№4 水中の墨汁
その日の帰り道、ハルは久しぶりに児童養護施設に足を運んだ。もちろん、ザザの様子を見に行くためだ。
バスに揺られてしばらくして停留所で降りる。立派な造りの門をくぐると、養母さんが迎えてくれた。
あいさつをして談話室に向かうと、そこには。
「いけ、ピカチュウ! アイアンテイルだ!」
「出たー! ザザさんのアイアンテイル!」
「すっげえよな、あのカード!」
「激レアだろ!? さすがうちのジムリーダーだぜ!」
……今度はポケカか……
ザザはデュエリストを卒業し、ポケモンマスターへジョブチェンジしたようだ。まわりに子供たちのひとだかりができているところを見ると、すっかりジムリーダーとして活躍しているらしい。
「ぐあー! 負けた!」
「すげえっすザザさん!」
「お疲れっす!」
「タオル使ってくださいっす!」
すっすすっす子供たちから奉られて、ザザは内心大喜びしているのを必死で隠しながらタオルを受け取る。カードゲームのどの辺にタオルが必要なのかはわからなかったが。
「ポケモンマスターに、おれはなる!!」
もうジャンルがごっちゃになっているが、どん!と宣言するザザに周りの子供たちが拍手喝采を送った。
……そして、ザザはそこで初めてハルの視線に気づいた。
「……見てた……?」
「……うん……」
途端、ザザは顔を赤くして口元をもじもじさせる。決まり悪く思う必要などないのに、とハルはくすくす笑った。
「最近はポケモンだ、って逆柳さんから聞いてた。だから、はい、これ」
ハルは遠出した時に立ち寄ったポケモンセンターのギフトバッグをザザに渡す。いまだにもじもじしているザザは、おずおずと包みを受け取り、
「……開けていい?」
「もちろん」
許可をもらってから袋を開く。中に入っていたのは、ホゲータの大きなぬいぐるみだった。ザザの顔がにわかに明るくなる。
「わー! ホゲータだ!」
「しかもセンター限定のやつ!」
「いいなー!」
「俺にも見せて!」
他の子供たちが見たがるので、ザザはホゲータのぬいぐるみを両手で高々と捧げ持った。たしか、『ライオンキング』にもこういうシーンがあったような……
それからようやくぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて、
「ありがとう、塚本ハル!」
「どういたしまして。よろこんでくれて何よりだよ」
琥珀の瞳をきらきらと輝かせるザザは、すっかり普通の子供だった。無性に頭を撫でてやりたくなったハルは、ザザの赤い短髪に手を伸ばす。
ぽんぽんされてご機嫌なザザは、ホゲータを小脇に抱えてハルの手を引くと、自分の部屋へと連れて行った。
扉を閉めて、ふたりきりになる。
「遊戯王カードは知ってるんだけど、最近のポケカには詳しくなくて」
「うん、面白いよ。逆柳さんがすっごいレアなカード買ってくれる」
あのひとは、子供にはとことん甘いな……と、ザザのためならカードを切る公務員のことを思い出すハル。
その流れでふとザザの枕元を見やると、そこには見慣れたふくらみがなくなっていた。以前は枕の下には拳銃が潜り込んでいたはずなのに。
ハルの視線をたどったザザは、椅子に座ってぬいぐるみを膝に乗せ、子供らしく笑った。
「……もう、必要ないと思ったから」
もう暗闇に怯えることはなくなった、ということだ。戦場育ちのザザが平和な日本に慣れるのには時間がかかったが、ようやくここは安全な場所だと認識してくれたようだった。
そのことがうれしくて、ハルまで釣られて笑う。
「いいじゃない、平和な日本にもなじんできたってことでしょ?」
「うん。ここでは僕は普通の子供でいいんだって、いろんなひとに教えてもらった。小学校でも友達できたし、塚本ハルと出会ったときのことを考えると、すごく居心地がいい」
「それはよかった」
「……けど、」
す、とザザの瞳に影の色が差す。戦場を生き抜いてきたときのあの目だ。ぬいぐるみを抱きしめながら、
「妹のことを思い出さない日はない。まだ忘れたわけじゃないんだ、妹のこと、『モダンタイムス』のこと……あいつだけは絶対に許さない。叶うなら、殺す」
もしここに『モダンタイムス』がいて、ナイフが一本あれば、ザザはたちまち飛びかかるのだろう。それだけは、いくら平和に慣れたからといって忘れられるものではない。それくらい、ザザの唯一血のつながった双子の妹の死は凄惨なものだった。
「……けど、わかるんだ。手を下すのは僕じゃないって」
ザザの暗闇をはらんだ瞳がハルに向けられる。ぬいぐるみを膝に乗せたまま、ザザはハルの手を両手で握って、
「塚本ハル。絶対に妹のかたきを取ってね」
「……わかってる。『モダンタイムス』には、必ず何らかの代償を払わせるよ。約束する」
小さな手を握り返すと、ザザはほっとしたように笑って、
「そうか、よかった」
つないだ手を上下にしっかりと振った。
こんな子供のこころの底にまで復讐心を根付かせた『モダンタイムス』。それを払しょくするためにも、決着をつけなくてはならない。
もうこんなことは終わらせなければならないのだ。
ザザを真に平和な世界に送り出すためにも。
固い握手を交わし合い、ハルはザザにしっかりと答えるのだった。
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