№11 悪夢の夕暮れ

 それを機に、すっかりつけあがってしまった『独裁者』のストーカー行為はエスカレートしていった。


 給料一年分の婚約指輪を強引に押し付けようとする。


 ひと目を気にすることなく盗撮する。


 毎日朝晩待ち伏せして踏んでもらおうとする。


 学校の警備員さんに連絡しても無駄だった。『独裁者』は別に法律を犯しているわけではない。誰かが通報しては逃げられ、ただ影子だけが事情聴取のように呼び出されるのだ。


 ……最近、影子の様子がおかしい。


 常にそわそわして、爪を噛んだり足踏みをしたりしている。ストーカー行為のストレスによるものだろう、ハルと過ごしていても態度がそっけなかった。


 ハルだって、いくら『影の王国』に切り込むためとはいえ、その状態にはいら立ちを隠しきれなかった。


 自分のものが汚されていく、あのねばつくような嫌悪感。


 ハルは影子のことを従者とは認めていたが、『自分のもの』だと思ったことはなかった。だが、押さえてもやむことのないこの感覚には正直にならざるを得ない。


 影子は僕のものだ。


 それが今、奪われようとしている。


 今になって『取られるかもしれない』と焦るのは、至極格好のつかないことだった。きっとこれは、影子のアプローチに答えを出してこなかったハルへの罰だ。


 しかし、ハルが口を挟めば自体はより一層ややこしくなるだろう。当事者同士で決着をつけなければならないのだ。


 ただ、気をもんで見ていることしかできない。


 ひどく歯がゆい思いをしながら、ハルは影子本人と同じくらいに『独裁者』を疎んじていた。


 ……そんなある日のこと。


 どうせまたあいつが来る、と無言でいっしょに下校していると、やはり『独裁者』は現れた。


 いつものトレンチコートを着ているが、どうも様子がおかしい。夕暮れのひと気の少ない住宅街、『独裁者』は興奮に目をぎらつかせながら鼻息を荒くしていた。


「影子様!」


「……どけ。一応踏んでやっから」


 心底嫌気がさした表情で、もはや義務行為と化したいつものやり取りをしようとしたが、今日の『独裁者』は違った。


「いえ! 今日は大丈夫です!」


「……はあ……?」


 期待に頬を赤らめる『独裁者』に、影子の横顔がひくつく。


 イヤな予感がした。


「今日は、僕のオナニーを影子様に見ていただきたくて!」


 ばっ!と脱いだトレンチコートの下は、全裸だった。局部はすでに太り、屹立している。


 完全にテンプレの露出狂だった。露出狂自体初めて見るが、こんな様式美に則った露出狂がいるとは。


 あまりの事態に呆気に取られているふたりを置き去りに、『独裁者』はうっとりした顔で高ぶりを手でしごき始める。


「……ああ……影子様に見られている……!……気持ちいい……気持ちいいよう……!」


 甲高く裏返った声でつぶやきながら、『独裁者』は早くも絶頂に達しようとしていた。


 ……我に返ったのは影子の方が先だった。


 助走もつけずに飛び上がると、そのまま渾身のドロップキックを『独裁者』に食らわせる。


 その瞬間、嬌声を上げながら『独裁者』は射精した。 


「キメエもん見せてんじゃねえよこの汚物が!!」


 吐き気をこらえながら怒鳴り散らすが、びくびくと痙攣する『独裁者』は聞きもせずに快楽の余韻に浸る。


「……ああ、気持ちいい……!!」


「……けいさつ……」


「……えっ……?」


 奥歯を噛みしめてつぶやく影子に、まだ混乱しているハルが戸惑いながら問い返す。


 そんな対応にいら立ちを加速させながら、影子はハルにも怒鳴った。


「警察呼べっつってんだよ!! この変質者とっととしょっ引けってよ!!」


 そうだ、今こそ警察を呼ぶときだ。これは法律的にもアウトだ。


 慌ててスマホで警察を呼ぶと、近くを巡回していたのか、すぐにおまわりさんが自転車で乗り付けた。


 全裸にトレンチコートの姿で横たわり、局部を握りしめて恍惚の表情の『独裁者』を見てすべてを察したのか、おまわりさんは手錠をかけ、ずるずると『独裁者』を引っ張っていく。


 ハルたちにも事情を聞きたいそうだが、もう遅いので翌日、ということになった。影子が眠る夜までもう間がない。


「……ついに警察沙汰か……」


 もう落ちる寸前の夕日を浴びながら、ハルがつぶやく。


 それが過敏になっている影子のカンに障ったのか、ぎろりと睨まれた。


「アンタもアンタだ! ああまでされてよく黙ってられんな!!」


「僕だってイヤだよ、あんなの!!」


 いら立ちを募らせる影子に八つ当たりをされて、ハルもついかちんと来てしまった。言い合いが始まる。


「じゃあ、なんで何もしてこなかったんだよ!? こうなることは目に見えてただろうが!!」


「僕が口出ししていい問題じゃないだろ! 選んだのは君だ! だったら、ケリをつけるのも君だろう!」


「アンタはまたそうやって、他人事みてえに!!」


「他人事じゃないよ!!」


「いいや! 完全に他人事だ! 僕は関係ございませんってツラしてやがる! アンタはなんだ!? アタシのあるじだろう!! 悔しくねえのかよ!?」


「悔しいに決まってるだろ!? けど、僕が口出しするのはお門違いだ! 僕だって……!」


「ほら、やっぱり他人事だ!!」


「だから、他人事じゃ……!」


「もういい!!」


 きっぱりと拒絶の言葉を吐くと、影子はそのままハルの影に潜り込んで消えてしまった。こうなるともう手が付けられない。


 取り残されたハルはヤケクソ気味に頭をかき乱す。


 また影子を傷つけてしまった。


 影子と向き合う勇気がないばっかりに。


 我ながら呆れた話だ。


 たとえどんなに傷つけられても、影子はハルの元を去ることはないだろう。


 そんな予想に甘やかされて、ますます勇気が引っ込んでいく。


 思えば思うほど、遠のく。


 悪循環だった。


 こうやって影子を待たせっぱなしにして、僕はなにがしたいんだ?


 自問しても答えは出てこない。


 ただ頭が痛くなるような無力感にさいなまれるばかりだ。


 いろいろなことが起こりすぎて、いまだに整理が追いつかない。握りしめたこぶしをコンクリート塀にぶつけて、ハルは珍しく悪態をついた。


「……くそっ……!!」


 吐き捨てたところで、変わらなかった。


 こんな宙ぶらりん、イヤなのに。


 なんともやりきれない思いを抱いて、ハルはとぼとぼとひとりで帰路に就いた。


 明日からどんな顔をして影子に接すればいいのか、と暗澹とした思いで。

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