二 水が嫌いなのは。

 少女は祈っていた。今この瞬間が夢ではないことを。

 今までどこで何をしていたかはよく覚えていなかった。ただ、ひたすらにお腹が空いていたことだけは覚えている。

 そして、気がついたら優しそうな青年のもとにいた。

 温かい感じの顔だちをしていて、瞳がきれいだと感じた。彼は黒髪に、黄緑色の瞳をしていた。

 そして久しぶりにまともなご飯を食べて、温かい感覚の中で眠った。

 そして今、名前をもらって、その人の家で暮らすことになった。

 信じられていなかった。眠ってからのことは全て夢なのではないか?もしかしたらもっと前から夢なのではないか?そんな感じがしていたから、彼女は瞬きをしなかった。



 「どうした?」

 リッカードは困惑した。そして鏡を見る。別に顔には何もついていない。

 しかし、さっきからセイラがじっと見つめてくるから、再び鏡を見る。

 つぶらな瞳でじっと見てくるのは可愛いが、気になって仕方がない。

「どうした?」

「ううん。」

 彼が何度聞いても、セイラは首を横に振るばかりである。

「そういえば、言葉結構分かるんだな。

「みんな喋ってるから。」

「町の?」

 セイラは肯定した。

「そっか。」

 言いつつ近づくリッカード。落ち着いてみると、気づくことがたくさんあった。

 まず、臭い。お風呂に入れる必要性を感じた。しかしながら風呂は公共で、当然男女は別だ。つまり助けがいる。

 次に、服がない。しかしこれは風呂の問題が解決できれば容易い。服屋に行ってもいいし、風呂に入れてくれる人に娘でもいれば、お下がりをもらえば言い。

 だから、次に来た女性客に託すことにした。

 そして待つことしばらく。鈴が鳴った。

「ごきげんよう。リック。」

 声は女性。よし来たと視線を向けたリッカードは、神様を恨みたくなった。

「嘘だろ。」

 その呟きを聞いて、少女は不思議そうに首を傾げた。

 美しい銀髪が長く揺れる。空色の瞳が澄んで、リッカードをまっすぐ見つめていた。

 少女の名前はスズカ・アイレア。アイレア侯爵の娘だ。要するにめちゃくちゃ偉い。

「わたくしが来て何か不都合でもございましたか?」

 買い物をしなければ客じゃない。という言い訳を展開しようと思って女性「客」と決めたのだが、むしろ首を絞める形になってしまった。

 何しろスズカは、この店の宝石の方の上客だ。

「いえ、大したことではないのですが……。」

 スズカの形のよい鼻が動く。

「匂いますね。」

 鼻もよく、耳もよい。さすがいい血統は違うなと常に感じる。

 そして瞳がセイラを捉え、再び首を傾げる。

「どなたです?」

「セイラ!」

 元気な返事に微笑むスズカ。しかし目は全く笑っていない。

「へぇぇ……。良い名前ですね。」

 言いつつ、鋭い視線はリッカードを捉えている。彼は引き攣った笑顔で答えた。

 そんな二人のやり取りなど露知らず、セイラは嬉しそうに笑った。

「……奴隷か何かですか?」

「孤児ですね。」

 スズカの瞳の鋭さが増す。彼女は今、リッカードの責任感について問い正そうとしている。

「気まぐれですか?」

「いえ。さっき修道院で誓いを立ててきました。」

「なぜこの子なのですか?」

「生きたがっていたからです。」

「へぇ……。」

 リッカードの背中を、冷や汗が止めどなく伝う。さっきからとんでもない圧力を感じる。貴族の格の違いを見せつけられている。

 スズカの視線がセイラに向く。セイラは不思議そうな顔をして見つめ返す。

「……セイラちゃん。このお兄ちゃんのこと、好き?」

「好き!」

 セイラは迷わなかった。リッカードはとても安心した。

「そう、ならばよろしい。……ただ、無責任に孤児を拾ってくるようなことはなさらないように。」

「しませんよそんなこと。」

「そうですか?……まぁこれ以上の詮索は無為ですね。で、わたくしに何を頼みたいのです?」

「いや、あなたには何も……。」

