№7 バイト、始めました
「夜間の短期バイトぉ?」
すっかり日が伸びた夕暮れの帰り道、手を繋いで下校しながら、影子が怪訝そうな声を上げた。
「うん、今夜から。それで、彼女である君には一応報告しておかなきゃと思って」
何でもない風に語るハルの口ぶりに、影子は自分はハルの彼女なのだなあと改めて実感した。『報告』などと義務的な口ぶりだが、この浮ついた口調は話を聞いてほしい時のそれだ。
しかし、感慨にふけっている場合ではない。
これまでバイトなどしたことがなかったハルが、今更どうして?
ちょっとした買い物や放課後のささやかなぜいたくは、もらったお小遣いでなんとかなっていたはずなのに。しかも、バイト初心者のくせに夜間とは。
夜、『影』は眠らなければならない。これでは、影子もちょっと様子を見に、とはいかない。なにか危険が迫ったとしても助けてやれないのだ。
手を繋いで歩きながら、影子は口を尖らせて言った。
「なにやってんだよ、ベンキョしろよ。官僚になんだろ?」
少し非難めいた口調になってしまったことを反省したが、ハルはまったく気にしていなかった。
「いや、ちょっと欲しいものがあってね。これだけはお小遣いでは買えないものなんだ」
お小遣いでは買えないもの。そんなに高額なものなのか?
気になった影子はずばり聞いてみることにした。
「なにが欲しいんだ?」
「うーん……秘密」
にこっと笑うハルがまぶしくて、影子は無性にサングラスをかけたくなった。どこまでかわいいんだこの恋人は。全人類に『これが私の彼氏です!! どうだ素敵すぎるだろ!!』と自慢したくなった。
そんな内心を見透かされないように真面目な顔を取り繕って、影子は言葉を継ぐ。
「んじゃ、アタシも稼ぐ」
ハルのためならバイトくらいはおとなしくしてがんばろう。猫をかぶっていれば、影子は単なる眉目秀麗成績優秀な女子高生なのだから。接客だろうが事務だろうが肉体労働だろうがテレアポだろうが、ハルのためなら苦にはならない。
しかし、影子の申し出に、ハルは首を横に振った。
「いいよ、君を働かせるわけにはいかない。あくまで僕自身の手で稼いだお金で欲しいものがあるんだから。それに、夜間の方が時給がいいんだ。ひとが少ないからそれほど忙しくはならないだろうし」
「そりゃそうだけど……」
「第一、君は夜動けないじゃないか。稼ぐったって、学校が終わってから夜までの時間だけじゃ足りないだろう?」
「……う……」
次々正論を繰り出されて、影子は言葉に詰まった。
なんというか、言い知れない不安があるのだ。
自分が動けない夜のうちに、ハルがなにか変わったことをする。影子には絶対に見えないところで、ハルはバイトをしようとしているのだ。
……『バイト』、という名の別のなにかかもしれない。
考えれば考えるほど不安は雪だるま式に大きくなっていった。
まさか、他に女でもできたか? だから、自分が動けない夜に『バイト』という口実を設けて密会しようとして……
いやいや、ハルはそんな人間ではない。誰よりも影子を愛し、他に特別は作らないはずだ。曲がったことはせず、仁義を通す男だ。影子もそこにほれ込んだのだから、間違いない。
しかし、万が一ということがある。もし、もしもハルが浮気をしているとしたら、本カノである自分はどうしたらいい? 泣けばいいのか怒ればいいのか、許すのか許さないのか、それすらわからない。なにせ初めてのことだし、あまり大っぴらに相談できることでもないのだ。
邪推は邪推を呼び、影子の中にはいつしか不安の山が大きくそびえ立っていた。
そんなひとり相撲も、ヤンデレ特有のものだ。影子にその自覚はないが。
不安のあまりぼうっとしていた影子のくちびるに、やわらかいものが触れる。
小さく口づけたハルは、いたずらじみた笑みを浮かべた。
「……隙あり。君らしくないな」
「……るっせ」
お返しのキスをすると、影子はつないだ手をきつく握った。
「……アタシだけにしとけよ?」
「?? なんのこと?」
「わかんねえんなら、いい」
きょとんとするハルに、ウソをついているようなところは見受けられない。これは本当に欲しいものを手に入れるためのバイトなのだろうか。
そうだ、きっとそうだ。
これは影子の妄想に過ぎない。
そう自分に言い聞かせながら、手を繋いで家路をたどるふたり。夕日が影を長く伸ばし、世界を朱に染める。
「欲しいもんが手に入ったら、真っ先にアタシに見せろよ?」
「うん、きっとそうする」
ないしょ話をするように笑いあい、目を見合わせる。少しだけ不安の山が削れた気がした。
それでも完全には払しょくできず、影子はもやもやを抱えながらハルといっしょに帰っていくのだった。
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