№23 溶けあう思い

 喰われた瞬間、ハルはとてつもない快感を覚えた。


 あたたかくやわらかい、原初の春海に漂っているような。なのに、切なく荒れ狂う激しい波濤にもまれているような。


 ハルに五体の感覚はない。むき出しになった意識だけが、『影』の世界にリンクしている状態だ。


 そう、これはまぎれもない、影子の『内側』なのだ。


 その『内側』と、今ひとつになっている。


 皮膚という邪魔なものを取り払って影子と溶け合い、すぐそばに影子を感じた。


 影子のやさしさ、影子のかなしみ、影子の怒り、影子のよろこび、そして、影子の愛情……そんな影子の感情に触れて、ハルは膨大な快感に溺れた。もしもからだの感覚があったなら、七回以上は射精していただろう。


 影子がいる。そして、影子とひとつになった自分がいる。


 これ以上に影子を感じることができる手段が他にあるか?


 何万回のセックスなんかより、この一度きりの融合で、ハルは影子のすべてを理解できた。


 影子。いとしい影子。かわいい影子。強くて弱い影子。


 影子という色彩が意識に流れ込み、色とりどりに染まったハルは、そのよろこびに号泣した。からだの感覚はないが、たしかにハルはうれし泣きしていた。


 ひとしきり泣いてから、次第に影子の記憶の領域に触れていく。


 そこは、ほぼハルとの記憶で埋め尽くされていた。影子の視点で見た、いろいろなハルがいる。あの時、こんな目で自分を見ていたのか。あの時はあんな風に目に映っていたのか。影子の気持ち、影子の思考、そんなものを添えて思い返した自分は、思っていたのとはまるで別人だった。


 プロポーズ、ケンカ別れ、からだを繋ぎかけたこと、初めてのキス、思いを告げたときのこと、好きだと自覚した時のこと、忠誠を誓ったこと、初めてハルを救ったときのこと……


 思い出は、たくさんの非日常的日常の記憶を引き連れて、どんどん過去へとさかのぼっていく。


 やがてたどり着いたのは、最初の記憶だった。


 


 少年には、影がなかった。


 おおよそ『実存』というものに付きまとう影を、持っていなかった。


 それはもしかしたら『存在』していないということになりかねない、危うい状況だった。


 だが、少年にとってはそんな難しいことはどうでもよかった。


 それよりも――影踏みがしたかった。


 折しも少年のまわりでは影踏みが空前のブームで、少年はその遊戯に混じりたかったのだ。


 だが、いつもばっさりと切り捨てられる。


 『おまえ、かげないじゃん』と。


 それが切なくて、今日も少年は公園のベンチで影踏みに興じる子供たちを遠巻きに眺めているのだった。


 季節は真夏。うるさいくらいの蝉の鳴き声の中、きゃいきゃいと子供たちが遊んでいる。照り付ける日差しで影はくっきりと浮き上がり、その主の動きに合わせて動いていた。


 少年の幼い肌を汗が伝う。家に帰っても良かったのだが、混ざれないなら、せめて眺めていたかった。


 みんな、楽しそうに影踏みをしている。


 どうして自分はそこに入れないのだろう。


 ――どうして、自分だけ違うのだろうか。


 どうしようもない疎外感に眩暈さえ覚える。


 ……そんな少年へと、『影』が近づいていた。


 『実存』と対称ではない、ただ地面を這うだけの『影』だ。イデアの残骸だ。


 すう、と海面下を滑るイルカのように、静かに、そして素早く少年に迫る『影』。人間を取り込むことだけを本能とする『影』が、今まさに少年を取り込もうと近づいていた。


 ベンチに座る少年のすぐそばまで『影』が接近して、初めて少年はその存在に気付いた。


 つう、と少年の紅潮した頬に汗が伝う。しかし、それだけだった。少年はまったく動じず、ただうごめく『影』を見つめていた。


 『影』は少年を取り込むべく、津波のように具現化した。その波濤が少年に襲い掛かる寸前、彼はこともあろうに『影』に話しかけた。


「ねえ、きみ、『のらかげ』でしょ?」


 『影』は戸惑うようにその動きを止めていた。今まで話しかけられたことなどなかったからだ。少年は構わずに続ける。


「『のらかげ』には……ええと、しゅじん?がいないって、おかあさんがいってた」


 それはそうだ。『影』は『影』でしかなく、対となる『実存』を持たない。


 それが当たり前だと思っていた。


「ひとりぼっちはさみしいよね。だから、ぼくがしゅじんになってあげるよ。そうすれば、ぼくはかげふみができるし、きみはさみしくない。りょうほうともしあわせだよ?」


 『影』の戸惑いが大きくなる。自分の主人になる? この少年が? 今にも彼を取り込もうとしていた自分の主人に? ただ、影踏みをするためだけに?


 わからないことだらけだった。


 そんな『影』に、少年はあどけない笑顔を浮かべて手を差し伸べた。


「おいで、こわくないよ」


 まるで野生動物をあやすような声音に、『影』はなにもかもがどうでもよくなってしまった。


 いいだろう、己と対を成す『実存』たる主人。果てのない飢餓と放浪から解放してもらおうじゃないか。


 『影』の形がうねうねと変わり、少年の足元にわだかまる。地面に伸び、やがてそれは少年と同じ形を取るようになった。


「ありがとう」


 『影』がなじむと、少年は笑って礼を言った。


 そして、ベンチから飛び出して走り出す。


 自分にも影ができたのだ。これで影踏みができる。


 誰とも違わない、普通に遊戯に混ざれるのだ。


 ――やがて、真夏の蝉時雨に子供の歓声がまたひとつ、混ざった。


 


 そうだ、自分と影子は、そうして出会ったのだ。


 なぜ今まで忘れていたのか。


 きっかけは、単なる影ふみだった。


 そこから、影子は16年間、ずっとハルの影の中で、ハルを通して外の世界を眺めていたのだ。ハルが知らない間に、ハルとずっといっしょにいてくれたのだ。


 自分を『普通』にしてくれた、普通ではない『ノラカゲ』。


 それが影子だ。


 記憶はさらに過去へと遡及していく。


 病床で血を吐く男。影子は男の『影』だった。愛する主人が苦しんでいるのを見て、影子はひとつの決心をした。


 笑う主人、怒る主人、悲しむ主人。そんな主人の姿のすべてを道連れに、大きく膨らんで主人を喰らう。


 じゃぶん、と影に沈んだ主人は、これでラクになれただろうか?


 もう二度と会えないけど、苦しみから解放されたのならばそれでいい。


 それとも、それさえも影子のエゴでしかないのだろうか?


 もう苦しみたくないのは影子も同じだった。


 これは罪だ。


 愛する主人を喰うという、犯しがたい罪。


 だったら、自分はこのまま『ノラカゲ』として孤独にこの世界をさまよっていよう。


 いつかくたばる、そのときまで。

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