№6 進路希望調査票

 逆柳との密会の翌日。


 いつものように騒がしい日常を送り、学校も最後のホームルームだ。


「静かに! 今から配る用紙をよく読めよ!」


 担任教師が珍しく印刷物を配布した。前から回ってきた紙切れには、こう記されていた。


 『進路希望調査票』、と。


「もうすぐお前たちも三年生、最終学年だ! 就職にしても進学にしても、もう考えなければならん時期だぞ! いいか、しっかり考えて書けよ、お前たちの将来なんだからな!」


 そのあと細かい説明があったが、ハルの耳にはぼんやりとしか聞こえてこなかった。


 進路、か。


 当然ながら、この高校生活が永遠に続くわけではない。毎朝起きて学校に行って、騒がしい日常を過ごして帰って寝る。この繰り返しから、いつかは逸脱しなければならないのだ。


 そして、選ぶ道は誰しもが違う。ここは分岐点なのだ。毎日を過ごした友達とも、道を分かたなければならない。今こそ分かれ目、いざさらば。そういう時期に、ハルはあるのだ。


 将来。あまり考えていなかった。漠然とどこかの大学に進学して、どこかの会社に就職して、誰かと結婚して家庭を築き、働いて定年を迎えた後は余生を謳歌して、そして死ぬのだろうな。そんな風に考えていた。


 だが、すべては五月の連休明けに影子が現れて一変した。


 この世界の裏の部分、自分の特異性、生と死、出会いと別れ、何ができて、なにができないのか、そして、影子という大切な恋人。


 今まではテレビの向こう側のものだと思っていた世界が、一気にリアルとなってハルに襲いかかった。


 そのリアルと格闘し、今も悩んでいるハルにとって、もはやあいまいな人生設計をするほどの楽観思考はできなかった。


 自分にしかできないことがある。


 自分がやらなければならないことがある。


 そういったビジョンが明確になり、進むべき道がおのずと明らかになってきた。


 ……といっても、まだ具体的には何者になりたいかはわからない。


 目指すべき地点へたどり着くための道は様々ある。問題は、どれを選ぶのがベストかということだ。最短でも、最高でもない、最善の道。自分にできることが一番活きるやり方。そういうものがどこかにあるはずだ。


 そういうわけで、ハルは進路希望の紙を前にして、放課後まで残ってうなっていた。どれだけ考えても、こうやってこうすればいい、という答えは出てこない。当たり前だが、正解はないのだ。


 そういえば、子供と大人の端境期にいるのだな、と実感する。


 大人になるに当たって、誰もが通る道なのだ。なにになりたいか、具体的に決まっている高校二年生などむしろ少ないだろう。大半は大学に進学して、そこでやりたいことを決めていき、それでも決まらなかったらとりあえずで就職する。そういう風に世間は回っているのだ。


 しかし、ハルはそれでは納得できなかった。


 ただ漠然と進路を決めるのは違う気がする。ここまではっきりとしたビジョンがあるのに、何がしたいかは浮かび上がらない。こんな非日常的日常を送っている今だからこそ、進むべき道をしっかりと決めたいのだ。


「お、塚本! なに居残りしてんだよ?」


「ああ、先輩」


 帰り際だろうか、倫城先輩が教室の窓から身を乗り出してきた。


「先輩、そろそろ受験本番ですよね」


「だな。一応推薦ももらってるけど、本命はもうすぐだ」


 たった一年早く生まれただけなのに、この貫禄の差。今のハルには、倫城先輩がものすごく大人びて見えた。それもそうだろう、一年の差だけではなく、先輩はもともとASSBの『猟犬部隊』に所属しているのだ。すでに社会経験は充分に積んでいる。


 その差のせいか、先輩は他の同じ高校三年生よりもハラが据わって見えた。


 この際だ、聞いてみよう。ハルは先輩に問いかけた。


「そう言えば、先輩はなんでASSBの高校生エージェントになったんですか?」


 少し声を潜めると、先輩も同じく声のトーンを落として、


「親が海外の支部勤めでな、小さいころからASSBって存在は身近にあったんだよ。その流れで、エージェントにならないか、って誘いがあったんだ」


「それで、その誘いに乗ったと」


「ああ。断る理由も見当たらなかったし、将来の箔付けのためにもいいかなと思って。ぶっちゃけ、ちょっと恥ずかしいけど、ASSBで働く両親にあこがれもしてたしな」


「そんな昔から将来のこと考えてたんですか……」


「まあな、これでもけっこう堅実な性格なもんで」


 いつも通りさわやかに笑う先輩は、ハルと知り合うずっと前から、もう大人の世界に片足を突っ込んでいたのだ。自分がやるべきこと、出来ることを見つけ出して、その目標のために選択をする。それができたからこそ、今の『大人』な先輩があるのだろう。


 ハルはまだ、選択をする覚悟が決まっていない。目標を定めかねているのだ。先輩のような伝手もないわけでないが、これと決めて一直線に進むにはまだ判断材料が足りなかった。


「それで、今更なんですけど、進路は?」


 本当に今更な話で恐縮だが、思い切って先輩に聞いてみた。


 先輩は苦笑いしながら、


「……ASSBだよなあ、やっぱ」


「……ですよね」


 聞くだけヤボだったらしい。もうすでに足元の地盤が固められている先輩には、ASSBという目標がある。そのために、進学をしようとしているのだ。


「『閣下』ほどじゃなくても学歴はあった方がいいから、そっち方面の大学には進むつもり。そのあと警察学校行って、卒業後に公安のASSB配属を狙おうと思ってる……けどまあ、どうせ『閣下』が裏から手を回すんだろうけど」


 そこまで織り込み済みだった。もう完全に将来のコースが見えている。目標地点を見据えた人間というのは、こういう時に的確な判断が取れるのだ。


「……先輩って、しっかりしてるんですね……」


「だろ? ま、あとは嫁の来手だな」


 お茶らけながらも色目を使う先輩に、ハルは苦笑いを返した。


「遠慮させてもらいます」


「ははっ、相変わらずつれねえの」


 フられてもフられても、アタックし続けるのが倫城先輩という男だ。しかし、この将来設計の堅実さは、同じ男としても見習うべきところがあった。


「じゃな、塚本。あんまり考え込みすぎんなよ」


「はい」


 そう言い残して、先輩はさわやかに笑って手を振りながら去っていった。


 考え込みすぎるなとは言われたが、ここが考え時なのだ。


 参考になる貴重な意見も聞けたところで、ハルはまた白紙の進路希望調査票を前にしてうんうんうなり始めた。

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