思考の物質性について

存思院

わたくしの幻想性

「観念構築体としての物理的宇宙」とはつまり、経験は思考と感情によって決定されるということ。夢と現実に区別はない。

 しかし、低気圧で心身ともに不調だとか、黄体期でイライラしてしまうというのは、待ちたまえ、それは明らかに思考が物質に依存していることを示している。

 物理的宇宙≒経験は、感情と思考によって構築されるが、感情と思考は物質的である。あたりまえかしら。物理的宇宙≒経験は感情と思考なのだ。なら、感情と思考は物理的宇宙そのものである。感情と思考を「私」と定義すれば、私は物理的宇宙である。

 私にも君にも、連続性どころか実在性がないのだ。

(例えば、一年前の君と今日の君は正しく別人なのです)


 では、感情と思考が形成する物理的宇宙という経験そのものであるところの君、経験すべてである君は、幻想であるとして、世界/君の境界が実体のないものだったとして、何故その幻想が存在しているのだろうか。

 幻想としての物理的宇宙とは、一体何であろうか。


 まあその前に、原理主義的なスピリチュアリストのために、霊学的な世界観に触れよう。

 死の後、霊界に霊としてかえり、地上に転生するなり、外の星に生まれるなり、神界にのぼってハリストスに仕え奉る。素晴らしく美しい経験になるだろうが、何も根本的に変化していないのだ。物理的宇宙から、いくらか物質的な要素が薄まっただけで(霊もまた物質であり、逆もまた然り)、世界/君の境界線は厳然としてそこにある。

 もしかしたらセスの云う「物理的宇宙」は、「物質的宇宙」ではなく「客体的宇宙」のことかもしれない。


 やはり問題はそこではない。

 

 幻想は見られるものだ。

 感情と思考を観測する絶対的な主体が存在する。

 感情と思考は変えられる。

 変化を俯瞰する主体がある。


 物理的宇宙(感情と思考)を経験する主体、宇宙を外から眺める不動のそれ、こそ平伏すべき神である。


 感情と思考を操れば経験は生み出せるが、それに囚われてはいけない。


 わたくしの幻想性から脱却して、神にまみえよう。


――などと最近は思っているのかしらん。

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