5-1 王立騎士団北方警備隊
北方ガーウェの山影は濃く、吹き付ける風は強い。
夜の闇に跳躍した黒い獣をかわしながら、グエンは横なぎに剣を振るった。
以前よりも剣が重い。
騎士の怒号と、悲鳴が入り交ざる。辺りに土埃が舞う。
グエンが目標を変えた屍狼を追おうとする背後で悲鳴が上がった。
「離せっ、た、助けて」
襲い掛かる獣は頭の左上部が無く、
腐った肉を切る嫌な手ごたえはあったが、獣は噛んだ腕を離そうとしない。
腐臭の中、再度切り付け、中途半端にぶら下がった体をグエンの右足が蹴り上げた。
補強した革靴の先に、骨の折れたような感触。獣が宙を飛んだ。
騎士は荒い息で唾を飛ばし、膝をつく。その低い背に、後ろ足の無い新たな黒い獣が爪を立てようとする。
跳びかかろうとした獣に矢が刺さり、しかし刺さったまましぶとく飛び跳ねる。グエンが斜めに切りつけると、腹が裂け半壊した屍狼の生臭い息と、人の血が混ざった匂いが鼻についた。
胃から込み上げるものを、飲み込む。
まだ動き回る。そのしつこい姿に「細切れにしてやる」とグエンは手の甲で口を拭い、半笑いした。
「グエン隊長」
叫びと共に横から矢が新たに飛ぶ。
屍狼はギャンと鳴き声をあげ、後ろに跳ねた。続けて複数の矢が飛び、刺さる。黒い獣は、一瞬こちらに長い鼻面を向けたが、方向を変えて山の方角に駆けた。
「ようやく引いてきましたね」
怪我をした騎士に分厚い肩を貸しながら、北方警備隊の副隊長であるダグが薄く朝日の射してきた辺りを見回す。
「怪我を、負傷者の傷口を早く洗浄したほうが良い」
「俺、噛まれて」
足と、腕を噛まれたという騎士が、青い顔をしてガタガタと震えている。
ダグの反対側から、兵士の身体を支え「噛まれたって治る。俺が戻ってきてるだろ」グエンがわざと横柄な態度で言うと、兵は戸惑いながらも何とか頷いて、落ち着く努力をしていた。
確かに治る。
が、直すには彼女の力が必要だ。グエンは内心で舌打ちをした。
獣が走り回った後。残った腐臭が一帯に漂う。
白濁して生気のない目。皮の隙間から骨の見える、腐った体。ちぎれた内臓を引きずり、狂気だけの塊が恐れもなく向かってくる。
治療院で滞在するあいだ薄れていた悪夢は、まだ生々しくここにあった。
◆
グエンが北方警備隊に戻ってから十日が経過していた。
治らぬ呪いとも言われていたグエンの復帰は、隊に希望をもたらし歓迎された。
その間の屍狼の襲撃は二度。
縄張りだと思われる危険な一帯から避難が進み、被害は最小限に抑えられてはいるが、事態が好転しているわけでもない。
屍狼が、飢えと
事態が好転するのか不確定な状況は、疲労も伴い、騎士団に暗い影を落としていた。
狼から受ける怪我自体は大したことが無い。深く噛みつかれさえしなければ、牙と爪によるひっかき傷だ。
しかしグエンが回復したとはいえ、この場に治す手段はない。屍狼の呪いを前に、騎士達は畏縮している。傷口から身体のしびれが始まり、全身に広がる。やがて『死に至る病』になるという印象は消えていない。
騎士の間の恐怖はなかなか拭い去れるものではなかった。
襲撃から一夜明け、野営地の天幕の中でグエンと、グエンが病に倒れて以来指揮を執っていた第三部隊長のナッシュが報告を受けていた。
「襲撃を受けるだけではなく、こちらから囲い込み攻撃をしかけようとしたんだが。あいつらの足の速さと、入り組んだ森に入り込まれては馬も容易には追いつけん」
「昼間は」
「屍狼たちは、いくつかの群れに分かれて森と岩場に散っている。日々場所を変える群れは、一つづつ追い詰めるにしても、逃げ足が速いからな。探す手間と人手と、それに見合う成果が上がるか……」
「これが通常の狼なら、多少引っかかれても人手が減ることはないんだがな」
ナッシュが苦り切った顔で言う。
少しでも屍狼に傷つけられた騎士は、傷口から血を絞り、出来る限り早く患部を洗い消毒する。
清潔な布で巻いて処置する間にも、身体のだるさを訴え、やがて熱があがる。
横になったまま、手足が震え、剣を振るうことはもちろん移動も困難になる。
早々に戦力から外れ、人員の維持が難しくなるのだ。攻め込むにも慎重にならざるを得ない。
「第二部隊の応援が入り次第、一気に攻め込む手筈は整っている。同時に攻め込めば、逃げ場も限定される。数を減らせば、後は通常のやり方で維持できるだろう」
ナッシュから聞かされた、現状の案にグエンも希望を持っていたが、それはあっけなく白紙となった。
◆
明後日、野営地に戻ってきた伝令が告げたのは、王都より第二部隊は派遣されないという内容だった。
「追加の兵の補充も無しですか」
「王都を手薄にするなと一部の貴族が強固に反対をして、抑えきれなかったらしい」
ダグの問いかけに、伝令の文書を片手にナッシュが答える。読み終わった紙を渡され、グエンも目を通した。
「被害が広まれば、食料も、輸出の毛織も止まる。飢餓に貧困で国が荒れるぞ。屍狼が増えれば王都まで襲い出す可能性だって出てくる」
「都の中に居るだけのお偉い人たちは、現実を何もわかってない」
冷静なナッシュにしては珍しく、吐き捨てるように言った。
「現騎士団長が失脚すれば、つながりのある王妃や王も非難が及ぶ。そうやって連中は権力を削ぐつもりだ」
グエンは不味いなと思った。
人が
最初は、同種の狼だけが屍狼になるかと思われていたが、ここに戻ってから山犬のような連中も、同じように狂った様子で牙を向ける集団の中に居るのだ。
「どうする。今の部隊だけで仕掛けるか?」
いや、とナッシュが首を振る。
「これ以上人員が減ると、この地域の外に屍狼が逃げる可能性もある。その先でまた新たに増え始めたら」
「想像もつかないか。街まで被害が出るかもな」
心もとないぐらい人手が減っていた。次の襲撃に、耐えられるだろうか。
◆
気の焦りと、失望。次の屍狼の襲撃に耐えなくてはならない重圧感。
頭を切り替えなければと、グエンは一度、天幕の外へ出た。疲労を抱えた野営地の人員が、交代で束の間の休息を取っている。風が吹き、乾いた地に砂が舞う。
高い陽の光の下、どこかで見たような姿があった。
「隊長」
長身が歩いてくる。
「なんでお前がいる」
「俺だけじゃなくて、彼女も一緒」
アレックの影に隠れるように付いてきた人物。
言われるまで、目に入らなかった。気が付けなかったのは、それが有り得ないことだから。
そこに居たのは、野営地で見るはずのないルネの姿だった。
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