№9 スライディング土下座リーマン

「んん、昨日は楽しかったなあ! またやろ♡」


「頼むから、二度と朝勃ち撮影会なんてやらないでくれよ……!? やったら絶交だからな!?!?」


「ふは、絶交とか小学生かよ。わぁったよ、もうやんねえから」


「絶対だからな!!」


 翌日、学校への道すがら、ハルと影子はいつも通りの掛け合いをしていた。ハルとしては至極真面目なつもりなのだが、影子が茶化すおかげで漫才のようになってしまっている。


 びゅうびゅうと北風が吹きつける朝、太陽のぬくもりがありがたかった。こんな寒い日だというのに、影子と来たら防寒具どころかコートも身に着けていない。年がら年中この黒いセーラー服だ。


 ちなみに、いつになったらうちの学校の制服に着替えるんだ、とは、教師を含め誰も何も言ってこない。


「……でも、あの手でイケるっつーことは……?」


「また何か企んでるだろ!」


「てへ☆」


 ぺろりと舌を出して、影子は急にかわい子ぶった。


 そのときだった。


 ずざざざざざ!と音を立てて、誰かが影子の前にひれ伏した。あまりにも唐突な、そして初めての生スライディング土下座である。


 平伏する男は、どこからどう見ても平凡な中年サラリーマンだった。中肉中背、白髪交じりの黒髪で、スーツを着ている。それ以外の特徴などなにもない。普通を絵に描いたような男だった。


 さすがに呆気に取られて足を止めた影子に向かって、土下座をしたままの中年リーマンは感極まった声を発した。


「やっと巡り合えました……! 僕の運命の女王様!!」


 ……あっ……と、その瞬間、ハルと影子はすべてを察した。


 ドМのひとだ。影子の放つドSオーラを目に留めて思わず土下座してしまったのだろう。これほどわかりやすいドSはそうそういないので、ドМのひとが反応するのはわからなくもない。


 ……が、わかりたくはない。


「ひと目見てわかりました!! あなたこそ、僕の運命の女王様だ!! どうぞ、僕をあなたの奴隷にしてください!!」


 額を地面にこすりつけながら懇願するサラリーマン。


 今までこういうことがなかったとは言えなかった。たまにいるのだ、こういうセンサーを備えたドМのひとが。下校中に遊んでいるときに踏んでくださいだのなんだの言われたことはあった。


 が、登校中、しかも見た目が普通のリーマンのスライディング土下座というのは初めてのパターンだ。


 ようやく立ち直った影子が、ふん、と鼻を鳴らした。


「失せろ。影子様の通行の邪魔だ、オッサン」


 決して手足は出さず、口だけでいなすと、影子は男を蛆を見るような目で見下した。しかし、これでは逆効果だ。


 男はその視線に頬を赤らめ、


「影子様とおっしゃるんですね! なんとお美しい!」


 頑として土下座を解かなかった。これでは、どんな罵声も攻撃もご褒美になってしまう。


 影子にとっての最大の敵は、実はドМのひとなのだ。


 敵に回すには相性が悪すぎる。


「どけっつってんのが聞こえねえのか?」


「ああ、影子様! どうか靴を舐めさせてください!」


「とっとと仕事行け、ダメリーマン!」


「はい! 僕はダメなオッサンです!!」


 ラチが明かない。見ているハルまでいらいらしてきた。影子本人のうっぷんは相当なものだろう。


「朝からいらつかせやがって……! うぜえんだよ!」


「ありがとうございます! ありがとうございます!!」


 ダメだ、相手が悪すぎる。すべてが裏目に出てしまい、男をつけあがらせる結果になってしまう。


 どうしたものかといら立っていたところへ、校門で生徒指導をしていた体育教師が駆けつけてきた。


「おい、塚本。どうした?」


 教師の姿を見た男は、さすがにそそくさと立ち上がって逃げ出していく。去り際、


「あきらめませんからね!」


 捨て台詞を残し、謎のリーマンは影子の視界からようやく消え失せてくれた。


 助かった、と胸をなでおろしているハルの肩に、いつものように足音もなく腕が回される。


「間に合ったみたいだな」


「先輩が呼んでくれたんですか?」


「まあ、面倒ごとになりそうだったんでな」


「ナイスアシストです!」


 サムズアップするハルに、肩を組む倫城先輩は少し不満げな顔をした。


「感謝のキスは?」


「……言葉だけで勘弁してもらえないでしょうか?」


「冗談だよ」


 すぐさまさわやかに笑うと、先輩はハルと引っ付いたまま学校へ向かう。


「それにしても、あいつ……なんか、におう」


 歩きながら眉根を寄せる先輩に、小脇から散発的なローキックを放っている影子が応じた。


「んん、珍しく同意見だ、駄犬。なんかきなくせえ」


 あの普通のサラリーマンが、におう……?


 ハルにはまったくそうは見えなかったが、いくつもの死線を潜り抜けてきたふたりにはわかるらしい。そして、そのカンは高確率で当たる。


 ただのドМのオッサンではないのか……?


「オハヨー、ハル、カゲコ!」


「おはようございます、影子様♡」


 ミシェーラと一ノ瀬も登校に合流して、いつものメンバーがそろった。


 校門をくぐり、周りの生徒たちからの視線を浴びながら、影子は絡みついてくる一ノ瀬にげしげしと蹴りを入れている。


「ああ、影子様♡ 今日もご機嫌麗しいご様子で何よりです♡」


 メス豚・一ノ瀬のよろこびの声に、影子は疲れたようなため息をついた。


「……やっぱ、なんだかんだでてめえが一番しっくりくるわ」


「影子様がお褒めの言葉を!? 家ghんヴぁp巣dんvぴあsづhrg」


 急に褒められて、一ノ瀬がバグった。奇声を発しながら影子にまとわりつく一ノ瀬に回し蹴りを決め、


「るっせ、黙れメス豚。誰が今鳴いていいっつった?」


「はああああああん♡ 影子様あああああああ♡」


 ばったりとグラウンドに大の字になった一ノ瀬が嬌声を上げる。


 これでも『いつも通り』なのだ。


 しかし、コップに入った水に一滴、墨汁を垂らしたかのように、非日常が忍び込んでくる。


 あの男は、いったい何者なのか……?


 言い知れぬ不吉な予感を覚えるハルに、ミシェーラが声をかけた。


「どしたの、ハル?」


「……いや、なんでもないよ」


 そう、きっとなんでもない。


 無理矢理自分にそう言い聞かせ、ハルはミシェーラと昨日のアニメの話をしながら学校へ向かうのだった。

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