№22 『アンタしかいない』

 ……気が付いたら、ハルはもといた空き地にへたり込んでいた。からだじゅう黒いペンキを浴びたかのように真っ黒で、重たい。


 ハルを食ったはずの犬の『ノラカゲ』は、どこにもいなかった。


 代わりに、手首をしっかりと握りしめているのは――


「こんの……大バカ野郎!!」


 ぱぁん!と右頬を張られた。痛みに目を白黒させていると、また左頬を張られる。次は右、次は左。怒涛の往復ビンタで、次第に意識がはっきりしてきた。


「……かげ、こ……」


 赤くらんらんと燃えるような瞳に、紙のような肌、怒りをこらえるように歯を食いしばるくちびる。妄想の中の真っ黒な影子ではない、たしかに本物の影子だ。


「あーそうだよ、アタシだよ! アンタの『影』だよ!」


「どう、して……」


「ああ? んんんん? 『ノラカゲ』の腹かっさばいて助け出してやったんだぜ? なに寝ぼけたこと言ってやがんだ? ああ?」


 もう一度、派手な音を立てて平手打ちをされる。


「このアタシの許可なしに食われるたぁ、いい度胸してやがるな。誰が、いつ、いなくなっていいっつった? 勝手に食われてんじゃねえ!」


「だって、僕は……」


「はん、価値がねえとか生きる意味とか、そーいうめんどくせえこと考えてんならやめちまえ。バカの考えることだ。ああ、ん、アンタはバカだったっけな。バカの考え休むに似たり、だ。うぜーから考えんな」


 バカバカ言われて、感覚がマヒしてきた。そうか、自分はバカだったか。


 ぐいっと胸ぐらをつかまれて、鼻と鼻が触れ合うくらい近くに顔を寄せられる。影子の表情は、歪んでいた。いつもの笑みが、いびつになっている。


「大切なのはひとつっきりだ……アタシをひとりにすんな。言っただろ、アンタがいなきゃなんにもなんねえんだよ。アタシをまた野良に戻す気か? アタシはアンタのもんで、アンタはアタシの帰る場所だ……頼むから、アンタのそばにいさせてくれ。どんだけロクでもなくていい、アタシだけは、アンタのそばに死ぬまでいる」


 すぐそばにあるのに触れ合えないイデア。交わることのなかった光と影が、邂逅を果たした。その奇跡を、大切にしたいと思った。


 どれだけ打ちのめされてもいい、それでもそばにいると、誓ってくれた。


 その誓いに恥じない答えを出さなければならない。


「答えろ」


 こころの内を見透かしたかのように、影子が問う。ハルは神妙な顔でうなずき返した。


「アンタに、アタシといっしょにいる覚悟はあるか? 妄想の殻に閉じこもるのをやめて、現実と戦う覚悟はあるか?――どれだけ打ちのめされようとも、アタシと共に生き続ける覚悟はあるか?」


 ハルは、大きく息を吸い込んだ。そして、胸ぐらをつかむ影子の手首をつかみ返した。


 その瞳には、影子と同じような燃え滾るような光が宿っている。


 吸い込んだ息を一気に吐き出すように、大音声で答える。


「――覚悟なら、君がくれた!」


「…………!」


 影子が目を見開き、息を呑む。


「君が覚悟を決めたなら、主人たる僕も覚悟を決める。君が共に在ることを望むなら、僕はそれに応えよう。君が生きることを選ぶのならば、僕は君を生かすことに全力を尽くす……君は、僕のものだ。どれだけひどく打ちのめされようとも、君をひとりぼっちにはしない。君がいる限り、僕は二度と折れたりはしない!」


 それを忘れていたなんて、とんだ大バカ者だ。これでは、主人のクセに影子に頭が上がらないわけだ。


 影子がそうしてくれたように、誓いを立てる。


 永遠に共にある、光と影の誓いを。


 影子はしばらくの間、ぽかんとした顔をしてハルを見つめていた。それから、にっ、と赤い笑みを浮かべると……


 ふいに、くちびるにやわらかい感触があった。


 軽く触れるだけだが、キスをされたと気付いたのは、その一瞬あとだった。


「!?!?!?!?」


 混乱の坩堝に叩き落されていると、影子はすぐそばにあるハルの耳元に妖艶にささやきかけた。


「愛してるぜ、ダーリン。それでこそ、アタシのご主人様だ」


「あ、あ、あ、あい!?」


 こういうことにまったく免疫のないハルは、ただ口をぱくぱくさせるだけだ。


 そんなハルの脛に、容赦なく蹴りを叩き込む影子。


「いっで!!」


「あはははははは! ウケるし! 童貞丸出しの反応してんじゃねえよ! 今夜はアタシでマスかいていーよ♡」


「誰がかくか!」


 怒鳴るハルに、影子はただ爆笑するだけだ。


 ああ、これでいつも通りだ。


 ……ただ、『いつも通り』を乗り越えるためには、まだひとつ、やらなければならないことがある。


「影子、『ノラカゲ』に食われてわかったことがあるんだけど」


「どーせまた、ロクでもねえこったろ」


 ダルそうな顔をして耳穴を掻く影子に、真剣な表情で向き直るハル。


「あの龍の『影』のことなんだけど――」


 そしてハルは、たどり着いた真相を影子に話した。

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