№16 『シュレディンガーの赤ん坊』

「ふう、満足満足。小生パフェを思う存分満喫したよう!」


 即効でパフェを平らげた『モダンタイムス』は、腹をさすりながらうっとりとした声音で言った。


「ってなわけで。ようこそ『サミット』へ、塚本ハル君」


 どうやらここからが本題のようだ。ぬるくなったカフェオレを一口飲み、『モダンタイムス』が『サミット』開幕を宣言する。


「なにから話そうかなあ……小生ね、君には話したいことがたくさんあるんだ」


  数年ぶりに会った親友のような口ぶりで、病んだ笑みを浮かべる『モダンタイムス』。そのお話とやらもきっとロクでもないものだ。


 身構えたハルは、とにかく会話の主導権を握ろうと、こちらから質問をすることにした。


「なぜ、『影の王国』なんてものを作ろうと思ったんですか?」


 かねてからの疑問に、『モダンタイムス』が指を鳴らす。


「ああ、それね! それそれ! 小生もそれ話したかったんだ! ちょっと長くなるけどいいかなあ?」


 ものすごく軽いノリで言われて、たぶん『面白そうだから』とかそんな理由だろうな……と、ハルは考えた。


 しかし、語り始めた『モダンタイムス』は、その想像の上を行っていた。


「小生ねえ、生まれたときからネグレクトされて育ったんだよう。わかる? ネグレクト。育児放棄。なかったことにされてるのさ。そりゃあもう、地獄のような日々だったねえ。家のあるホームレスみたいなもんだよう」


 生まれたときから、というのは本当に赤ん坊のころからだろう。ネグレクト、言葉の意味は分かる。しかし、それがどんなものなのか、経験したことのないハルにはわからなかった。


「赤ん坊のころに寝返りが打てなくて窒息しかけて、初めて寝返りを覚えた。動けなくて死にそうになって、初めてはいはいを覚えた。なんでもかんでも口に入れて、食べられるものを探した。自分のおしっこも飲んでたんだよう? 腐った残飯はごちそうだったなあ」


 それは想像を絶する地獄だったのだろう。赤子というのは普通、庇護されて育つものだが、『モダンタイムス』にはそれがなかった。文字通り生死の境をさまよって、それを乗り越えて成長してきたのだ。


 正直、このちゃらんぽらんな男がそんな過去を持っているなんて考えもしなかった。世の中をナメているとさえ思えてしまうような『モダンタイムス』は、実際は誰よりも世間の世知辛さをその身で実感してきたのだ。


「わんわん泣いても、ぎゃんぎゃん泣いても、誰ひとり気にかけてくれなかった。暗いアパートにたったひとりの赤ん坊。それが小生だった。世界はこの糞尿にまみれた室内だけだと思っていたよ」


 おそらくは、孤独という概念さえ与えられなかった。閉じたアパートの一室で、生まれてきたからという理由だけで、ただただ生きているひとつのいのち。二も零も知らない赤子は一しか知らず、外の世界を知らず、他人を知らず、生きることを知らず、死ぬことを知らず、愛されることも憎まれることも知らなかった。


 ただ、生き地獄で生き延びることしか知らなかった。


「でも、ある日テレビのリモコンが偶然について、ガラス窓の外の世界を知った。その極彩色の世界と対比すれば、小生はまさしく透明な存在だったねえ。観測されない、二分の一だけ生きている『シュレディンガーの赤ん坊』だった」


「『シュレディンガーの赤ん坊』……?」


「そうさあ。君も知ってるだろう? 量子力学の『シュレディンガーの猫』。観測されない状態のいのちってのは、二分の一だけ生きていて、二分の一だけ死んでるのさあ。小生は二分の一生きていて、二分の一死んでいた。なにせ観測されていなかったからねえ」


「……話の腰を折ってすみませんでした。続けてください」


「ありがとう。けどまあ、赤ん坊の時期を抜けたらあとはラクチンだったよ。親らしき人間が物資だけは届けてくれたからねえ。親っぽいひとたちも、子殺しにはなりたくなかったんだろうねえ。テレビもあったし、小生は学校にも行かず、そこですべてを学んだ。世界はそこだけしかないと思ってたんだよう」


 『モダンタイムス』はそこでカフェオレを口に運び、一息ついた。


「はあ。ちょっと話疲れてきちゃったな。君も退屈だろう、こんな話?」


「……いえ、ちょっとコメントに困ってます」


「あはっ! だろうねえ。正直で結構!」


 カフェオレボウルをくるくると回しながら、『モダンタイムス』は続けた。


「けどある日、ドアは開けられるということに気付いたんだ。それで外に出てみたんだけどさあ……なんという極彩色の世界が広がっているんだ、と思ったねえ! ごちゃごちゃした猥雑で下品で派手派手しい世界! 透明な小生なんて見向きもされないわけだよ!」


 そのときの興奮を思い出してか、自然と『モダンタイムス』の語気が強まった。ぐるぐる回るカフェオレの渦をじいっと見つめながら、『モダンタイムス』は珍しく熱を孕んだ口調で続ける。


「それで、小生は思ったんだ。『この世界でたったひとりの極彩色になりたい』ってね! そのためには、世界をモノクロームに塗りつぶさなきゃならない。じゃなきゃ小生が目立てないからね! だから、『影の王国』の計画を練りに練った。そして、『影の王国』を設立して、『七人の喜劇王』を集めた。これがすべての始まり」


 ヒートアップした己をなだめるように、静かにカフェオレを飲む『モダンタイムス』。喉が潤ったおかげか、あたたまったおかげか、落ち着いたおかげかは知らないが、次に口を開いた時にはいつものひょうひょうとした『モダンタイムス』に戻っていた。


「ま・そんな生い立ちでもここまで大きくなれたんだから、現代ってのは結局ひどいヌルゲーだよねえ」


 そしてまた、病んだ笑みを口元に浮かべるのだった。

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