。
ひらり、視界の端に桃色の花弁が舞った。閉じようとしていた目を見開き、『モダンタイムス』はその花弁に震える手を伸ばそうとした。
代わりにハルが手に取ると、それはたしかに桜の花びらだった。
「……頼みがあるんだ、塚本ハル君……」
「なんですか?」
ハルが問い返すと、『モダンタイムス』は最後のちからを振り絞って、
「……桜が、見たいんだ……どうしても……」
答える間もなく、ハルは視線で花弁が来た方向を探す。あそこでもない、ここでもない。ビルの高さから考えて、地上で咲いているものではないだろう。
早く早く、『モダンタイムス』の息が尽きるまでに。
焦って探すハルの目が、茜色に染まるビル群の中、とあるビルの屋上に桃色を見つける。
ずいぶんと小さいが、屋上のやしろに咲いているのは、気が早すぎる開花を迎えた桜だった。
ハルは『モダンタイムス』の軽すぎるからだを背負い、フェンス際まで連れてくる。赤い跡を引きながらやってきた『モダンタイムス』は、まだ五分咲きの桜を見付けると、目を真ん丸にして口元を歪めた。
「……あは、は……!……間に合った、間に合ったぞう……!……小生の、勝ちだ……!!」
正直、なんの勝ち負けなのかはわからなかったが、少なくともハルはそこに、ひとのいのちの最後の輝きを見た気がした。
にんまり笑って勝利宣言した『モダンタイムス』が、とうとう姿勢すら制御できずにあおむけになる。その最期を看取るために、ハルはひざを貸して手を握った。
しばらくの間無言で、とうとうちから尽きたかと思われたが、午睡の合間のようなふらふらした口調で、『モダンタイムス』が口を開く。
「……俺は、少しでも、この世界に……爪痕を、残せたのかな……?」
どこか不安げな問いかけに、ハルはちから強く返答した。
「世界なんて、どうでもいいじゃないですか。少なくとも、僕のこころには大きな爪痕が残りましたよ」
「……あはは……そりゃあ、結構……!」
その答えに満足したらしい『モダンタイムス』は、思い切りにんまり笑って、最後の大見栄を切る。なにかをつかもうとするかのように、がくがく震える腕を天高く掲げて、
「……これにて失敬、大団円……!……見てくれよ、この見事なマジックアワーの空……!……手品じみたウソっぱち人間が死ぬには、いい日よりだ……!」
『モダンタイムス』の言う通り、夜に向かう空は茜と群青のグラデーションを描いていた。マジックアワーと呼ばれる空模様だ。
『モダンタイムス』は血まみれの顔でにっかりと笑い、
「……いやあ、いい人生だった……!」
そうつぶやくと、伸ばした手はなにもつかむことなく、ぱたり、と胸に落ちた。全身の筋肉が弛緩し、鼓動が止まる。体温も消えていく。
半開きになった『モダンタイムス』の目は、もう何も映していなかった。笑顔の残滓だけが、その表情に張り付いていた。
まるで勝ち逃げされたような気分になったハルは、『モダンタイムス』の遺体を抱いて、しばらく暮れ行く空を見上げていた。
ひと知れず、世界は救われた。
しかし、本当にこれでよかったのだろうか?
もっと冴えたやり方があったのではないか?
その『冴えたやり方』を実行するには、ハルはまだ未熟すぎた。
もっと強く、もっと賢く、もっとやさしくなりたい。
『モダンタイムス』を残して未来に進む以上、それなりの成長をしなければならない。でなければ、申し訳が立たなかった。
これから先、いろいろなことが起こるだろう。
だが、こうと決めた以上、自分は進み続ける。
影子と、みんなと過ごす明日が待っているのだから。
申し訳ないと思ってしまうあたり、少し『モダンタイムス』に情が移ってしまったようだ。
影子に喰われたときに見た、様々な表情の『モダンタイムス』を思い出す。
……透明な存在、か。
『モダンタイムス』を無視し続けてきた冷酷な世界は、結局今日も変わりなく、澄まし顔で回り続けている。
しかし、これが自分たちの生きる世界だ。
……とっぷりと日が暮れたころ、ハルは3コール以内に出る相手に電話をかけて、報告と、事後処理をお願いした。
ひとが来るまでの間、『影』たちが決して見ることのできない夜空を見上げ、ハルは『モダンタイムス』の遺体に寄り添っていた。
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