第2話 妄執は焼き付く
それを始まりとするのかは定かではない。
けれども転機であったとは誰もが認めよう。
いつも通りの一日、変わらぬ操業を始めた工場から唐突に。何処やも分からない虚白の空間に投げ出された。
互いが同じ職場の人間である事は制服のおかげで知る事は出来たが、社長から末端の非正規雇用の工員まで、200人全員がそこに〈転移〉した。
異様な場所に放り出された事に気付き、状況を多少認識できたとして20~60歳ほど年齢に幅がある集団だ。
全員が『異空間に転移した』などという発想には至らない。
寧ろ、この場で発言権がある人間は皆年配であり、若者がよく目にする『異世界』や『転移』だといったフィクションによくある知識など皆無に等しい。『精々が何か魔法とか剣があるカラフルな漫画の奴』という程度、それも田舎の工場であれば、なおさらのことである。
だが、彼らが発言を許されたとしても、彼らとて現実に適応される知識として学んだわけでは無い。あくまでも娯楽として、二次元の話だと思っていたのだ。
内心がどうであれ、若年者も皆その場所を調べることを否とは言わず、手探りで探索を始めた。
分かったことはその場に果てなどなく何処までも続く事。体感温度は気持ちが悪いほどに適温が保たれている事。反響がない、所持品すらも何もない。
確認が進めば進むほど示すのは現状が「あり得ない」としか言えない異常事態である事のみ。
いつの間にか小さくなったざわめきが徐々に恐怖と不安の声にすり替わりつつある頃だった。
ーー導かれし者達よ...
輝きの中から現れたのは大きく、光を纏った女神。
荘厳であれど、恐れ惑う自分たちを包容するように微笑みを湛える姿は正しく慈母と呼べるだろうと、この時は考えていた。
女神は語った。
曰く、異なる世界から救世主の到来を待っていた。
曰く、救世主に課せられた使命は辛く険しいがこの場にいる者にはそれが遂行できる力がある。
曰く、その使命とはこの世界を豊かにすること、その方法は何でもよい。
――そして使命を果たせば、かえる事もできると。
戸惑いの声すら上がったのは当たり前のことだった。
ただの一般人、それもこの異様な出来事を呑み込み行動できるような環境も思考も持っていないようなごく標準的な人間ばかり。
例え〈異世界〉や〈転移〉などのファンタジーに憧れを持っていた若手の従業員ですら、現実になってしまえば不安しか浮かばない。
けれど、迷う暇すら与えられることもなく≪ソレ≫はやってきた。
【忌々しい小細工をする程、俺が怖いのかメガミサマよぉ】
自分たちと同じ人間に見えた。
同じ黒い髪に綺麗な容姿をした人間に見えた。
そう見えただけだった。
そいつは女神に邪神と呼ばれ、自らを【厄災のリポノア】と名乗った。
異世界が救世主を必要とする元凶であり、きっかけ。
厄災そのものであるリポノアはいとも簡単に女神と自分たちを見えない壁で分断した。
懸命にその壁を破ろうとする女神を煽り続けるリポノに乗せられるように、いつの間にやら双方は言い争いに発展していった。
そうして、知る事になったのは――。
リポノアが引き起こした事象を処理し、リポノアを討伐した上で枯れた世界を豊かにすることが【使命】なのだと。
女神も本来ならば自分たちで世界を浄化し繁栄させるべきであり、異世界から人間を攫って自分の仕事を押し付ける行為を御信託という言葉で誤魔化し、祝福を与えて都合のいい手ごまにしようとしていたのだ。
女神とリポノアが言い争い、露呈した使命の本当の詳細。
そして、リポノアが暴露した女神側の事情。
安堵と共に何の疑いもなく信じた女神の裏切りは、工員を疑心暗鬼に陥れた。
恐れ騒めく己らを楽しそうに嗤う
一つ。提案をした。
【哀れなオマエタチに俺から慈悲をあげようか。】
ーーオマエタチただの人間が哀れで仕方ない。
ーーカミサマの勝手な都合で野垂れ死んでいくのが
ーーここで死んだ方が幸せだろう。
ーーけれど人間は死ぬのが怖いというだろう。
ーー慈悲深い俺は非情なメガミサマと違って分かっているのだから、選ばせてやろう。
【選べ、全員が死ぬか。たった一人を差し出すか。】
額からせり出すように現れた羊に似た二本角が、それが悪魔の囁きであることを示していた。
女神は変わらずその背後で必死になって見えない壁を壊そうとしている。
何もできない人間たちと女神の姿、完全にその場は
誰かを差し出せば、自分は生きられる。
その先の使命が野垂れ死ぬこともあり得る程過酷である事は、悪魔の囁きだけではなく囁いた
だが、死んだらどうなるんだ?使命の最中に死んだら?
使命が終われば帰られるが、使命以前のこの場で死ねばどうなる?
そうで無くとも全員死んだら、使命すら果たせず帰るも何もない。
過るあらゆる思想にちらりと、それぞれが隣人の顔を見た。
知った顔も知らぬ顔も恐怖を滲ませ、何も誰も言えなかった。
―――― 彼女以外は。
「…自分が死にますよ。」
す、と。まるで学生が発言する前のように、手を挙げて。
彼女は真っ直ぐに
いま思い出しても、考えてしまう。
迷っているときにすら、彼女の顔を誰が見たのだろうか。
探索している時にさえも、誰が彼女と会話したのだろうか。
彼女は末端も末端の従業員だったのだ。
それもあまり良いとは言えない境遇を与えられた、【使えない従業員】とさえされるような。
歩みに迷いはなかった。
止める手すらも間に合わなかった。
否、これは詭弁だろう。正しくは、安堵すら感じていた自分たちは誰一人として止めようとしなかった。
愚者であった自分たちが呆けている間に、彼女は平然と
「…こんな自分じゃ、駄目ですか?」
にやりと嗤った
【ほんとにいいのか?こんな『自分じゃなくてよかった』などと安堵してる奴らの為に死んで】
甘く囁く
【良ければ、お前が選んでもいいんだぞ?】
優しく、全てを許すように吹き込まれたその誘惑にさえ揺らぐことなく、彼女は微笑み続けていた。
「人の為じゃない、全部自分の為。」
「死ぬよりも、この先が怖い。この先に起るであろう争いが怖い。」
「怖がりなんですよ、自分。」
「怖がりでもいいなら。選んでいいなら。」
「自分を殺して。」
その時、始終変わること無かった優し気な笑みで、厄災の言葉をはねのけた彼女こそ【慈母】だったのだと自分たちは気付いたのだ。
聞き届けた
【慈悲だ】と嘯いて、綺麗にやってやったのだと嘲笑って消えていった。
その瞬間に、退くという選択は自分たちの中から消え失せたのだ。
女神は己の罪悪と力不足の贖罪として、全員に祝福と言う名の【能力】を複数与えてくれた。
それを使って
追悼を、哀悼を彼女に捧げるために覚悟を決めた。そして、運命は我らに味方した。
女神は告げた。
―――かえるとは、帰還と変化の意味を持つ。
―――使命を果たせば、帰還と共に死した彼女を取り戻せる。
そうして、取り戻したのだ。
慈悲深き彼女を、自分たちを生かした彼女を。
我らは勝ち取ったのだ。
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