揺れるブランコ

皆川 純

朝靄の公園

 早朝の誰もいない公園。

 住宅街にぽつりと緑を見せるそこは、早春にしては珍しく靄に覆われている。

 目覚めの早い小鳥の囀りさえなく、静かな海の底に烟っているかのようだった。


「絶対、成功して往んでくーよ」

 ぽつり、決意を靄に流すかのように慎一郎が呟く。

 返事はない。ただ、彼の隣のブランコに座っていた彼女が動いたのか、きぃと小さく金具の擦れる音がした。

「工場も忙しぇって話だし、きばって技術を身につけら独立だって夢じゃなぇ思んだ」

 本当にそう思っているのか、それとも少年らしい夢想なのか彼女にはわからなかった。

 それも当然だ。十五になったばかりの彼らでは、社会の仕組みも仕事も何もわからない。それでも彼は東京へ行くし、彼女はだからこそ知識を身につけるための高校という猶予期間を与えられた。

 猶予を貰った彼女に、彼にかけられる言葉ない。

 だから黙って、古びた制服を身につけたままの彼に目を向けた。

「そうだけ……」

 そう言いかけたまま、彼は口を閉ざす。


 クラスを引っ張って行くようなタイプではなかった。けれど、何となくまとまりがなくなった時には誰かが必ず彼に発言を求め、それがクラス全体の意思となっていく。そんな少年だった。

 それは彼のこんな瞬間の表情によく現れていると思う。

 瞳にある柔らかい光は常に一歩引いて全体を眺め、けれど日本人にしては彫りが深くすっきりとした鼻梁に続く眉は強く、けして流されるだけの男子ではない。戦後は遠くなったと言うけれど、彼女は───いや彼女だけでなくクラスの皆が、この少年に日本男児を見ていたと思う。


 そんな彼も、今だけはどこか小さく見えるのは何故だろう。

 朝靄に沈む景色の中だからだろうか。

 それとも、これから出ていく故郷への想い故か。

 あるいはまた、明日からの新しい生活への不安が、彼ほどの人にもやはりあるのだろうか。

 いずれかは判然としなかったけれど、好況に伴う人口増に対応すべく新しく作られたこの街の小さな公園、真新しいけれど少ししかない遊具が薄青い薄明にぼんやりと佇む中にあって、この時間はきっと心の中に残るだろうと思った。


「十年、十年経ったらまたここに往んでく」

 隣のブランコに腰掛けたまま、靄の向こうに十年後の自分を見つけたのだろうか。

 十年後、彼はどんな青年になっているだろう。自分は大人の女性になれているだろうか。

 そんな思いで彼女もまた、彼と同じ方向を見つめた。

「その時は成功して錦を飾れぇようになっちょりてえ。そうだけん」

 今度は言葉を留めず。

 立ち上がった時にがちゃんと鳴った鎖の音が、朝靄に反響した。

「そうだけん、十年後の今日、また会うてもらえんだらぁか」

 どうして、そう言いかけた弥生は口を閉ざす。


 こんな朝早くに会う約束をしたこと、十年後に会いたいと言われたこと、同じ級長として一緒にいる時間は長かったけれど今日の今日まで、彼にこんなことを言われると思っていなかった。

 淡い恋心のようなものは持っていた。それは年頃の少女らしく。けれどそれだけだった。

 大人への猶予をもらった彼女はその先のことを考えていなかったし、だから当然彼とどうなりたいかなんて望んだこともなかった。

 けれども。

 彼の言葉が嬉しく思えたことも確かだった。

 自分だけが特別な存在であると思い込みたい思春期特有の病かも知れない。つまらない、子供じみた見栄と憧憬の成れの果て。それでも今だけは、今はまだ少女なのだから。そう言ってもらえる存在であるという事実に浸っても構わないだろう。

