№8 あだ花の口づけ
「あーダメダメダメダメ! てめえら、全然なってねえ!」
エレキギターから指を離して、影子はいらいらとわめいた。楽譜を確認し、三つ編みの頭をがしがしと掻く。
放課後、空き教室で音楽祭に向けての練習をしていたのだが……
「おいキーボード! 速度が足りねえんだよ、速度が! もっと激しくかき鳴らせ! てめえは牛歩しかできねえのかこのチチウシが!」
「ええと……わかんないけど、速度ネ!」
「あとドラム! そんな生まれたてのナメクジみてえなみみっちい音叩いてんじゃねえよ! いいかメス豚、ドラムが肝だ! ちからの限りぶっ叩け!」
「は、はい、影子様!」
「そしてトライアングル……は、どうでもいっか」
急にシラフに戻られて、トライアングル担当のハルはがくっと肩を落とした。
そもそも、このバンドにおけるトライアングルの存在意義とは……?
演奏する曲は、当然のごとく影子が作詞作曲を担当していた。
そしてやはり当然のごとく、ファックだとかシットだとかが満載のデスメタルである。基本的には影子がエレキギターをかき鳴らしながらデスボでわめき散らして、キーボードとドラムがそれに合わせる格好だ。
現実を再確認して、ますますトライアングルの意義を見失うハルだった。
「よぉし、もっぺんいくぞ!」
影子の掛け声でスタンバイする面々。
一ノ瀬がリズムを取って曲がスタートする。
楽譜に沿って激しくかき鳴らされる旋律に、三つ編みを振り回してヘドバンする影子のシャウトが重なった。
うるさい。
ただひたすらに、うるさい。
これは音楽ではない、ただのノイズだ。
時折申し訳程度にトライアングルを叩きながら、ハルは耳をふさぎたい気持ちでいっぱいになった。
「ちーがーうーっつってんだろ! てめえら、なんも理解しちゃいねえ!」
また演奏を打ち切って影子が罵声を上げる。さすがにこう何度も中断されては一ノ瀬もミシェーラもやる気を削がれるというものだろう。実際、ハルはうんざりし始めていた。
抽象的でざっくりとしたダメ出しをした影子の言葉をなんとか理解しようとするふたり。演奏が始まり、途中までいったところでまた止まる。
それを何度繰り返しただろうか。
最終的には『今日はノリが悪ぃ!』とふたりを帰らせ、影子がひとりエレキギターとデスボの練習をすることになった。
ハルの出番はないだろう。トライアングルを置いて、ハルはぼうっと練習をする影子を見ていた。
ギターを弾いて奇声を発しては、これじゃないと頭をかきむしる。なにが影子の中の正解なのかはさっぱりわからなかったが、とにかくなにかしらのコダワリがあるらしい。楽譜に何やら書き足し、ギターを演奏して、叫び、それが数時間続いた。
やがて窓の外はすっかり日が暮れて、そろそろ夜が来る頃になる。
「影子、もうそろそろ影に戻らないと……」
『影』は日中しか活動できない。夜はあるじの影の中で眠らなければならないのだ。
影子は珍しく疲れた様子で、しかし首を横に振った。
「……いや、もーちょい」
しゃがれた声でそう言って、またエレキギターをかき鳴らすのだ。
その光景を見ながら、ハルはふと問いかけた。
「なんでそんなにがんばるの?」
「……んん?」
シャウトを中断して、影子はギターのネックに腕を乗せて笑った。
「だってさ、こういうのなんかいいじゃんか。青春!って感じでさ。アタシはこういうのがやりたかったんだよ」
それを聞いたハルは、ああ、やっぱり影子は青春というものに並々ならぬ憧れを抱いていたのだな、と実感する。
ずっと影の中にいて、やっと外に出てこられたのだ。影子には青春を謳歌する権利がある。それを止めるのは野暮というものだろう。
「……そっか」
小さな笑みを浮かべて一言だけ返すと、ハルは引き続き練習する影子を見つめた。
影子は本当にぎりぎりまで粘った。もう日が沈む。眠らなければならない。
ハルが声をかけようとした、そのときだった。
「おらー! こんな遅くまで残ってる悪い生徒はいねえかー!?」
遠くから男性の声が聞こえた。野蛮で有名な生活指導の鈴村だ。時折竹刀をばちばちと鳴らす音が聞こえてくる。