「わたくしがあなたの幼馴染みであることをお忘れですか?あなたの考えは手に取るようにわかりますよ。」

 その言葉に、自然と苦笑いが浮かぶ。スズカはよくそう言ってくるが、やや納得がいっていない。

「幼馴染みって、夏の間くらいしか交流なかったでしょう。」

 というのは、リッカードの故郷は地方で、夏にここに来ていたのだ。その時に、スズカとたまに遊んでいた。本格的な交流は、彼が店主になった四年前からだ。

「次に来た女性客にこの子をお風呂に連れていってもらう。」

 リッカードはため息を吐いた。

「それ幼馴染みだからじゃなくて、純粋に頭良いだけじゃないですか。」

「いえ、幼馴染みだからです。」

「……そうですか。」

 この先に待つのは、スズカの変な頭の固さによる押し問答だけなので、彼は大人しく折れる。

「その頼み、承りましょう。」

「いやいや。頼んでないですよ。」

 もちろん断ろうとするリッカード。もちろん理由はちゃんとある。

「さすがに貴族の娘さんが貧民を風呂に入れるのは……」

「何か問題でも?」

「いや問題しかないでしょ。変な噂立ったらどうするんですか?」

「立てられる輩がいるとでも?」

「いやいやいや。」

「お風呂が焚かれるのは次の刻でしたわね。また来ます。」

「あ、ちょっ!」

 止めようとする挙動は見せたが、正直スズカが本気ならば平民のリッカードにはどうしようもない。いくら普通に話せていても、その溝は埋まらない。

 だから諦めて、せめてもとセイラのシラミ捕りをすることにした。

「ない。」

 フケは凄かったが、シラミはいなかった。これはいささか予想外なことだった。

「お風呂入ったことあるか?」

 セイラは首を横に振った。

「シラミいないところに住んでたのかな?」

「わかんない。」

「まぁ、良いか。」

 フケは洗えば良い。臭いのも承知で風呂に入れると言い出したのだから、後は気にしないことにした。

 そして次の鐘が鳴ると、恐らく外で待機していただろう。スズカがすぐに入ってきた。

「迎えに参りましたよ。」

「あぁ、それじゃあセイラ。お姉さんについて……」

 首が横に振られる。そして掴まれる服の裾。

「……どうした?」

「あなたと離れたくないのでしょう。」

「捨てないって言ったろ?誓いも立てたし。」

 しかしセイラは裾を離してはくれない。

「しょうがないなぁ。」

 とりあえず浴場の前までついていくしかなさそうだった。

「……あ、馬車じゃないんですね。」

 てっきり外には馬車がいるものだと思っていたが、そんなことはなかった。

「その子が驚いてしまうかもしれませんから。」

 こういうところにはよく気が利くのがスズカだった。

「……リック。わたくしの父上がそろそろ結婚の話をしたがっています。」

 リッカードは沈黙を選んだ。この話は彼にとって目下最大の問題なのだ。

 つまり、スズカの実家からの結婚の圧力である。

「わたくしがよい年頃になりまして方々から縁談が来ているのですが、その輩どもの失礼なこと。父上もそろそろ我慢の限界だそうです。」

 リッカードは苦笑いを浮かべた。

「じゃあ断れば良いじゃないですか。」

「変な噂が立ったらどうするのです?」

「庶民と結婚しようとしてる時点でそこは気にしない方がいいと思いますよ。」

「あなたは婿入りするのですよ?」

「ですからそれは荷が重すぎると何度言ったら……。」

「結婚ってなに?」

 足下からそんな声が飛んでくる。リッカードはセイラを見ながら、わかりやすい言葉を探した。

「大好きな人と、ずっと一緒にいようねっていう約束かな。」

 するとセイラはパッと明るい笑顔を浮かべた。

「じゃあ、セイラはリックと結婚する!」

 色々な意味でリッカードには効果的な言葉だった。

「滲みるなぁ。」

 だからこんなしょうもない反応が出た。

 そこにスズカが真顔で口を挟む。

「彼は私と結婚するのです。あなたには渡しません。」

「そんなむきにならなくても。」

