№22 フルダイブ

 それもやがては収まってきて、ベッドを背もたれにカーペットの上で、ふたりは指を絡めて寄り添っていた。


 お互いの指にはまった指輪をつついたり、爪のラインをなぞったり、時折ぎゅっと握りしめたり、ふたりは日が沈むまでの間、互いの手を取り合って過ごした。


「……お嫁さん、って本気にしてたんじゃねえか」


「当たり前だよ。君こそ、冗談で書いたつもりだったの?」


「そんなんじゃねえけど……なんつうか、いざ叶うとなると夢みたい、っつうか……」


「夢じゃないから安心して」


「……わあってるよ」


 まだ鼻声の影子が、笑いながら手を握ってきた。なので、ハルもまたぎゅっと握り返す。


「お嫁さんになるのに、花嫁修業とかした方がいいのか? あと、アンタの親にあいさつとか」


「そういうのはいいよ。一応両親にはあいさつしてほしいけど、君のことだからまた破天荒なお嫁さんになってくれそうだし」


「それってバカにしてんのか?」


「全然」


「ならいいや」


「そうだな、子供も欲しい。ひとりでいいから。君と僕との子供」


「アンタとアタシの子供か……どんなのになるんだろうな?」


「まあ、規格外の子供になるだろうね」


「ふはっ、そりゃあアタシたちの子供だからな。どうせ産むなら、マトモじゃねえの産みてえよ」


「そしてマトモじゃない子育てをするんだろうなあ、君は」


「失礼な。いちおアタシだって愛情たっぷりめで甘やかし育児するつもりだぜ?」


「ほどほどにね」


「アンタは官僚になんだろ? アタシは家や子供のことでサポートしてやんよ。必要なら働くし」


「君を働かせるつもりはないよ。僕がしっかり稼ぐから」


「んじゃ、悠々自適の専業主婦生活でも満喫しようかな」


「たまに家族旅行に行ったり、食事に出かけたり。僕も仕事の合間に家族サービスがんばるよ」


「その前に、官僚になるための勉強をがんばれよ」


「わかってるって。これから先、君との未来のために、やれることは全部やる」


「……未来、か」


 そこで、ふっと会話が途切れた。


 そうだ、その未来を勝ち取るためには、明日の決戦で勝利しなければならない。すべてはそこからだ。未来予想図は、『モダンタイムス』との戦いで勝つことが大前提となっている。


 しかし、なぜだかハルは今、負ける気がしなかった。


 影子といっしょなら、どんな敵だって倒せる。


 影子と誓い合った未来なら、どんな困難が襲ってきても乗り越えられる気がする。そう思えた。


 確信にも似たその感情は、決して思い上がりなどではない。青春時代特有の、根拠のない万能感でもない。


 自分たちは明日、勝つのだ。なにをしてでも。


 それ以外のビジョンは見えない。


 明日を越えたその先にある未来のために。


 ……そのために、やっておきたいことがあった。


 ハルは沈黙を破る。


「影子。僕を喰ってくれ」


 唐突な頼みごとに、影子は呆気に取られた顔をした。


「……はあ? もういいんだよ、そういうのは……」


「違う、そうじゃない」


 自分を喰ってもらう意図に関して、ハルは手を繋ぎながら説明する。


「自分の影を母親の胎内で喰った『影喰い』……それなら、小さいころ影がなかったっていう僕にも当てはまるはずなんだ。だけど、僕は『影喰い』じゃない……それって、僕が影がなかったころのことを覚えてないからなんじゃないかな?」


 あくまで仮定の話でしかないが、記憶がひとつの封印になっている可能性はあった。『影喰い』はとてつもなく絶大なちからだ、なにかしらのストッパーがかかっていてもおかしくはない。


 『影喰い』としての『モダンタイムス』と対峙するには、ハルもまた『影喰い』として覚醒する必要があった。他に対抗する手段は思いつかなかった。


 その記憶を取り戻すには、『影』の集合的無意識にアクセスしなければならない。ハルが喰った『影』の記憶、『ノラカゲ』だった影子の記憶、その記憶につながることができれば、思い出すことも不可能ではないと思われた。


「『影』の集合的無意識につながるには、『影』に食われるしかないって、前に喰われたときにわかってる。君の記憶や、僕が喰ったっていう生まれなかった『影』の記憶にアクセスできれば、きっと覚醒できると思うんだ」


 そう説明した後、ハルは少し照れくさそうに笑い、


「……それに、お嫁さんとのなれそめを覚えてないっていうのも、間の抜けた話だしね」


「……わかった」


 影子は真剣な顔をしてうなずき、繋いでいた手をほどいた。


 そして、カーペットの上にハルを組み敷くと、馬乗りになって両手でハルの頬を包み込んだ。


「今から、お前を喰う。あとで必ず引っ張り上げてやるから、取り戻してこい」


 出会った日の記憶を。欠落した邂逅の思い出を。


 ハルは静かにうなずき、目を閉じた。


 瞬間、影子の影が大きく広がり、ハルのからだはその黒の海に飲み込まれてしまった。


 じゃぷん、と水音を立てて、ハルの姿は完全に消えてしまう。


「……いってらっしゃい」


 つぶやく影子をひとり残して。

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