№21 『愛してるよ』

 そもそも、なぜ影子は泣いているのか?


 消えるとはどういうことか?


 理解が追いつかないハルは、ただ頭を真っ白にしてきょとんとしていた。


 ……もしかして、これは別れ話というものなのだろうか?


 そう思い至った瞬間に、衝動が沸き起こった。


 いやだ、離したくない。なんとかして引き留めなければ。


 こんなことで別れるなんて、冗談じゃない。


 その間にも影子は嗚咽と共に涙を流している。


 今はただ、その涙を止めたかった。


 しかし、止め方がわからない。


 誤解を解いて自分は影子だけだということをわかってもらえばいいのだが、影子が今欲しているのはそんなものではないような気がした。病んで傷ついた影子には、もっと根本的なことが必要なのだ。


 だったらどうすればいいのか? 言葉では足りない。行動しなければ。しかし、なにをすればいい? 影子のこころの奥底に手を届かせるには、一体どうすればいいのだろうか?


 ……もう、考えているヒマも余裕もなかった。


 ハルは肩を震わせて泣いている影子をぐっと引き寄せると、そのままかたく抱きしめた。


「……やめろ、よ……!」


 腕の中で影子が暴れる。しかし、ハルはしがみつくように必死に離すまいと腕にちからを込めた。


「……アンタは、これからしあわせな人生を……!」


「なに言ってるんだ、君だって誕生日だよ」


「……ワケ、わかんねえ……!」


「僕がいたから、君は生まれてきた。君がいたから、僕は生まれてきた。だから、君と僕の誕生日はいっしょ……生まれてきてくれてありがとう、影子」


「……へ……?」


 今度は影子がきょとんとする番だった。抵抗するのも忘れて、目を丸くする。


 その隙に、ハルは影子を抱きしめたまま机の上に置いてあった小箱を差し出した。手のひらに乗るような、小さな箱だ。


「ほら、誕生日プレゼントだって用意してあるんだ。これが、僕の『欲しいもの』だよ」


「……でも、アンタは他の女と……」


 混乱する影子に、ハルは順を追って説明した。


「誤解だって。本当にただのバイトなんだ……ラブホテルのフロントの」


「ふ、フロント……?」


「そう。写真に写ってたのは上司だよ。いろいろ仕事を教えてもらって、少し仲良くなったんだ。たまたまシフトの直前、職場の前で鉢合わせたところを写真に撮られたみたいだね」


「……でも、アンタ、そんなの一言も……」


「本当は未成年なんて雇っちゃいけないんだけど、時給がいいから無理言って雇ってもらったんだ。ほら、ラブホテルだろ? あのときは教室だったし、学校に知られたらバイト先にも迷惑がかかるし、内申にも響く。だから、あの場では説明できなかったんだ、ごめん」


 呆気に取られている内に、これさいわいとひとつひとつ誤解を解いていくと、影子はますます目を真ん丸にしてまばたきを繰り返す。その度に、まなじりにたまった涙がはじけた。


「こればっかりは、自分でためたお金で買いたかったからさ……ついつい見栄張っちゃって、高額バイトするために余計に誤解させっちゃったわけなんだけど。誓って僕は浮気なんてしてないし、君しかいないんだよ、影子」


「……ホントに……?」


「本当だよ。君がいなきゃなんにもならないんだから。未来永劫、君は僕のもので、僕は君のものだ」


 いつか影子が言っていたことをそっくりそのまま返して、ハルは一旦影子を抱く腕からちからを抜いた。そしてその場にひざまずくと、『誕生日プレゼント』の箱を開く。


 そこには、プラチナのペアリングが収まっていた。ふたつ重なって、さざ波のような彫刻がされているデザインになっている。小さい方にはダイヤモンドがはまっていた。


 ひくっ、と息をのむ影子に向かって、ハルは忠誠を宣誓する騎士のように、もしくは祈祷をする敬虔な信者のように告げる。


「だから、影子。どうか、僕のお嫁さんになってください」


 ふたつのリングが意味するところは、それしかなかった。


 春先の、淡いプロポーズだ。


 我慢しきれなくなった影子の赤い瞳から、またしてもぽろぽろとしずくが零れ落ちてくる。しかし、今度は違う意味での涙だ。


 前腕で瞳をぬぐい続ける影子の左手を取ると、ハルはそっと小さい方のリングを薬指にはめて、口づけをひとつ落とした。


 肩を震わせる影子のからだを抱きしめ、ハルはそっとささやきかける。


「……愛してるよ、影子」


 陳腐な愛の告白だった。しかし、それ以外に的確な言葉を、あいにくハルは知らない。


 しかし、影子にはそれで充分だった。


「……ア”タ”シ”も”……!」


 しゃくり上げながらもなんとか返す影子。


 その姿がいとおしくて、ハルは胸の中に閉じ込めるように影子を抱きしめる。


 影子もまた、絶対に離さないとハルの背中に手を回し、ちからを込めた。


 おそろいの指輪がはまった手で抱きしめ合いながら、しばらくの間、室内には影子の嗚咽だけが響いていた。

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