№17 暗闇の底で
あの日以来、影子はハルの呼びかけに応じなくなった。どれだけ名前を呼ばれても、ハルの影から出てこようとはしなかった。
……どのツラ下げて出て来いというのだ。
浮気されているとも知らず、あんなにはしゃいで、みっともない。カッコ悪いったらない。知らないのは影子だけだったのだ。きっとみんな知っていて、かわいそうにと哀れんでいたことだろう。
信じていたのに。
今度こそ大丈夫だと思っていたのに。
勝手に許されたと思い込んで、恋にうつつを抜かしていたのだ。天罰も下るというものだった。
やっぱり、自分には恋なんて上等品だったのだ。
しあわせなんて、望んではいけなかった。
でなければ、不公平だ。
主人を喰った『影』である自分は、それ相応の報いを受けなくてはならない。それが、この失恋だ。
……痛い。
思いが大きかった分、なおさらに。
ハラワタを引きずり出された方が幾分かマシだった。
初めて経験する痛みは、影子の中に暗い暗い影を落とした。
ハルは、自分なんかが恋していい相手ではなかったのだ。もっとふさわしい相手がいるはずだ。現に、他の女とデキている。その女も、影子よりずっとおしとやかで賢く、美人で大人なのだろう。
自分なんて……
影に引きこもった影子は、完全にこころを病んでいた。ただ眠りの暗闇に溶け込み、ゆらゆらと漂う不定形な存在になる。より暗い所へ行きたかった。もっと深く、深淵へ……
導かれるままにたどり着いたのは、原初の記憶だった。
病苦にさいなまれる主人を喰った、あのときの記憶。
決定的な罪を犯した瞬間。
やはり、贖いきれていなかったのだ。
なのに、ひとりで許された気になって、調子に乗って。
その結果がこれだ。
無様すぎる。
打ちのめされた影子だったが、かと言ってハルのことを嫌いになったかと聞かれると、そうではないと答えるだろう。
ハルのことは好きだ。愛している。
それゆえに、今こうしてどうしようもなく病んでいるのだ。
嫌いになれたらどれほどラクだろうか。
吹っ切るにはどうすればいいのか。
忘れるには……
……そうだ。
いっそ、ハルも喰ってしまえばいい。
ハルを喰って、取り込んで、自分ひとりだけのものにして……
……ハル。
……ハル、ハル、ハル……
影子の無意識の海に、いくつものハルとの思い出が浮かび上がった。
初めて出会ったときのこと。初めてこころを許したときのこと。初めて好きだと自覚した時のこと。初めて思いを告げたこと。初めて思いを受け入れてくれたこと。初めてキスした時のこと。
そして、星の数ほどの何気ないあたたかな非日常的日常。
影子の輝かしい宝物だった。
しかしその思い出たちも、やがてはすべて黒に侵食されて塗りつぶされてしまう。あとに残ったのは、真っ暗闇だけだった。
……ハル。
ため息のような声にならない声で名前を呼んで、影子はより深い無意識の闇へともぐりこんでいくのだった。
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