 だから彼女は、小さく「うん」とだけ呟く。

 その言葉に満足したのか、いつもの柔らかい微笑みを向けた彼は、ゆっくりと朝靄の向こうに消えて行く。

 力強く泳ぐ大魚のように見えて、彼女はブランコに腰掛けたまま遠ざかる制服の背中をいつまでも見送っていた。











「母さん、それ俺が持つからいいよ」

 駅から離れている訳でもないから、新幹線から乗り換えて行こうと思ったのだがいかんせん本数が少ない。そのことを指摘して迎えに来てくれるという両親の言葉に甘え、弥生は息子と新幹線改札からロータリーに出た。

「大丈夫よこれくらい。あら、お土産持ってたかしら」

「俺の鞄に入ってるってば。あ、あの車だろ」

 軽く手を挙げて挨拶する息子の目線の先、年老いた両親の姿が見える。


 記憶にあるそれより老けたように感じるのは、久しぶりだからだろうか。三人の娘が全員家を出てしまってから、悠々自適の生活を楽しんでいると思っていたけれど、こんなに小さく感じてしまうのなら寂しさもあったのかも知れない。もっと頻繁に帰れば良かったのかも、と思わなくもないけれど、女手ひとつで息子を育てることに一生懸命で余裕がなかった。


「よう来たな。さ、早う車に乗りなぃ」

 方言を耳にするのも久方ぶりだ。息子はもちろん、早くに失くした夫も関東の人間だったし弥生も結婚してからは方言を使うことが少なくなった。

 のんびりして激しい発音のない、悪く言えば不明瞭な方言を聞くとなんとなくほっとしてしまう。隣の息子は「やっぱりよく聞き取れない」とぼやいているが。

「だんだんね父さん。運転は大丈夫なの?もう年なんだけんできーだけ歩えた方がええよ」

 夫や息子にも理解できるよう電話口でもなるべく標準語で話していた弥生だったが、久しぶりの故郷と家族に、つい方言で応えてしまう。

「普段は散歩しちょーけん大丈夫だ。今日はわれらの荷物も多ぇだらぁ思ーてな、久しぶりに車出えたんだ」

「ええけん早う乗りなぃな。お昼ごはんまだだらー。お寿司頼んであーわよ」

 寿司、という言葉に息子が反応する。

「おお、寿司。ありがとう婆ちゃん」

「就職祝いだけんね。沢山あーけん好きなだけ食いなぃ」

 寿司ひとつで喜ぶ二十二歳もどうなんだ、と思わなくもないけれど、貧乏とまで行かなくとも贅沢な暮らしはさせてあげられなかった。そのことに少しだけ申し訳なさを覚えるけれど、両親も息子も喜んでいるのだから今は暗い顔を見せるべきではないだろう。

 トランクに荷物を積み込み、後部席に並んで座るとすぐに車は小さなロータリーを回り、懐かしい自宅へと走っていった。






 昨日は長旅の疲れもあったのだろう。

 客間を用意して貰ったというのに息子は遅くまで父と飲んでいたようだが、弥生は早々に二階の自室に下がった。彼女が結婚して出ていった二十五年前そのままに残されていた部屋に。

 目覚めた弥生はぼんやりした視界で周囲を見渡す。

 高校受験、大学受験まで勉強していた机、古臭い木製の本棚には子供の頃に揃えてもらった童話集が無駄に凝った背表紙を並べている。畳敷の和室があの頃は嫌いだったが、こうして年経て振り返ってみると重ねた歴史とは別の落ち着きを感じるのも良いものだと思う。

 幼い抵抗心から障子を外して付け替えたカーテンから、薄青い光が透けている。陽はまだ昇っていない時間帯のようだ。


 もぞり、とこれもまた懐かしい布団から出ると静かにカーテンを引く。

 そこに広がる景色はあの頃と何も変わらない。

 物干し竿のある小さな庭、彼女の妹が生まれた時に植えた梅の木、父が片手間に作っていた家庭菜園。

 今でも芝生は手入れを怠っていないようだ。芝刈り機なんてものはなく、しゃがみ込んで刈り込み鋏で作業しているのだろう。もう年なのだから無理はしないで欲しいものだ。

 庭を囲む生垣はプリペットで、金木犀に似たその香りは嫌いではなかった。そろそろあの甘い香りを振り撒く頃だろう。息子の準備もある、明日には帰らなければならないからその時を楽しめないのは残念だが、考えてみればプリペットの生垣など今の家から駅までの間にだってある。

