№26 終幕
一方、総攻撃を完封された『犬の生活』も、その場に膝を突きうなだれていた。『影』は磔刑に処され、女王を守る兵隊はもうどこにもいない。ちからを出し切った『犬の生活』はもはや丸裸のはしためだ。
すべての『影』が動きを止め、後に残ったのは『影使い』だけだった。
ゆらり、と顔を上げた『犬の生活』が、ソナタのようなか細い声でつぶやく。
「……ああ、これで終わりなのですね……おいたわしや……」
ハルもようやく立ち上がり、満身創痍の『犬の生活』に向かって告げた。
「あなたの負けです……いや、僕らの勝ちです」
「……どちらでも、よろしいではないですか……」
「よくないです」
「……ふふ……負けず嫌いなのですね……」
そんな応酬を最後に、『犬の生活』は盛大に血を吐いて黙り込んでしまった。しばらくの間、『犬の生活』がえづく声ばかりが響く。
こちらももう、限界らしい。目的は『犬の生活』の捕捉と、生け捕りだ。このままではいけない。
傷ついた『殺人狂時代』を保護していた『猟犬部隊』の救護班が、『犬の生活』に駆け寄ろうとする。
「……近づかないでくださいませ」
その動きを封じるように、『犬の生活』はかんざしを髪から抜き、その先端をみずからの喉元に突きつけた。はらり、血に染まったプラチナブロンドがこぼれ落ち、血の気の失せた肌に影を落とす。
自分自身のいのちまで人質に取るのか。そうまでしてひとを操ろうとするとは、どこまでも闇が深い。
「……妙なマネは、しないでくださいね……」
注意深く距離感を探りながら、なだめるような声でハルが言った。
「……妙かどうかは、わたくしが決めます」
どうやら、ハルの言葉に耳を傾けるつもりはないらしい。きっぱりとした言葉で拒絶の意を示し、『犬の生活』はかんざしのペーパーナイフのように鋭い切っ先を首筋に当て続ける。
「……さて、どうしたものか……わたくし、考えあぐねております……」
「そういうことは考えてからやってください。いや、考えた後もやらないでください。自分のいのちを盾にするようなやり方……恥ずかしいとは思わないんですか?」
「……恥?……恥なものですか……これは、立派な『賭け』の続きなのですから……」
「これが『賭け』なもんか。万策尽きた負け犬の、ただの見苦しい悪あがきだ」
「……しかし、あなた方は躊躇していらっしゃる……わたくしを、生かすか、殺すか……おそらく、非常に人道的なあなた方ならば、わたくしを生かそうとするでしょうね……『七人の喜劇王』のひとりともなれば、なおさら……」
「……っ!」
図星を突かれたハルは思わず息をのんだ。
たしかに、目の前でいのちを断とうとしている人間がいるなら、助けたいと思うのが人情だ。それに、逆柳は次の駒を欲しがっている。ここでみすみす失うわけにはいかない。
しかし、策がない。喉にかんざしを突き立てるより先に、『犬の生活』を無力化する策が。『猟犬部隊』はほとんどが救護を専門としている隊員たちだ、隠密行動で背後から忍び寄り取り押さえる、というやり方は使えない。
影子は眠り、『殺人狂時代』は今、輸血を受けている。ハルにも出せる手札がない。
本当に万策尽きているのは、こちらの方だ。
なにか手はないのか……?