「だって リックがあまり乗り気でないので……。」

「リックと結婚する!」

「意地っ張りですねぇ。」

 周囲からは微笑ましげな視線が飛んでくる。

「とりあえず風呂入れてきてあげてくださいよ。」

 浴場の壁が見えてきた。煙が上がっていて、近づく度に少しずつ暑くなっていく。

「そうですね。さぁ、セイラちゃん。お姉さんと一緒にお風呂に入りましょうね?」

「いや。」

 セイラは拒否した。スズカは彼女に言い聞かせた。

「あなた、臭いという自覚はありますか?」

 セイラは首を縦に振った。その反応は意外だったが、もしかしたら理解していないで肯定したのかもしれない。とあとで気づいた。

「臭いとリックに嫌われますよ?」

 視線がリックに向く。

「きらい?」

 赤い瞳は潤んでいた。リッカードはひどく心を打たれた。

「まだ、嫌いじゃない。」

「お風呂入る。」

「良い子ですね。」

 そしてしばらくすると、天使が帰ってきた。もちろん比喩だ。

 白いワンピースに、髪の毛を水色のリボンで束ねている。自分はとんでもない少女を拾ってきたのだ。とリッカードは実感した。

 そして認識の相違に気づく。

 黒だと思っていた髪色は、相当汚れていたからそうなっただけで、実際は艶のある灰色をしていた。彼は信じられなくて、さっき髪を弄った手を見る。かなり汚れていた。

 というわけですさまじい変身を遂げたセイラだが、一つ問題がある。

「……何で今にも泣きそうな顔してるんです?」

 セイラは駆け寄って、抱きついた。

「お風呂が嫌いみたいでしたね。それでも必死に耐えてましたよ。」

「耐えてましたよ。じゃないですよ。」

 震えるセイラ。その頭を優しく撫でる。

「しょうがないじゃないですか。どう思っても洗わなければいけないんですから。」

「そうですけど……」

「きらい。」

 はっきりとスズカを見つめながら放たれた言葉だった。

「結構ですよ。」

 そう言うが、声が心なしか悲しそうに聞こえたリッカード。だから普段なら絶対にしない誘いをした。

「うちで昼御飯でも食べます?……あぁ、庶民の飯でも構わないならですけど。」

「えぇ、喜んで!」

 満面の笑みで即答。さっきの表情はやはり気のせいだったのかもしれない。と彼が思うのも不思議ではない。

 とはいえ後に引ける状況ではなかった。貴族の前に二言は存在しない。

「よっこいしょ。」

 セイラを抱き上げる。

 いきなりやってしまったから怖がられるかなと思ったが、抱えられたセイラはとても嬉しそうだった。

「……そういえぱ、セイラちゃんはやたら言葉が話せるのですね。」

 歩いている途中、スズカはセイラに向けて聞いたのだが、彼女は答えない。相当機嫌を悪くしたようだ。

「周りの人の言葉を聞いて覚えたみたいですね。」

「なるほど。なかなか賢いようですね。」

「ですね。」

 視線をセイラに向けると、彼女は瞳をとろけさせていた。

「眠いか?」

 明らかに眠いだろうに、首を縦には振らなかった。

「そっか。いつでも寝ていいからな。」

 再び首が横に振られる。

「ずっと一緒にいたいから……」

 言って、セイラはリックの襟を強く掴んだ。

 不安がっているのは明らかだった。

「眠っても一緒だ。」

「ほんとに……?」

「眠る前に、一緒にいたい人の名前を三回言って眠ると、夢でも一緒にいられる。」

 セイラは素直に三回リックと呟くと、安心したのか目蓋を閉じて寝息を立てはじめた。

「一緒にいたい人の名前を三回手の平に書くのではなくって?」

「いいんですよ。気持ちです気持ち。」

「まぁそうですね。上を言ったら埒が明きません。髪やら血やら、貴族の間ではそんな話題が絶えませんから。」

 そしてひいては魔術とか悪魔とかにつながる訳だ。もちろん禁忌である。

「……やったことあります?」

「ないですよ。そんな馬鹿馬鹿しいこと。そんなことしなくてもあなたはここにいます。」

「……やってなくてよかったです。」

