第17話 そして月は陰る
______2023年4月7日、夜。
仕事が長引き定時を過ぎて帰路に着く。さっきまで雨が降っていたからか、街全体が湿っていてアスファルトの匂いが漂っている。
「この一週間あっという間だったな」
慣れない環境が始まり研修や業務の説明など覚えなければいけないことがたくさん降りかかった日々。初めての環境、初めての作業、初めての人達、それらが一気に押し寄せ、私の身体はへとへとだ。
「これからが楽しみだな。しばらくあかりちゃんとかっちゃんの二人とは会えなさそうだけれど、もっと頑張らなくちゃ」
私持ち前の明るさで暗い夜道を照らしながら歩く。でも、やっぱり疲れたな。普段、ヒールのある靴を履かないからか足が痛い。ふくらはぎは張り、体重を支えるつま先は悲鳴をあげている。家の近くの公園で休憩していこう。大きい公園だし、あそこのベンチなら屋根があったはず。今日は金曜日。週末という事もあり、駅前のお店には多くの人が集まっている。ただ、最寄り駅から離れるに連れてお店やひとつ減り、住宅が増えていった。微かに香る夕飯や石鹸の匂いで生活の気配は感じるが、人通りはまばらだ。
そんな住宅地を抜けてしばらく家の方向へ歩けば、噴水や広場があるような大きい公園がある。公園の中心に向かって何本も続く街灯の灯りを通り抜け、少し横道にそれれば屋根のあるベンチが見えてきた。私はベンチに着くとヒールを脱ぎ、固まった身体を思いっきり伸ばす。
「くぅ〜働くって大変だ〜」
窮屈になっていた足の先がようやく解放され心地いい。雨が降っていたせいだろう。周りには誰もいないので人目を気にせずに休める。まだ仕事は慣れないけれど、社会人初めての一週間で頑張ったしあそこで飲み物でも買っちゃおうかな。
普段は嗜好品を買わずこつこつと貯金をしている。けれど、新しい環境で揉まれたこの一週間、想像以上に疲労が溜まっている。
私、頑張ったし。自分で自分を褒める時があっても良いよね。
そんな事を考えながら、あらかた荷物をまとめ立ち上がる。さぁ、どんなご褒美を買ってあげようか。甘いものがいいな。と、ふと、自動販売機に目をやると、その薄暗い明かりに照らされて何かが見えた。
「あれ……何だろう……」
誰かがそこに立っている。自動販売機の明かりでこちらを向いているのは分かるが……フードを被っていて顔はよく見えない。ずっと動かず静かに向けられる視線。何か気味が悪いな。その誰かはまだこちらを見つめている。
「きょ、今日はもう帰ろうかな」
私は急に気味が悪くなり飲み物を買うのを諦めてそっとその場を離れようとした。自動販売機とは違う方向に、一歩、また一歩と歩き出す。
「と、とりあえず、すぐにこの公園を出なくちゃ」
私は歩き出す。目の前に並ぶ街灯を一つずつ目指しながら、精一杯の早歩きで駆け抜ける。こんな日に限って月は薄暗い雲に覆われていて暗い。背筋に冷たいものが走る。一つ、また一つ。次の灯りだけを見つめて歩き続ける。時間が流れるのが遅い。鼓動が早くなるのを感じる。それでも必死に歩き続ける。少し。後少し、私はひたすら歩き続けた。
──向こうに外の道路が見えてきた。怖い。喉の奥が渇く。だけど何とかそこまで、出来る限りの速さで歩く。
「はぁはぁはぁ……ああ怖かったぁ」
ようやく外の通りに出ると、人通りは少なかったが公園の外に出たことでベンチからはだいぶ離れた。家の明かりに人の気配を感じる。
ここまで来ればとりあえず安心……だよね? 一応、後ろを見ておこう。とりあえず、とりあえずね。ふぅ……少し深呼吸をしよう……よし。
私は突然の出来事に怯えつつも自分を落ち着かせた。そして、小さく振り返ると…………いる。
さっきまで私がいた街灯に照らされてこちらを見つめる誰かが。自動販売機の小さな明かりでは見えなかったが、何かが滴り落ちている。それに妙に赤い……服に……手に……足に……あれは……血?
身体中を血の気が引いていくのが分かった。考えるより早く、身体が動く。
やばいやばいやばいやばいやばい。仕事の疲れ、痛む足、乾いた喉、その全てがどうでも良かった。ただ、今すぐにでもこの場から離れないと、やばい。私は急いで走り出す、あの人は誰!? あの血は!? お、追いかけてきた!?
必死に走る、幸いここから家は近い、家まで帰れば、きっと大丈夫、角を一つ曲がる、後ろから気配を感じる、また一つ角を曲がる、足音が余計についてくる、走っても、走っても、追いかけてくる、周りの音が遠のき、心臓の音だけが頭に響く、身体中から汗が滲む。
痛っ!! はぁはぁ、はぁ、足が、足が痛い。でも、逃げないと、!!
「はあはあ……はっ……はあ」
今日は月が陰りいつもより足元が見えない。
私は慣れないヒールを脱ぎ捨てて必死に走った。アパートはもう見えている。
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