5-3 屍狼の夜

 山裾やますそから夜の冷たい風が吹き、暗闇に小さな光が見えた。

 瞬くように消えたかと思えば、また光りが一気に近づいてくる。

「怖がることはない。噛まれても引っかかれても。ただの擦り傷だ」


 構えた弓の、その矢の先端の返しの部分には深い切り込みがあった。小さな魔石の欠片をその切り込みに挟む形で固定し、さらに上から紐で結わえている。

 欠片は二十六あり、それと同数の聖なる矢が準備された。

 魔石は衝撃を与えると込められた術が解放される仕組みだが、火と違って癒しの力は周囲にどう影響するかわからない。

 確実に仕留めるには、一欠片ひとかけらも無駄に出来ない。部隊を三つに分けナッシュ、ダグ、グエンと襲撃が予測される位置で配置に付いた。

 屍狼、一個体につき一つ。魔石の欠片は、獣の体に直接打ち込む方法を取ることになった。

 配置に付いて三日目の夜。早々に屍狼の群れが姿を現した。


「確実な距離になってから撃つ」

「グエン隊長、屍狼へ打ち込む場所は頭部と聞いていますが」

「そうだな。でもまあ、正直どこがいいかわからん」

「は?」

「そもそもあいつら内臓もまともに機能してないだろ。深めに刺さるように打ち込んだほうが効果があるかもしれないが。まあ出来るだけ眼球を狙ってくれ」

「わかりました」

 

 黒い獣が腐臭と共に、不気味な姿をあらわす。

 暗闇に放たれた聖なる矢は、屍狼の動きを鈍らせた。光のない目で腹から千切れた内臓を引きずり、しかしその足は止まらない。

 無駄骨になるのか。

 目前に迫る狂った獣に、弓隊の盾となるべく剣を構え、グエンは刺さった魔石の効果が出るのを待った。

 効いてくれと祈るような気持ちで、間合いを取る。

 屍狼は矢が刺さっても、跳ねあがり、半身を狙って牙をむく。グエンの剣が、獣の横面を叩いた。

 切れたあごからよだれなのか粘りある液体が長く垂れ、その口から威嚇するような唸り声が上がる。

 千切れた耳に矢が刺さっていた。頭を振り、再び跳びかかろうとする。その目前で動きが唐突に鈍った。上げた前足が不自然に固まる。


 内臓から落ちたものがボタボタと、地面に染みを作る。

 四肢を頼りなく踏みかえ、よろめいたかと思うと、土の上に前足が折れた。そのまま横倒しになり、衝撃でべちゃりと音を立て液体がひろがっていく。

 背後の騎士達が息を詰めて注視する中、グエンが近づく。

 足もとに転がるのは、動きを止めた獣の死体だった。

「もっと早く土に返るべきだったんだよ」

 見開いた目と、剥き出しの牙。グエンは狼の頭上にとどめを刺した。



 雲が厚く、星のない夜。山から吹く風に気温が下がり、借りた毛布に包まっていても頬が冷たい。

 少し大きいが、ルネにも揃いの隊服が渡された。着古したものではあったが、元の擦り切れた服より厚みがあり暖かく、着心地も良い。作業中はまくっていたその袖をおろし、今は体温を逃がさないようにしている。

 近いのか遠いのか、獣の遠吠えが波のように繰り返されてる。ルネは少しでも休息を取るために目を閉じ、しかし落ち着かない夜を過ごしていた。

 天幕の入口を見張るアレックが、静かにと声にださず唇を動かす。

 陽が落ちて、治療を必要とする騎士たちが横になる天幕の隅。仮眠を交代で取っていたルネも、外のざわつきに気が付いた。毛布に包まっていた体を起こし、身構える。

 野営地のあちこちで焚かれた松明の火が、風であおられていた。

 慌ただしい足音と、複数の声。

 間をおいて思いがけなく近くで聞こえた、明らかな狼の唸り声に顔をあげる。


 度重なる襲撃で、動ける人員が減っている。当初よりも、守りも手薄になっているだろう。

 ここは安全な場所ではない。何が起こるかわからない。

 それは連れてきてほしいと懇願したときに、何度も念押しをされた。危険だと、覚悟してきた。

 それなのに今、身近に感じる危険に体が震える。ルネは震えを鎮めるために、自身の腕をつかんだ。


 息を殺して何かを待つ。

 夜風の合間に、熱にうなされた病人の微かな呻きが聞こえていた。天幕に残る衛生隊が腰に下げた剣を抜いている。簡易ベットの上で、動ける者は剣に手を伸ばしている。

 天幕の中は狭い。それぞれが手にしている武器は、通常よりも短い刃が付いていた。

 

