№12 『クトゥルフの悪夢』
静かに泣いている『犬の生活』の『影』が、急速に展開された。
「……なっ、」
またたく間に黒がハルの影を侵食し、黒く毒々しい花が一輪、ぽつりと開く。
その毒花のツタがハルの影に絡みつくと、意に反してからだが動いた。
いつしかハルは、卓上にあったステーキ用のナイフを手に取り、自分の首筋に当てていた。
文化祭で遭遇したことがある。
影に寄生してあるじのからだを操る、『ナイトメア』タイプの『影』だ。
しかし、『影使い』は『ナイトメア』タイプの攻撃に感染しないはず。
それが今、ハルは影を乗っ取られて意のままにからだを操られている。
……何が起こっている……!?
「……不思議に思っていらっしゃいますね」
やっと泣き止んだ『犬の生活』の白く細長い指先が、黒い毒花をそっと撫でた。
「わたくしの『影』が作り出す悪夢は、クトゥルフの夢……名伏しがたい悪夢を、あなたに差し上げますわ」
どうやら、『犬の生活』の『影』は特別製らしい。『影使い』をも操る『ナイトメア』タイプの女王。それが『犬の生活』の『クトゥルフの悪夢』だ。
理解してももう遅かった。自分で頸動脈に当てているナイフがじりじりと肉にめり込んでいく。どれだけ抗おうとしても無駄だった。腕は勝手にナイフを押し進め、今にも首筋を引き裂きそうだ。
そうだ、影子は……!?
思い当たった瞬間、ハルの影から、ずるり、と影子が出てきた。
「……かっ、影子……!」
呼びかけるが、答えはなかった。うつむいたまま、手には黒い鉛筆のようなものを持っている。
影子が顔を上げると、ハルはひどい違和感を覚えた。
そう、いつも闘争にぎらぎらと輝いていた瞳は、燃えるような赤ではなく闇のような漆黒の色をしている。
うつろな黒を瞳に宿した影子は、なにをするでもなく黒い鉛筆を握りしめて、ハルのすぐそばに無表情で立ち尽くしていた。
黒い毒花から手を離した『犬の生活』は、盤上を支配している女王とは思えないほどおどおどとした声音で、
「さあ、あの子を返してくださいな。さもないと、その子が何をするか……何をさせるか、わかりませんよ……?」
チェックメイトの宣言をした。
ハルの詰みか、と思われたが……
「……それは、どうかな?」
ハルがにやりと笑うと、その場にいた老若男女の客、そしてやる気のない従業員、ファミレスにいた全員が一斉に懐から銃火器を取り出し。その銃口を『犬の生活』に向けた。
そう、すべては『閣下』が整えた舞台だった。
客から従業員に至るまで、すべては仕込みだったのだ。
日常的な風景から一転、非日常的な光景が広がる。
対策本部のメンバーに囲まれた『犬の生活』は、わずかに目を丸くして両手を上げた。
「……おや、まぁ……」
「形勢逆転、ですね」
反対に、ハルは勝ち誇ったような顔をして笑う。逆柳が考案した、『犬の生活』を補足するための作戦だ。あの男らしい、抜け目のない作戦だった。
『曳光弾』を込めた無数の銃口に見つめられ、『犬の生活』はまたしてもほろりと涙をこぼした。
「……おいたわしや……」
「降参ですか?」
「……無駄だと申し上げたのに……」
刹那、『犬の生活』の足元にわだかまっていた『影』が急速にその範囲を広げる。沼のような黒はたちまち店内を覆いつくし、至るところに黒い毒花がほころんだ。
当然ながら、対策本部のメンバー全員の影も侵食されている。
ハルは、やられた、と内心で舌打ちした。
『犬の生活』の正体を一切知らなかった上での作戦だ、仕方なかったとはいえ、逆柳の作戦は悪手中の悪手だった。
対策本部のメンバーは、全員がからだの支配権を奪われ、各々が構えた銃の銃口を一斉に自身のこめかみに突きつけた。
無数の発砲音とともに、『曳光弾』がその場にいた全員の頭に叩き込まれる。いくら人間にとっては無害な『曳光弾』とはいえ、銃火器でゴム弾を頭にぶち込まれれば昏倒は必至だ。対策本部のメンバーは全員、その場に倒れて動かなくなった。
静寂が訪れる。お気楽な有線放送だけが、ヒットソングをか細く流していた。
逆転、逆転、また逆転。
そうして一周回って、またハルのピンチだ。
状況は変わらず、ハルは自分の首筋にナイフを突きつけ、影子は黒い目をして鉛筆を握りしめている。
『犬の生活』は上げていた両手を下ろして、静かに膝の上に置いた。
「さあ、決断の時です。自分の『影』にいたぶられて殺されるか、あの子を返すか……どちらがよろしいでしょうか……?」
もう打つ手はない。今出せる手持ちの札はすべてさらしてしまった。
『犬の生活』の完全勝利、か……?