「影子、めんどくさいことになる」
「わぁってる。そこ隠れんぞ」
影子はギターを下ろし、ハルの腕をつかんで教室の片隅にあった縦長のロッカーへとふたり分のからだを押し込んだ。
扉を閉め、息を殺す。
それでも至近距離にある吐息はかかった。
体温や鼓動やにおいが伝わるほどにからだが密着している。自然と抱き合うような格好になり、狭い密室で影子は目を回しそうになっていた。
とっさに自分から提案したことだが、こうなることは予想していなかった。
恋する相手とこんなに間近で肌を触れ合わせるとは。このままではどきどきが伝わってしまう、と鼓動を制御しようとするが、脈動は余計に強く、早くなった。体温はみるみるうちに上昇し、息が上がる。影子はぎゅっと目を閉じて、自分に向かって鎮まれ鎮まれと念じた。
しかし、熱は一向に収まらない。どころか、奇妙な欲望がどんどん膨らんでいく。
もっと近くに、もっと芯から、もっとハルを感じたい。
どれだけ抑えようとしてもその欲は強くなっていき、影子は自分の中で何かの糸がぷつりと切れる音を聞いたような気がした。
「……影、こ……んむ……!?」
気が付いたら、影子はハルとくちびるを重ねていた。こんなんじゃ足りない、もっと深く。舌を入れてかき回し、唾液の音を小さく立てながらハルのくちびるをむさぼる。
こんな密室では逃げようがない。目を白黒させるハルに、影子は執拗と言えるほどの口づけをした。口内のすべてを逃すまいと舌でまさぐり、唾液をすする。ねっとりとくちびるを食み、歯列をなぞり、熱を絡め合った。
「なんだー? 電気つけっぱなしじゃねえか!」
遠くに鈴村の声が聞こえるが、構いはしなかった。さいわい気づかれずに教室の明かりだけが消される。足音が遠ざかったあとも、影子は深い口づけを続けた。
お互い息が上がってきて、時折鼻にかかった声がこぼれる。影子のセーラー服からするりと太ももがあらわになり、ハルのからだに絡みついた。股間をこすりつけるように下半身を押し付けながらも、キスは続く。
まるで、いのちがけのような口づけだった。
まだ足りない、もっと、もっと……!
欲張りなこころが叫ぶ。首筋に腕を回し、ハルの熱を、鼓動を、においを、からだ中で感じる。こすりつけた股間にはいつの間にか凹凸が出来上がっていて、影子はより全身を密着させた。
もうダメだ、このままいっしょに堕ちてしまおう。
なにもかもを放り出した影子が決めた瞬間、視界がシャットダウンされる。急激な眠気に襲われた影子は、そのままハルの影の中に沈んでいなくなってしまった。
タイムアップだ。窓の外では日が沈んでいる。
ひとり取り残されたハルは、頬を赤くして息を乱しながら、ロッカーの中でへたり込んだ。もだもだした熱だけがわだかまっていて、唐突な幕切れに感情が行き場をなくしている。
「……なんだったんだ……?」
まったくわけがわからない。くちびるに触れると、さっきまでの影子の感触がよみがえって、また体温が上がった。
あれでは、まるで……
「……ああ、くそ……!」
苦々しく吐き捨てて、しばらくの間、ハルはロッカーの中で頭を抱えて熱が冷めるのを待っていた。
一方の影子は、影の中で夢を見ながらひたすらに自己嫌悪に陥っていた。
自分はいったい何をした?
欲望のままに痴女のような無様をさらして。
こんな思い、伝わらない方がいいのに。
明日どうやってハルに顔を合わせればいいかわからない。
つくづく、ただのバカな女だ。
……しかし、どうしても我慢できなかった。
もっと奥まで、ハルを感じたくて仕方がなかった。
恋煩う相手があんなに近くにいて、影子は欲情を抑えきれなかった。
あさましい、と思う。
みじめだ、と思う。
あだ花で終わるはずの恋なのに、その先を求めるだなんて、厚顔無恥にも程がある。
散々自分を責めて、さげすんで、罵倒して、影子はそのまま夢の海へと落ちていった。
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