「……それより、今日のお昼ごはんは何になさるのです?」

「豆と野菜で炒め物でも作りますかね。」

「でしたら、お肉を買ってきましょう。」

「は?」

 ちょっと脈絡がなくて困惑する。いや正確には脈絡はあるのだが、肉は庶民にとっては遠い存在で、だから選択肢になかったのだ。

「セイラちゃんは栄養が足りていないでしょう?豆と野菜だけでは足りませんよ。リックは先に帰って準備をしていてください。」

「いや、一人で行かせるわけには……」

「まさか、私が本当の意味で一人でいると思っているのですか?」

「あ。」

 確かに、大貴族の娘が何の警護もなしに町を歩いているわけがないのだ。かなり腕のたつのがいるのだろう。

「……じゃあ、ここで?」

「ええ。あなたの家でまた。」

 というわけで店に帰る。勘定台の上には、工具が並べられて置いてあった。一人で経営しているので、彼も客も慣れてしまっている。

 何年もやってきて、誰も並べられている宝石を盗んでいかないことには本当に感謝している。お礼は道具を完璧に修理することで示す。

 とりあえずセイラをベッドに寝かせて、修理に取りかかる。

 することと言えば、壊れた柄を外して、新しく削り出すか、槌の部分が壊れていれば、金属を削るのが主だ。

 ちなみに、宝石店なので宝飾品を作るのも仕事だが、これは月に一回程度で、正直工具修理の方が腕が良くなっている気がしている。

「いや、さすがにそれは失礼だな。」

 その通りだろう。とはいえ手際は確かだ。だからスズカが帰ってくるまでに三つの工具を修理し終えた。

「ただいま。」

 あまりにも自然とスズカは言った。

「あ、お帰りなさい。」

 だから反射的にそう返してしまった。

 そして満面の笑みのスズカが誕生した。

「お肉を買って参りました。」

「あぁ……ありがとうございます。」

「お気になさらず。これからはあなたの財産になるのですから。」

「いや……もういいや。とりあえず料理作りますから、座って待っていてください。」

「失礼。裏庭のカモミールは咲いておりますか?」

「あぁ。お茶ですか。ご自由にどうぞ。」

  そう、この家には裏庭がある。そこにはハーブ等が植えられていて、その利用のほとんどはスズカである。

 二階に上がり、まずはセイラの寝顔を見てから、火を起こす。

「沢山取れました。リックも飲みますか?」

「えぇ。お願いしましょうかね。」

「ではセイラの分も含めて淹れてしまいましょう。」

 そうしてうるさくしても、セイラは目を覚ますことはなかった。しかしながら、うなされているようだった。

「気がかりですか?」

「それはね。」

「すっかり子煩悩ですね。」

「子というか妹って感じですかね。」

「確か一人っ子でしたよね?」

「あれ、妹ができたって言ってませんでしたっけ?」

「いつです?」

「三年前ですね。まだ一度も会ってません。今年は帰る気ですが。」

「ご両親も驚くでしょうね。孫を連れてきたと驚くかもしれませんよ?」

「さすがにそんな馬鹿じゃないと信じたいのですが。」

「ひゃあッ!」

「うわっ?!」

「あらあら。」

 セイラが突然飛び起きた。少なくとも良い寝起きではないのは確かだった。

 そしてキョロキョロと周囲を見回し、リックを見つけると、リッカードを睨めつけた。

 ちなみに全然怖くない。

「嘘ついた!」

「うん?」

 聞き返すと、今度は悲しそうな表情をした。

「リックに会えなかった……。」

 そんな彼女に近づいて、リッカードは言う。

「でも、今会えただろ?」

「まぁ、女たらし。」

 後ろから聞こえた言葉は完全に無視する。

「……うん。」

「お腹空いてるか?」

「うん。」

「じゃああそこに座って待っててくれ。」

「うん!」

 というわけで爆速で機嫌を直したセイラだった。

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