 ニュータウンだから庭向こうに見える道路はいつも静かで、たまに住人の自家用車が走る程度でしか使われていない。こんな朝まだきでは尚更だ。


 この季節には珍しく薄靄がかかっている眼下の風景を眺めていた弥生は、ふともう三十年以上前の視界を重ねる。

 まだ大人への猶予が残されていたあの頃。

 残された息子を育てるために、世俗に塗れてただひたすら懸命に生きてからは思い出すこともなくなっていたが、この家を出るまでは確かに胸の中にあった微かに甘い記憶。

 もうはっきりと顔も思い出せなくなっているけれど、清涼な朝の匂いと潮風にも似た湿った朝靄の肌感は今でも思い出すことができる。

 ほんの少しだけ目を閉じて考えた彼女は、カーテンを閉めると着替えを詰めたトランクへと足を向けた。




 彼女の記憶にある公園は、記憶の中で少しずつ年月を経て行った。

 だから久しぶりに足を運んでも、違和感は覚えない。きっと本来記憶のフィルムに写されたそこはもっと真新しく鮮やかな色味を帯びているのだろうけれども。

 古さびてしまった遊具、ペンキが剥がれ元の色もわからなくなった鉄柱、ブランコの座面は朽ちかけた木が削げ始めている。そんな様子を見て、彼女は記憶と同じだと感じていた。

 公園の匂いもあの頃と同じで。

 海の中にいるような静謐と青い影に満ちている。

 辛うじて腰掛けることのできるブランコに座り、彼女は遠いあの日ではなく、故郷を離れた日のことを思い出していた。


 自分の人生を自分では何ひとつ決めることのできない、子供時代の約束が有効であるなどと思ってはいなかった。

 高校に入学してからも地元の大学に通うようになってからも、だから彼女は彼との約束を後生大事に抱えていたわけではない。

 それでも、何かの支えになっていたことは確かだった。誰かに必要とされている、誰かに想われている、そんなあやふやな事実だけでも十代の人生を平穏に保つには充分に過ぎたのだ。

 だから彼には感謝もしていたし、約束を忘れることもなかった。ただ、信じていなかっただけだ。

 それは彼のことなのか、自分のことなのか、それとも十五歳の決心のことなのか。

 そう、信じてはいなかった───信じたいと思っても、信じた末に裏切られることを恐れていたと言った方が正確かも知れない。

 彼女が約束の日、二十七年前のあの日に公園に足を運んだのは、そんな恐れと期待の複雑な絡み合いによる結果だったのだろう。信じたい、けれど信じきれない、それでも諦めきれないという。




 あの日、彼女は心に壁を作って朝まだきの公園で彼を待っていた。

 来るはずがない、自分のこれは結婚を前にした最後の決意と思い出の放棄でしかないのだ、と。そう言い聞かせながら早朝のブランコに揺られる。

 じっと待つことなどできなかった。

 きぃきぃと鳴るブランコを揺らし、頭だけを覗かせた朝陽が作る鉄柱の長い影を見ていた。あの日と違って朝靄もなく、早起きの小鳥が鳴いている。

 そんな「違い」ばかりを強調して、果たされない約束への防壁を堅固なものにしようと落ち着きなく視線を動かす。

 決して公園の入り口は見ない。きっと彼の姿を見てしまったら、今までの生活もこれからの生活も捨てて奔ってしまいそうだったから。

 彼の姿を見つけたくなかった。見つけられなければ、この懐かしく甘い思いにも訣別できると思っていた。

 だから彼の代わりに太陽が姿を見せた時も気落ちはしなかった。

 ただ、約束を覚えていた自分を誇りたかったし、十年の自分を支える約束をくれた彼への感謝もあった。

 その思いをほんの少しだけこの世界に残したいと思った彼女は、足元に視線を這わせると小さな石に目をつけた。


 さっぱりとした顔を上げ、まだ起きていないであろう両親の待つ自宅へと戻る。

 そうして彼女は、約束との、いや思い出との離別を完全に果たしたのだ。




(そう思いたかったのかも知れない)

