№10 春はうららか

 とあるうららかな春の午後。


 どこにでもありそうな河川敷では、小学校の低学年男児たちがサッカーをしていたり、年老いた夫婦が犬の散歩をしていたりする。


「……ああ、桜のつぼみがふくらんでいるねえ……」


 草の上で秋赤音に膝枕をしてもらいながら、『モダンタイムス』は寝言のような声音でつぶやいた。春風に溶け消えてしまいそうなか細い声だ。


 鎮痛剤がよく効いているのか、最近の『モダンタイムス』はずっとこんな具合だ。『モダンタイムス』のからだをむしばむすい臓がんは、もはや治療の段階などとうに過ぎている。今はいかに痛みをなくすかというターミナルケアに移行している。


 残された時間はもうないに等しい。間もなく、『モダンタイムス』は死ぬ。


 そうすれば、その『影』である秋赤音も消えてなくなる。


 『ノラカゲ』だった自分が『影喰い』である『モダンタイムス』に食われてから、ずっと寄り添ってきたあるじ。秋赤音の過ごしてきた時間のすべては、あるじと共にあった。


 すべてをあるじに捧げてきた、と言っても過言ではない。


 秋赤音の言動のすべてはあるじのためのもので、あるじが命じればなんだってやった。忠義を尽くす秋赤音は、『モダンタイムス』の絶対的な従僕だった。


 ……いや、ただの犬か。


 ぼんやりとした眼差しで桜の木を見上げる『モダンタイムス』を見下ろし、秋赤音は自嘲の笑みを浮かべた。


 たとえ犬でもいい。それがあるじの糧となるならば、畜生のそしりを受けても構わない。あるじの従者である以外のアイデンティティなど、自分にはないのだから。


 ……しかし。


 秋赤音の中には、一抹のもやもやがあった。


 このままでいいのか?


 あるじは死の道連れとして、世界を滅亡させる。それはあるじが誓ったことであって、自分ごときが曲げることなどできはしない。


 それはわかっている。わかっているが、『こんな終わり方でいいのか』という疑問が、ずっと秋赤音の中にあった。


 なにか他に、あるじを満たしてくれる終わり方があるのではないか。


 世界滅亡という罪業を背負うことなく、しあわせの中で安らかに眠りにつくやり方が。


 どうせいっしょに消えるさだめ、だとしたら、秋赤音はあるじの最期をできる限り平穏であたたかいものにしたかった。


「……どうやら、今年の桜は間に合いそうにないなあ……」


 ふと、『モダンタイムス』の目の焦点が秋赤音の瞳に合った。考えを見透かされたような気がして、秋赤音はすぐさまいつもの無表情を取り繕う。


「……本当に、ぎりぎり間に合わないかあ……小生って、なんでこんなに間が悪いんだろうねえ……」


 喃語のようにつぶやくあるじの頭を、幼子をあやすように撫でる秋赤音。気持ちよさそうにうっとりと目を細めて、『モダンタイムス』はとうとうと続けた。


「……君ともお別れだねえ……長いようで短い付き合いだった……今まで仕えてくれて、ありがとう、秋赤音……」


 まるで遺言じゃないか。ついくちびるを噛みしめてしまった秋赤音に構わず、『モダンタイムス』は言葉を継いだ。


「……小生は世界を道連れにしてくたばるよ……政府の『真実』とも心中だ……あと少しでね……そう、桜が咲く前には……」


「いいえ、あるじ様。お別れではありません」


 とても聞いていられなくて、秋赤音はつい口を差し挟んでしまった。差し挟んでしまった以上、言葉をせき止めておくことはできない。


「あるじ様が散るときは、この私も散るとき。それがさだめです。ならば、共に死にましょう」


「……ふふ……じゃあ、地獄の底まで仕えてくれる……?」


「もちろんです」


 ちから強くうなずき返す秋赤音に、『モダンタイムス』は落語の傑作を聞いた時のように大きく笑った。


「……あはは……!……君ってやつぁ、小生以上に酔狂だねえ……いっしょに世界を滅ぼそうってんだからさ……けど小生、伊達と酔狂だぁい好きだからねえ……」


「存じております。あるじ様がお望みならば、伊達と酔狂で共に乱舞するのもまた一興かと」


「……賽の河原で踊り狂う亡霊、ってか……誰かも歌ってたねえ……じゃあ、三途の川でチークでもごいっしょしようか……」


 だんだんと、『モダンタイムス』の目の焦点がぼやけてくる。ピントの合っていない片目を見下ろしながら、秋赤音は漠然と、ああこのひとは死んでいくのだな、と実感した。


「……眠くなってきたよ……ちょっと悔しいなあ……さくら、もうすこしだけはやくさいてくれればよかったのに……」


 半分眠りながら、子供のようにふてくされるあるじ。


 完全に眠るまで頭を撫で続け、寝息を立て始めた『モダンタイムス』を小さなからだで背負い、立ち上がる。『影』である自分が眠る夜までに、あるじを自宅へ送り届けなくては。


 あるじのからだは、いつからこんなに軽くなったのだろうか?


 まるで骨を背負って歩いているような感覚に、秋赤音は複雑な顔をして河川敷を後にするのだった。

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