 天幕が地面からめくれるように、わずかに浮く。風ではない。細長い獣の鼻先が見えたかと思えば、すぐに離れた。

 心臓がうるさく鼓動している。

 と、先ほど浮いた僅かに左から、黒い影が慌てる様子もなく、静かに内側に侵入してきた。

 様子を窺うように頭を上げる。汚れた毛の胸元が上下していた。白濁した目。全ての動きが異様なほどゆっくりに見えた。

 屍狼が足を踏みかえるたび、腐った内臓の匂いが強烈に鼻につく。

 後ろ脚が一つなく、薄汚れた毛は狼の体液か人の血で汚れ、背から腹にかけてはあばら骨が見え隠れしている。骨の間に、ぶら下がったひものような内臓があった。

 どうして動いているのだろう。もはや生きているとは言えない姿なのに。

 ルネは吐き気と動揺を押し殺し、静かに息をついた。

 

 アレックが間合いを詰めようと、音を立てずに動く。

 屍狼が牙をむき唸る。

 一声吠える勢いのまま、地面を蹴り傍らのベットに飛び上がった。病人の喉に喰らいつこうとする横腹に、アレックが片刃の剣を振るう。

 

 屍狼は身体をそらすように、刃が届く直前でかわす。

 続けて傍らのベットで起き上がっていた騎士に飛びつこうとし、その間に入ったロシェの胸に体当たりした。よろめき傾いた、その腕に噛みつく。

 短い悲鳴。牙を立てられながらもつれ、地面に倒れたロシェの喉元に屍狼がせまる。

 ロシェと名前を呼ぶ複数の声と、屍狼の唸り。悲鳴が混じり合う。

「クソッ!」

 獣の背にアレックの振るう剣の切っ先が、横なぎに切り裂く。

 

 短い鳴き声と共に黒い塊が離れ、アレックのつま先が屍狼の腹を蹴り上げる。

 屍狼の身体が浮く。アレックと短剣を構えた衛生兵が屍狼を追撃しようと、距離を詰める。

「ロシェさんっ!」

 ルネは台の上に乗った水差しを手に、地面に横たわるロシェに駆け寄る。

 ロシェは短く息をつき、噛まれた腕を中心に丸く全身で痛みに耐えている。ルネは噛まれた腕を力強く掴み、血の染み出した袖をまくった。

「き、傷口の血を絞ります」

 必死なロシェと目が合い、そのまま傷口の周囲に指をあて血を絞り出した。

 ロシェの押し殺す悲鳴と呻き声に怯みそうになるが、ルネは続けて水で傷口を洗い流す。

 傷口を消毒、清潔な布がほしい。

 まだ屍狼は背後にいる。ルネはそっと腰を浮かせた。

 

 と、天幕の外でも、叫び声がした。

 入り口の幕が風で大きくひるがえり、もう一匹の狼が影を覗かせる。

 ルネがはっと身体を強張らせる間に、屍狼に弓矢が続けて飛び、体液の飛沫を上げて刺さる。

 甲高い獣の悲鳴が上がり、鼻面をブーツが乱暴に蹴り上げるのが見えた。

 

 天幕が再び大きく開き、野営の松明の光が射し込む。

 アレックが対峙している屍狼が首を振った一瞬。その背に弓矢がうねりをあげて飛ぶ。矢に怯んだ獣の身体に、アレックが深く剣を突き立てた。


 気付けば見慣れた顔が、弓を握っていた。

「グエン隊長」

「無事かっ?!」

「は、はい」

 すぐそばで地面に横たわった黒い獣は、だらりと長い舌を口から下げていた。腐臭を放つ身体から、脈打つようにどくどくと液体が流れている。

 再び動き出さないとは思うが、ルネの目はまだ凍り付いたように離せない。生臭い匂いが、天幕を揺らす風と共に流れる。


「終わった」

 ルネはグエンの声に、屍狼からようやく顔を上げた。まだ緊張は解けず、心音が早い。

「どうなったん、ですか」

「今夜姿を現した個体には魔石を撃った。どの屍狼も死んだよ。明らかな効果が出て、あっけなく逝った。だから、ひとまず終わったんだ」

 こんな血生臭い現場で、グエンがどこか穏やかに笑う。

 その表情と「よくやってくれたな」と労わりの言葉を聞いて、ルネは無意識に詰めていた息を吐き出した。

 力が抜けどうしようもなく視界がにじんでくる。まだやることがあるのに。

「隊長、ロシェさん噛まれてっ、傷口に布と……消毒」

 震えた膝で踏み出したルネがつまづいたのを、グエンの手が支える。涙を浮かべたルネは備品をまとめた机を示し、グエンはそのまま手を貸した。

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