№19 パブリックエネミー

 そこでハルは、にこにこと笑っている禿げ頭の『モダンタイムス』の手だけが震えていることに気付いた。それくらい、ちからを込めてカフェオレボウルを握りしめているのだ。


 爪さえ立て、にい、と笑ったその青白いくちびるから、どろどろに煮えたぎったマグマのような呪詛が紡がれた。


「小生がいなくなった後の世界なんて、なくなっちまえばいいんだ。どうせ心中するなら、世界を巻き込んでやるんだ。それが、透明だった小生が生きた証だ。世界に刻む爪痕だ。正直、どっちだって構いやしないんだ。ただ、小生はパブリックエネミーになりたい……俺は、世界を敵に回してやる」


 おおよそハルの知る『モダンタイムス』とはかけ離れた、情念に満ちた言葉たち。それは『モダンタイムス』自身にかけられた魔法の呪文のようだった。


 世界に無視され続け、それでも生きてきた透明な存在の叛逆。そう、それは確かに叛逆だった。世界なんて壮大なものを相手取ったクーデターだ。秩序を破壊し、物語の転換点となろうとしている『モダンタイムス』は、さながらロキのようなトリックスターだった。


 そのトリックスターが、ハルに向かって笑いかける。


「どうだい、君もひと山、乗ってみないかい? 世界の終わりをいっしょに見物しようじゃないか」


 それは悪魔の誘惑だった。きっとそうやって、何人もの『影使い』を引き込んできたのだろう。言葉巧みに、というのがぴったりの誘い文句だった。


 正直ハルは、世界の終わりというものに興味がないわけではない。


 だが、それを見たいとは思わない。


 ハルは、自分が消えた後でも続く世界に希望を託したかった。自分がいなくなっても変わらず世界は回り続ける。誰かが笑って、誰かが泣いて、なんてことない非日常的日常がいつまでも続いていく。


 そうであってほしい。いつも通りがいかに尊いかを思い知ったハルは、切にそう願った。


「お断りします」


 きっぱりと告げたハルの言葉に、『モダンタイムス』はきょとんとした顔をする。どうせこう言われることも想定内だったクセに。


 構わず、ハルは続けた。


「どんな理由も、世界を滅ぼすに足ることはない。あなたにどんな正義があるのかはわかりましたが、だからと言って僕が自分の正義を曲げる理由にはならない」


「…………」


 なにかを見極めるかのように、『モダンタイムス』は目を細めてハルを見詰める。その視線に真っ向から対峙して、ハルはトドメの一言を告げた。


「僕は、あなたを断固として拒絶します。僕らは決して、相容れることはない。今までも、そしてこれからも」


 れっきとした否定の文言に、緊張を解いた『モダンタイムス』は、ふっと吹き出したかと思うと声を出して笑った。


「……あはっ! そうかい、残念だなあ、塚本ハル君。いや、残念ではないかなあ。むしろさっすがあ!ってところだよねえ。小生のライバルにふさわしい! いやね、おやさしい君のことだから、事情を話したら少しは同情してこっち側についてもらえるかなあと思ったんだけど、見込みが外れたなあ」


 どっちでもよかったんだけどね、と付け加えて、『モダンタイムス』は赤いカツラをかぶり直した。見慣れた姿が戻って来る。


 『モダンタイムス』すっかり冷めたカフェオレをぐいっと飲み干して、


「さあて、夜のお茶会もこの辺でお開きだ。宴もたけなわ、ってやつだねえ。他に質問はあるかい?」


 まるで試すかのような質問に、ハルはじっと『モダンタイムス』を見据え、しばらくしてから口を開いた。


「……ここ、僕が払うんですか?」


 そう問うと、『モダンタイムス』は初めて虚を突かれた表情を見せた。これまで一切見たことがない、完全に想定外の出来事が起こった時の顔だ。


 驚きに見開いていた目を、次の瞬間には笑みの形にゆるめ、『モダンタイムス』が答える。


「あはは! 君は本当にお口が上手だねえ! 答えはこうだ……ごっそさんでした♡ ってなわけで、代金を請求される前にエスケエエエエエプ!」


 そして、『モダンタイムス』は最初からそこにいなかったかのように、両手をジェット機のように広げながら走り去って行ってしまった。唯一残された痕跡である空のカフェオレボウルを眺めながら、ひとり残されたハルは突き付けられた真実に戸惑う。


 『影の王国』ができた理由。


 『影喰い』と、それを利用した計画。


 『影使い』を使い潰してきたわけ。


 そして、『今』しかない『モダンタイムス』のいのちのリミット。


 世界を賭けた戦いが間近に迫っているという事実。


 そのすべてがあまりに重すぎて、ハルひとりでは抱えきれなかった。無性に誰かに相談したかった。疑問はあらかた解決したが、用意されていた答えそれ自体はさらに重大なものだったからだ。


 冷えたカフェオレの残りをすすりながら、ハルはしばらくわかりやすく説明するために情報を整理して、どうにかして自分を納得させた。


 そして、相談できる仲間たちのもとへと戻っていくのだった。

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