№23 さよなら、師匠
翌日、創立記念日ということで学校は休みだった。
休みであるにもかかわらず、昼下がり、ハルは喫茶店に出向いた。
からん、とドアベルの音が鳴ると、コーヒーサイフォンと向き合っていたマスターが顔を上げる。
「やあ、ハルくん。待ってたよ」
朗らかに出迎えてくれるのは、いつも通りに穏やかなマスターだ。影子は出てこず、ハルはひとりでマスターと対面する。
何も言わずにカウンター席に座ると、マスターが白いカップにコーヒーを満たしてくれた。
それに手を付けずに、ハルは沈鬱な表情でつぶやく。
「……師匠」
「その様子だと、気づいたようだね」
マスターは顔色一つ変えずにサイフォンを眺めている。こくり、ハルは小さくうなずいて答えた。
「場所を変えようか」
サイフォンを片づけたマスターは簡単に手を洗うと、カウンターの向こうから出てきた。このひとがカウンターを離れるのを見るのは初めてかもしれない。モノクロームの店を横切り、ドアをくぐる。ハルも出たことを確認すれば、店の看板をオープンからクローズドにひっくり返した。
ゆっくりと、どこかへ向けて歩き出す。それに付き従いながら、ハルはなにか言おうと言葉を探していた。
それより先に、マスターが口を開く。
「覚えているかい? 初めて君が僕の店に来たときのこと。君は僕の書いた本を抱えて、開口一番『師匠!』なんて言ってね」
「……やめてください、昔の話は」
「あの頃、君には影がなかった。たまにいるんだ、母親の胎内にいる間に自分の影を食ってしまう人間が。イデアのない人間、僕は興味を持ったよ。しかし、君はある日突然影を従えてやってきた。影踏みができるようになったと喜んでいたな。覚えているかい?」
「……覚えていません」
「思えば、君は失くした自分のイデアを探すために妄想に耽っていたのだろうね。そこには理想の自分がいるから。そうやって、君は妄想の世界に没頭していった。僕は正直不安だったよ。いつか、妄想とイデアの間にギャップが生じて、君がイデアたる『影』に飲まれてしまうのではないかと」
「…………」
「しかし、君は今、立派にイデアと調和している。光として影を従えている。僕は、君の師匠としてうれしいんだ。君は成長した。もう、影がなくて影踏みができないと泣いていた子供じゃない――」
「やめてくださいよ!」
声を荒らげて言葉を遮る。
こんなの、まるで、別れの挨拶みたいじゃないか。
師匠はずっと師匠で、変わらない日々が続くと思っていた。
けど、それは間違いだった。
……対峙しなければならないのだ。
やがて、ふたりは鉄骨の足場が形成されている建設途中のビルの前までやってきた。
ビニールの幕を押しやって中に入ると、新品の木材特有のすっぱいにおいがした。昼下がりの光を浴びて、あちこちに影が落ちている。
「さあ、話を聞こうか」
振り返ったマスターがにこやかにハルを促した。ぐ、と言葉を飲んだハルだったが、ここで怖気づいては元も子もない。無理矢理に口を開く。
「……おかしいと思ったんです。マスターに影子の話をした翌日には、龍の『影』が僕たちを襲撃した。捕獲作戦の相談をしたその数日後には、作戦が失敗した。タイミングが合いすぎてる。僕はなにもかもをあなたに話した。あなたは、それをもとに計画を練っていたんじゃないですか?」
つまり、情報漏洩のもとは自分だったわけだ。迂闊にもほどがある。
「最初は、別のひとが『影』の主人だと思ってました。けど、違った……『影』は集合的無意識で繋がっている。僕は、それを見ました」
「ああ、それで。そこまで確たる証拠がない限り、君は僕を断罪したりはしないと思っていたんだけど、まさか『ノラカゲ』に食われるとはね」
積み込まれた資材の上に腰を下ろし、困ったように笑うマスター。それはまるで玉座のようで、笑う男は間違いなく『影の王』だ。
「教えてください。『影の王国』とは何ですか?」
問いかけるハルの声に答える代わりに、マスターは指を鳴らした。
すると、あちこちの影から龍の『影』のあぎとが伸びる。今までとはけた違いの数だ。百匹はいるだろうか、そこらじゅうの影にうごめき、主人の命令を今か今かと待っている。
「簡単なことさ。『影』の集合的無意識に呼びかけて、『主人を食え』と命令する。これだけ増殖した『影』ならば、集合的無意識へのアクセスは可能だ。すべて意識の糸でつながった『影』は、命令のまま世界各地で主人を食うだろうね。かくして、『影の王国』の完成だ。人間はいなくなり、影だけが徘徊する世界が出来上がる」
それが、『影の王国』の正体か……『影』の集合的無意識に呼びかける、人間殲滅計画。これだけ増殖した龍の『影』ならば、集合的無意識に呼びかけることもまた可能だろう。
人間がいなくなり、『影』だけがうろつく世界を想像してみた。
それはひどいディストピアだ。
白と黒と静寂だけが満ちる、果てしない絶望の世界。
「とはいえ、君のような『影使い』は違う。集合的無意識に呼びかけても、影子ちゃんは従わないだろうね。それではいけないんだ。だから、君たちを消そうとした」
「……どうして」
「どうして、『影の王国』を作り出すのかって? 我々としても一枚岩じゃないから何ともいえないけど、少なくとも僕は――モノクロームを愛するがゆえ、だよ」
我々、と言っていた。つまり、敵は組織で動いているということだ。
モノクロームを愛するがゆえ……?
わけがわからず混乱していると、うっとりとした眼差しでマスターが続けた。
「完全なる白と黒の世界……色彩が入る余地もない、完成された世界だ。光と影だけがあり、そのコントラストだけがイデアの姿を浮き上がらせる。他には何も要らない。不必要なものは取り除かれ、必要十分な世界が出来上がる」
「……あーあ、つまんねえ」
ずるり、足元の影から影子が姿を現した。完全にバカにした顔だ。チェインソウを肩に担ぎながら、
「白と黒なんざ、遺影にでも取っとけよ。混沌猥雑、色とりどりの極彩色がべたべた塗ったくっていあるからこそ、この世は楽しいんだろうよ。色のない、きれいなだけの世界なんざ、毒にも薬にもなりゃしねえ。うるさく主張する汚ねえ色があるから、世界はきったねえしキレイなんだろうよ」
嘲笑する影子に、マスターは再び困った顔をして笑った。
「その点は意見の相違だね。平行線だ。議論をしても仕方ない。モノクロームの美しさは僕だけが知っていればいいんだ……けど、少し残念かな。ハルくんなら、分かってくれると思ったんだけど」
「師匠……僕は、空の青さが好きだ。下品なネオンサインも好きだし、きれいな海の色も好きだ。そして、影子の赤い瞳が好きだ」
一歩、前に出る。そして、決定的な一言を口にする。
「そんな世界を白黒にするっていうのなら……僕たちは、断固として戦う」
「……残念だよ」
少し悲しそうな顔をしたものの、マスターはまだ笑顔のままだった。代わりに、周囲の百匹余りの龍の『影』がうごめき始める。
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