考え込むハルに、『犬の生活』は少女のようなはしゃいだ声音で笑った。
「……冗談です……わたくしには、賭けなどする気などございません……ここで下りるつもりです……」
まだウソなのか本当なのかわからない。その言葉すら、ハル達をツタのように絡め取るためのものかもしれない。
「……もしも、もしもひとつだけ、交渉の余地があるとしたら……」
『犬の生活』は、遠くを見るような目をして続けた。
「……どうか、『モダンタイムス』を憎まないでください……あの方は、とてもおかわいそうな方なのです……」
「……ふざ、けるな……!!」
切なる願いの声にナイフのような怒りの一言を刺したのは、輸血を受けて意識を回復させたばかりの『殺人狂時代』だった。救護班の制止を振り切って、這いつくばりながらこぶしを握る。
「……かわいそうだったら、なにをしてもいいと思ってるのか……!?……だったら、誰よりもかわいそうなのは、僕の妹だ……!!……いいことなんてなにもなかった……!!……ただ利用されて、一番無残なやり方で殺された……!!」
一度は回復に向かっていた『殺人狂時代』だったが、無理に動いてしゃべったおかげでまた血を吐いている。それでも、『殺人狂時代』は血とともに罵声を吐き続けた。
「……妹は、生きたまま焼き殺された……!!……どれだけ苦しかったか、あんたたちにわかるのか……!?……炭になった妹が生きた証なんて、このちっぽけなペンダントだけだ……!!……自分たちがなにをしたのか、わかってるのか……!!」
胸元のペンダントを握りしめ、血を吐く『殺人狂時代』。無理矢理に担架に拘束されながらも、怨嗟の言葉は止まらなかった。
「……許さない……!!……絶対に、許さないからな……!!……必ず、同じくらいの苦痛を与えて、殺してやる……!!」
そんな呪いの言葉を投げかけられてなお、『犬の生活』はかんざしを喉元に突きつけたまま、慈母のように微笑む。
「……やはり、無理な交渉でしたわね……ならば、あの方の罪は、わたくしが地獄へと持っていきましょう……」
ぐ、とかんざしを握る細い手にちからがこもった。
「待って、『犬の生活』!!」
駆け寄るハルに、『犬の生活』は最後の言葉を贈る。
「さようなら、おいたわしいмой лучший друг……わたくしのお友達……」
孤独に絶望し、人間に絶望し、それでもなおぬくもりを求めてさ迷い、罪に手を染めた。
そんな『犬の生活』の別れの挨拶が、それだった。
ハルの手が届く寸前で、『犬の生活』はかんざしで己の首を貫いた。先端は首の後ろまで貫通し、頚椎を粉々に砕いた。
当然ながら、即死である。
ぱたり、といのちの重みを感じさせない音を立てて、『犬の生活』のなきがらが横たわる。もう二度と動くことのない、肉のかたまりだ。
「……あ……」
急に憎しみの対象の存在を失った『殺人狂時代』。生きていても、死んでいても、『犬の生活』は、『モダンタイムス』は、『殺人狂時代』のこころをさいなんだ。
煮えたぎる怒りのやり場を失って、担架に拘束されて運ばれていく『殺人狂時代』が狂ったように叫ぶ。
「くそ、くそおおおおおおおおおおおお!!」
それが幕切れの合図だった。『猟犬部隊』の救護班たちは負傷者を次々と運び、撤収していく。『犬の生活』の遺体も、青いビニールシートにくるまれてどこかへ連れていかれた。
『……ご苦労、塚本ハル君。すべては終わった。弁明はしない、私の負けだ』
無線越しに聞こえる逆柳の声は、カーテンコールをするつもりもないらしい。ただ起こったことを事実として受け入れ、
『だが、次は負けない。『モダンタイムス』……難敵だが、対峙せざるを得ない以上、私は『負けない』手段を考える。それが仕事だからだ。君にも、君の仕事をしてもらおう』
敗北を糧に、逆柳の意識はもう次の戦いへと向いていた。
しかし、ハルはそこまで割り切れない。
『犬の生活』へと伸ばした手を見つめる。撤収作業が終わって、そこにはハルだけがたたずんでいた。
結局、また届かなかった。
考えられる限り最善を尽くしたはずが、失ってばかりの戦いだった。
痛いくらいのむなしさに、ハルの口元にはいつしかさみしげな笑みが浮かんでいた。
本当は、『犬の生活』と友達になりたかったのだ。
孤独や絶望から解放してあげたかった。
世界はそんなに捨てたものじゃないと、教えてあげたかった。
だが、『犬の生活』はみずから孤独と絶望に沈むことを選んだのだ。
すべてはハルのちから不足だった。あのときもっと、別の言葉を選んでいたら。影子のように強く、逆柳のように賢明で、『殺人狂時代』のような熱意があれば。
しかし、所詮すべてはタラレバだ。この結果がすべてだった。
『黄金狂時代』を取り戻すこともできず、『犬の生活』も死んでしまった。
なにもかもが『モダンタイムス』の手のひらの上だった。
……完敗だ。
「……ははっ……」
己の無力さを実感して、ハルの口から自嘲の笑みがこぼれ出した。
だが、これで終わりにしてはいけないのだ。
物語は続いていく。
散っていったものたちのためにも、必ず大団円で終わらせてみせる。
そのために最善を尽くす、それが今、残されたハルのやるべきことだ。
見つめていた手のひらをぐっと握りしめ、ハルもまた、その場をあとにするのだった。
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