№3 カカオの誘惑
「まったく、このチョコレートの泉というものを考えたのは、どこの悪魔的な天才なのだろうね。枯れることを知らない甘味の泉、なんとも詩的で美しいではないか。どこか貴族的ですらある。その悪魔的天才はきっと上流階級の出なのだろうね。今度文献を当たってみよう」
ぺらぺらとしゃべりながら、『閣下』は串に刺したマシュマロを卓上のチョコファウンテンに突っ込み、チョコまみれにしてから口に運ぶ。こういう食べ物は非情に食べづらいというのが相場だが、逆柳はなんとも上品にお行儀よく口に収めた。ある種の才能だな、とハルは心中で苦笑いする。
もはや恒例となった逆柳とのスイートな密会。今回の会場は、某高級ホテルのチョコフォンデュブッフェである。今回も逆柳からつたないラインでお誘いのメッセージが入り、日時と場所を指定され、ハルはここへ来たのだった。
神経質そうなまなざしに銀縁のメガネ、一分の隙もないオールバックの髪と仕立ての良いスーツ。そんな逆柳が激烈な甘党であることは、今のところハルくらいしか知っている人間がいない。
そういうわけで、逆柳が甘いものを欲した時にご相伴に預かるのは、いつもハルの役割だった。言ってしまえば、それは逆柳がハルにそれだけこころを許しているということだ。いや、この男の場合、信頼している、と言った方がいいか。
チョコ、か……そういえば、もうすぐバレンタインデーだ。例年なら母親以外の女性からチョコをもらうことは一切なかったが、今年は影子がいる。果たして、どんなトンデモチョコを持ち出してくることやら。
いつの間にかため息をついてしまっていた。それを見た逆柳は心中を見透かしたように口元だけで笑い、
「バレンタインデーになにか予定でもあるのかね?」
「いえ、特には……」
お茶を濁すハルに、『閣下』は訳知り顔で肩をすくめて見せた。
生チョコをさらにチョコフォンデュするという荒業に出た逆柳は、チョコの泉に串を浸しながら語り始めた。
「やはり甘味はいい。たとえマイルドドラッグと呼ばれようとも、私は私の脳の活性化のために糖分を摂取する。脳は甘やかしすぎてはいけないが、かといって報酬をまったく寄越さないというのもいけない。なにごとも飴と鞭だよ」
そう言って、逆柳はチョココーティングされた生チョコを行儀よく食べた。こちらがしゃべり出さない限り『閣下』の論説は続くだろう。
慣れたもので、ちょうどいいタイミングでハルは話題を変えた。
「ところで、最近施設に行ってないんですが、ザザは元気にしていますか?」
ザザ……元『殺人狂時代』。かつて『影の王国』の『七人の喜劇王』の一席にいた少年である。今は『影の王国』を離れ、ASSB管轄の児童養育施設で普通の生活を送っている。
「ああ、元気にしているよ。私もたまに顔を出している。毎日デュエルとやらに明け暮れているようだ」
平和な日本で、ザザはすっかりデュエリストになってしまったようだ。微笑ましいようでいて、クールジャパンにすっかり染まり切ってしまった元少年兵を思うと、内心は少しフクザツだった。
「そうだ。私もザザにお年玉をあげたよ」
お正月はつい一か月ほど前のことだ。枠にはまらないようでいて、節目節目の決め事はきっちりと気に掛ける逆柳らしい。
箸休めのつもりか、リンゴをチョコに浸しながらとうとうと逆柳が言う。
「ザザはその文化に初めて触れたらしい。いたく感動していたよ。『なんの労力も割かずにただ子供という立場なだけで金銭がもらえるとは!』、とね」
身もふたもない言い方をされたものだ。しかし、お正月とはそういうものだと受け入れられる日がやがて訪れるだろう。ザザにとっては初めての平穏なお正月だったろうから。
平和な日本にもだいぶんなじんできたようだし、いいんじゃないか。ザザもやがては中学校に上がり、ハルと同じような高校生になるのだろう。今は想像がつかないが、ひとは生きてさえいれば成長するものだ。
「どうして僕にはくれなかったんですか、お年玉」
逆柳に少し意地悪をしたくなって、イチゴをチョコフォンデュしながらハルは首をかしげて見せた。
逆柳は鼻で笑い、
「おや、君も欲しかったのかね、お年玉」
「大人の経済力を計る指標として、子供の参考になりますからね」
「おそろしい子供だね、君は。それは大人の足元を見ているようなものだよ」
「子供の特権です」
「ならば、少しは子供らしく振る舞いたまえ」
「善処します」
チョコまみれになったイチゴをできるだけこぼさないように食べながら、ハルはしたり顔でそう答えるのだった。
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