№16 たられば
塚本ハルに『あるじを止めてくれ』と頼んだことについて、当のあるじはまったく無頓着で、問い詰めたりなじったりは決してしなかった。
自分は、いわば謀反を働いたのだ。それも、初めて。これまであるじの意志に反する言動を取ったことはないし、取るつもりもなかった。
それでも秋赤音を突き動かしたのは、あの川辺でのあるじのやすらかであどけない寝顔だった。
こんな顔をして眠りについてほしい。強くそう思ったがゆえに、秋赤音は単独で塚本ハルに接触したのだ。
……その願いは叶いそうにないが。
「……ああ、もしもし? 聞こえてるう?」
あるじは今、夕暮れの歩道橋の上でどこかに電話をしている。そのそばに控え、やせ細った肩から落ちそうになっている花魁衣装をかけ直す秋赤音。
「だあいじょうぶ、小生は世界と心中するんだよ? そうすれば、あんたたちの事情もなにもかもすっとんじまうさ」
花冷えの夕方、あるじの肩は少し震えていた。それでも、あるじは歩道橋の欄干にもたれかかりながら、のらりくらりと電話の向こうの人物と話をする。
「仮にそうならなかったとしても、小生は墓の下に政府の『真実』を持っていくつもりだよう。安心していい。それよりも、世界がモノクロームに堕ちるかどうか、そっちの方を心配した方がいいんじゃないかなあ?」
電話の向こうで誰かが怒鳴っている。が、あるじは構わず通話を切ってしまった。
「……よろしいのですか?」
「ああ、だいじょぶだいじょぶ。ほっときゃいいのさ、あんなのは」
形式的に聞いてみたが、あるじの答えはやはり投げやりだった。あるじがそれで良しとしているのだから、秋赤音が口を挟むところではない。
本当に、世界を滅ぼすつもりなのだ。『影喰い』としてのちから……全世界の『影』の集合的無意識に呼びかけて、宿主を喰わせる。すべてはモノクロームに沈み、その中であるじはたったひとりの極彩色として君臨し、死に際を過ごすのだ。
それが満ち足りた最期だというのならば、そうなのだろう。
しかし、そうまでして世界に復讐を果たして、一体なにが残るというのだろうか?
死したのちも続いていく世界に望みを託す方が、安らかにこの世を去れるというものなのではないか?
秋赤音が煩悶していると、不意にあるじがせき込み始めた。
喘息患者のように背中を丸めて激しくせき込むあるじは、やがて血を吐いた。『影』とは違う真っ赤な血液で、白い手のひらが染まる。
「あるじ様!?」
秋赤音が慌ててあるじの背中をさすると、あるじはなおも血を吐きながら、ぜいぜいと怨霊のような声音で、
「……だいじょうぶ、だあいじょうぶだよ、秋赤音……まだ、大丈夫だ……まだ、まだ……まだ、死ねない。世界と決着をつけるまでは、審判を受けるまでは……」
「大丈夫ではありません! ご自宅までお送りします、つかまってください!」
うわごとのようにつぶやくあるじの腕を強引に背負い、秋赤音はその場を立ち去ろうとした。ごぼり、あるじの口から血のかたまりが出てくる。
もはや目の焦点が合っていないあるじを引きずっている間も、呪詛は続く。
「……小生は、この世界で唯一の極彩色になるんだ……それが、俺を無視してきた世界に対する復讐だ……」
「あるじ様、なぜそのようなやり方でしか終われないのですか?」
悲嘆さえ含んだ秋赤音の言葉に、少しだけ意識を浮上させたあるじが、口元を血で汚しながらにんまり笑う。
「……決まってんだろ、小生はバカだからさ……」
そう言ったっきり、あるじは、かくん、と頭を落として意識を失ってしまった。
……また、はぐらかされた。
いつだってそうだ。本当のところは誰にも言わず、いつも道化師を演じるあるじ。その内側にある憎しみも悲しみ絶望も、自分とは共有してくれない。
そんなあるじの内側に一歩踏み込むことなくただただ従うだけの自分が、今はひたすらに歯がゆかった。自分にももっとやれることがあったのではないか、終わりに近づいた今、ひしひしとそう思う。
ふと思い出したのは、塚本ハルと塚本影子のことだ。
互いにこころを許し合っている『影使い』と『影』。時にぶつかり、時に反目することもあるが、その数だけ分かり合える関係。秋赤音にとっては考えられない主従関係だったが、今はそんなふたりがうらやましくて仕方なかった。
絶対に越えられない壁のある自分たちと、その壁をぶち壊しにしてしまった塚本ハルたち。
どこでどう違ってしまったのだろうか。
もしもあのとき、もっと別の言葉を返していたら、結末は変えられたのかもしれない。
が、今更遅い。
すべての歯車は回り始めてしまったのだから。
あとは、塚本ハルたちに託すしかない。
眠るほんの数分前にあるじを自宅に送り届け、秋赤音はあるじの影の中で眠りにつくのだった。
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