№36 母

「……もしかして、久太のお友達?」


 ベンチでぼんやりとしていたハルに、声がかけられる。顔を上げると、そこにはやつれた表情の喪服の女性が立っていた。


「はい、そうですが」


「よかった……久太の母です」


 ほっとした顔で頭を下げる久太の母。


 ハルは今すぐここから逃げ出したい気分に駆られた。羞恥、自己嫌悪、無力感、そしてひどい罪悪感。


 逃げ出せないのならば、せめて土下座をしたかった。そして、散々罵ってほしかった。


 しかし、急に謝られても事情を知らない久太の母は困惑するばかりだろう。


 フリーズしているハルに代わり、久太の母が話を継いだ。


「その制服、別の学校でしょう? 久太とはどこで?」


「……あ、はい……あの、体育交流祭で仲良くなって……」


「そうだったの……久太の学校って、地元でもあまり評判のいいところじゃないでしょう。良くない友達とも遊んでたみたいだし……あなたみたいなお友達が来てくれるとは思わなかった」


 つらつらと語る久太の母は、きっと誰かと話をしたかったのだろう。思い出を共有できるだれかと、かなしみを分かち合いたかったのだ。それがたまたまハルだっただけで、他に友達がいれば別の人間だったかもしれない。


 しかし、会場では久太と同じ学校の制服の少年少女の姿は見かけなかった。クラスメイトも同級生も、つるんでいた仲間も、誰も久太の通夜には参列していないのだ。


 その事実に行き当たると同時に、久太の母がさみしげに笑う。


「あなただけなの、来てくれたお友達。ずいぶん学校に行ってなくて、うちにもこの間帰ってきたばかりだから仕方ないかもしれないけど……お線香くらい上げに来てくれたらいいのに、って思うのはワガママかしらね」


 友達。


 その言葉が、今一度ハルのこころに重くのしかかった。


 あの月光で満ちた廃校で交わした握手を思い出す。たしかに、ふたりの間には友情が存在していた。それだけは誰も覆せない真実だ。


 いや、あの夜の前から、体育交流祭で言葉を交わしたその日から、ハルは久太のことを友達だと思っていた。失って、ずっと取り戻したいと思っていて、それが叶って、また失った。


 そう、失ってしまったのだ、永遠に。


 もう久太は戻らない。


 ハルの友達は、この世から消えてしまったのだ。


 また救えなかった。久太はハルの身代わりに死んだのだ。


 ぼんやりとしていたもやもやの輪郭が、急に鮮明になる。


 それはたしかに、かなしみの形をしていた。


 一気に視界がかすみ、ぼろぼろと涙がこぼれてくる。外のざざぶりの雨と同じような激しさで、いくつもいくつも、しずくが頬を伝った。


「……ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」 


 顔をぐしゃぐしゃにしながら、ハルは何度も謝った。


「……僕は、息子さんを、久太を、救えませんでした……最後まで……」


 何も知らない久太の母も、なにかしらの事情を感じ取ったのだろう。何も言わず、ただハルの言葉を待つ。


「……せっかく、友達になれたのに、救えなかった……僕は本当に、無力で、なにもできなくて……」


「……いいのよ」


 久太の母は、そっとハルの手を握った。いたわるように、慰めるように、受け入れるように。


「ここへ来てくれたってことは、久太のことをお友達だと思ってくれてたってことでしょう? それだけで、充分。充分すぎるわ」


「……けど……」


 なおも泣きながら謝ろうとするハルに、久太の母はゆっくりと首を横に振って見せた。しかし、ハルの手を握る手は震えている。


「あの子のことは本当に悔しくてかなしくて仕方ないけど、せめてあなたみたいなお友達がいたことだけは救いよ。あの子が残して逝った私を、あなたは救ってくれたの。あの子を救えなかったとしても、少なくともあなたは別のものを救ってくれたのよ」


 目を真っ赤にしながら、久太の母はそう言った。


 しかし、その言葉は今のハルにはふさわしくない。言ってしまえば、久太はハルのせいで死んだも同然なのだ。あなたの息子さんを殺したのは僕ですよ、とどれだけ言いたかったことか。


 それなのに、久太の母はハルに微笑みを向ける。


「ありがとう」


 やめてくれ。


 口汚く罵ってくれた方がよほどよかった。


 その一言はどこまでもハルを責めさいなみ、呪いのようにこころに沈殿する。


「……ごめんなさい……」


 せめてもの抵抗で謝ってみたものの、無駄でしかなかった。


 久太の母はぽんぽんとハルの肩を叩き、それまでの湿っぽい空気を振り払うように笑顔で言った。


「さあ、泣いてないで、葬式饅頭でも食べてきなさい。奮発していいところの発注したんだから」


 かなしみの深さは比較などできないが、きっとハルよりもつらいであろう久太の母はどこまでも気丈だった。久太の死の真相も知らないのに、それでも現実と、久太の死と向き合おうとしている。


 久太、君のお母さんは強いひとだな。


 僕と違って。


 自嘲気味に胸中でつぶやいて、ハルはベンチから立ち上がり、久太の母に一礼するとその場を後にした。

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