1-2 雑用係は、眠りの力を使う

「あなたを信じます。信じて、力を使いますね」

 心の中で、集中とルネは自身に声をかける。


 力の使い方を忘れないように、密かに練習はしていた。

 が、他人に使うことは本当に久しぶりだ。夜中に洗濯室で突然であった人に、力を使う突飛さにも緊張する。

 けれど成功させたい。

 眠れず苦しんでいる彼の為にも、まだ無力ではない証明として自分自身の為にも。役に立ちたいとルネは強く思った。

 

 ガラス窓がカタカタと、夜風に揺れて音を立てている。ルネは、長椅子によりかかっている彼の手をとった。

「目を閉じて、ゆっくり息を吸ってください」

「はいはい」

「返事は要りません」

「え、冷たい」


 この男性は、身分が高い余裕かもしれないが、堅そうな見た目と違って、ずいぶん砕けた話し方をする。初対面でも気さくな人、苦手かもしれない。


 いや余計なことを考えるな。

 落ち着くようにルネは小さく息をつく。気を取り直して、包帯の見える分厚い手を包み、撫でるようにふれる。

 手のひらから、相手の内側へ熱をうつしていく心証を頭に強く思い描いていく。

 

「ゆっくり息をはいて。足の先から少しずつ、力が抜けていきます。……ひざの力も抜けて、身体の重みが感じられます」


 お腹、胸、こわばりが解けるように順々に優しく声をかけていく。

「指先の力も、ゆっくりと抜けていきます、ひじから肩もゆるんできます」

 ふれているルネの手のひらは、じわりと、あたたかくなっていた。


「力が抜けて、少しずつ暖かさを感じてきます」

 彼の手のひらをおろす。

「静かに息を吸って」

 目を閉じた彼の表情は穏やかだ。


「ゆっくり吐きます」

 頬に手を添える。最後に手のひらで額をおおう。眉のあたりの骨ばった感触がする。

 ルネが力を使うとき、雨のような、細かくやわらかい光が弱った身体にひたひたと染み込んでいく感覚がある。

 気が付けば、がくりと、彼の力が抜けていた。

 

「あ、」

 重たい水袋のように、男の身体が椅子からずりさがっていく。

「あ……、あの」

 長椅子の背を滑るように傾いた、重みある彼の身体をルネは慌てて支え、何とかその場に横にさせた。


「……え、すみません」

 呼びかけにも反応がない。呼吸は穏やかだが、男はぐったりと気絶したように、眠りに落ちていた。

 これは……。

 

 少し眠気を覚えるぐらいにしかったのに。

 彼は完全に眠ってしまっているではないか?


 久しぶりだったので、丁寧に力を操ったが、用量を間違えたのか完璧にかけすぎたらしい。

 ルネは暗がりで一人青くなった。

 揺さぶって起こすか。


 いやでも、折角彼が望みどおり眠れたのに?

 よく見れば、目の下に酷い隈が出来ている。すっかり眠りに落ちている彼をここで無理やり起こすことは、ひどく残酷な行いに思えた。


「……やってしまった」

 絶望の顔でつぶやいたルネの言葉は、すうすうと穏やかな寝息の中、暗い部屋に吸い込まれた。


 

 まだ暗い空から僅かに射す、うすく柔らかな光が、赤黒い発疹の浮き出た頬を撫でている。


 窓ごしにうつる、弱い陽の光に男――グエンが目を開ける。

 ここはどこだ。ぼんやりとした視界に映る。


 天井、長椅子、たたまれた沢山の洗濯物の収まる棚と籠。石鹸と湿っぽさ。それと薬臭さが混じったような匂い。

 無理な姿勢だったのか、背中が痛い。

 固い椅子に横たわる自身の状況に、昨夜の女とのやり取りを思い出す。


 やせ細った油気のない髪。粗末な服、おどおどした話し方の女。

 しかし眠らせると言い始めその時から、何か決意をしたように態度が変わった。慣れたものなのか、術をかけるから力を抜けと指示する口調は堂々としていた。

 

 目覚めたばかりの身体は重い。

 が、久しぶりに霞が晴れたように頭が軽かった。

 必要な物で満たされた穏やかさがある。睡眠によってもたらされた、久しぶりの、欠けていたものが埋めらた充足感。


 常に頭にあった、無数のうごめく影が跳びかかる生臭い記憶も、呪いで手足が震え視界が狭まり、段々と身体が使えなくなってゆく恐怖も思い出さず眠っていた。

 眠っていた。眠れないことに、あんなに毎夜苦しんでいたのに。

 いとも簡単に眠ってしまっていた。

 こんなことがあるのか?

 

 屍狼に噛まれ呪いを受けたものは、死に至る。そういった病だった。


 現地で同じ呪いともいえるこの病にかかった民は、例外なく命を落としていた。噛まれた農夫の落ちくぼんだ目、赤黒い発疹が広がり、干からびた身体。

 自分たちもああなって、死を迎えるのか。仲間が、自分より若い部下が、衰弱してく姿をただ無力に待つしかないのか。


 このまま病状が悪化し、衰弱していく身体でなすすべなく死に向かっていくのだと仕方なく思っていた。治らないのだと、頭の片隅にずっと恐怖が住み着いていた。

 長椅子の上で身体を起こし、男は窓を見上げる。ガラス越しに群青色の朝焼けが見えた。

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