「……影子、影子!!」
しかし、ハルは最後まであきらめなかった。必死の思いで影子に呼びかける。
「影子!! しっかりしてくれ!! 君がいないとなんにもならないじゃないか!! いつまで寝ぼけてるんだ!?……答えてくれよ、影子!!」
「無駄だと申し上げたはずです。あなたの『影』は完全に……」
『犬の生活』が言いかけ、ふと異変に気付く。
……赤だ。
黒く濁っていた影子のまなざしから、覚えのある色があふれかえっている。
涙の代わりに頬を伝うのは、『影』が本来流すことのないはずの、赤い血だった。
血涙を流す影子は、油の切れた機械人形のような動きで黒い鉛筆を掲げると、その先端で自分の喉を刺し貫いてしまう。
がはっ、と口元から黒い血があふれ出した。その場に崩れ落ちた影子は、そのままハルの影の中に沈んでいった。
今度こそ、立っているものはハルと『犬の生活』だけになる。
「……驚きました」
泣くことも忘れて、『犬の生活』がつぶやいた。
「わずかながらでも抗うだなんて……このわたくしの、『クトゥルフの悪夢』から……自分で自分の喉を刺して、ああ、おいたわしや……」
「……『犬の生活』……あなたたちは、今僕を殺せないはずだ」
自分の喉元にナイフを当てたままの格好で、ハルは賭けに出た。
案の定、『犬の生活』は愁眉をぴくりと震わせる。
ハルは続けざまに言った。
「……なぜなら、僕はあなたたちにとっても重要な駒たりえるからだ……今のところ、ね……『影使い』はいかなる場合も、簡単に殺してしまうのは惜しい。そうだろう……?」
背筋に冷たい汗が流れる。ぎりぎりの駆け引きだ。逆柳辺りならもっとスマートにこなすだろうが、いつまで経ってもこの緊張感に慣れない。
誰もいないファミレスでひとり、膝の上に手をそろえてうつむき、『犬の生活』はぽそりとつぶやいた。
「……図星を突かれましたね……」
どうやら、この駆け引きは成立したようだ。顔には出さずに、ハルはほっと胸をなで下ろした。
「……しかし、死よりもむごい苦痛を与えることはできると、そう覚えておいてください……」
捨て台詞らしきものを残して、『犬の生活』は優雅な仕草で立ち上がった。大量の荷物をすべて持つと、ハルを『影』で拘束したまま、
「もう他のファミレスを探さないと……今夜の寝床がなくなってしまいます。それでは、ごきげんよう、おいたわしや……」
ハルの耳元にささやきかけると、『犬の生活』は誰もいなくなったファミレスを後にした。
しばらくして、ハルを操っていた『影』も消える。
ようやくからだの自由を取り戻したハルは、ナイフを放り投げてその場にへたりこんだ。まだ誰も目を覚ます気配がない。
『影使い』さえ操る『ナイトメア』タイプの女王、『クトゥルフの悪夢』と、『犬の生活』。
手も足も出なかった。
「……くっそ……!」
苦々しい顔で歯噛みして、ハルはヤケクソのような手つきでポケットの中のスマホを取り出した。
きっちり3コールで出た相手に状況を報告すると、通話を切る。
なにか、対策が必要だ。あの男なら何とかしてくれるだろう。
望みを託して、ハルはとりあえず、手近なところに倒れている対策本部のメンバーを介抱することにした。
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