 年を経て人生の何たるかをそれなりに味わった今なら、何となくあの頃の強がりが愛おしく思える。

 少し前までなら、思い出す度にその甘酸っぱさに悶えるような心持ちだったのだろうけれど、そんな恥ずかしい記憶すら今の自分を作るひとつなのだと割り切れるくらいには年をとった。

 時代も変わった。

 息子が恋人を連れて来たこともあった。

 何となくだけれども、昔と今では恋心のあり方も変わったのだろうと思う。

 本物かどうかもわからないような、あやふやな恋ともつかないような何かを抱えたまま十年も待つようなことを、今の人たちはしないのだろうな、とも。

(いやだ、年寄りくさいわね)

 静かな海の中で、似つかわしくない明るい笑顔を浮かべる。

 今朝こうしてここに来たのはなぜだろう。思い出をなぞるためではない。年をとった自分を再認識するためでもない。

 きっと、これからの自分を始めるためだ。

 夫の忘れ形見である息子は無事に巣立った。

 これでひと段落なのではない。

 だって、人生はまだこれからなのだから。

 思い出は忘れるものではない、続けて重ねて新しくしていくためのものだ。

 あの頃の自分があるからこそ、これからの自分がある。


 次第に朝靄が晴れていく公園に、雲を透かして朝陽が落ちてくる。

 あの頃の彼と彼女はもういない。

 少しだけ、少年少女時代に少しだけ重なった彼らの道は完全に分たれたのだ。いつか重なることもあるかも知れないけれど、その時はきっとこうして別々の道を歩んできたことにも笑って、そうしてお互いの人生を語り合えるのだろう。

 そう、だから。

 自分の人生は、あの頃を積み重ねてこれからも続いて行く。











 がむしゃらだった。

 住み込みで働かせてもらった自転車工場では、はじめ掃除や工具・資材を早朝から準備し、工員がスムーズに作業できるよう整えることからだった。門前の小僧どころではない、ただの下働きだ。とは言え給金を貰っている以上やらねばならぬことはやる。技術を学ぶのはそれからだ。

 工場長からは入社した初日に「技術は盗むもの」とだけ教えられた。一年の下働きを経ても本当に基本的なことしか教えてもらえなかったことには驚いたが、ラインの各所に研修で配置される度に効果的な力の入れ方、道具の使い方を盗み見ては終業後にメモしていった。


 五年後、成人式を迎える頃には八人いた同期は二人になっていた。

 その同期と同時にラインチーフという名の、僅かばかり賃金が上がるが責任だけは異様に大きく負わされる位置に就いたしばらく後、商談で頻繁に訪れる部品卸売の営業担当と仲良くなった。

 彼の会社では自転車部品の部署は日陰のようで、月に数度飲み歩くようになってからは愚痴を聞くことも多かったが、それが二年続くと口調の風向きが変わる。

「これからは実用車でなく、軽快車や児童向けだ」

 彼なりに市場と産業の流れを注視していたようで、これからの自転車産業がどこへ向かうのか、その波にどう乗るべきなのかを話すようになった。

「販売はまだ伸びる余地がある」

 だから何をどう売るのかを考えれば販売店が工夫する余地はある、と熱っぽく語る彼に飲まれたか、いつしか自分も一城の主になることを夢見るようになった。


 またしばらくして、ラインの主任となった慎一郎はそれなりに貯蓄もできるようになり、あれから頻繁に語り合ってきた卸売の彼と独立を果たす。

 とは言っても、小さな販売店だ。

 彼の勤めていた工場は既製品のラインだけでなく、技術者が自ら工夫して参考車両を製作することもあり、唯一残っていた同期は技術者としての道を極めるべく先輩と夜な夜な新たな構造開発に夢中だった。その伝手を使って街の自転車屋でありながら既製ハブギヤを改造したオリジナル自転車などを販売、サイクリングブームも終わった時勢でありながら一定の顧客を獲得していた。

 だから、頃合いだと思った。


 青い時代の思い出と埋めてしまえば良かったのに、彼は大事にその思いを抱えていたから。

 余裕ある生活ができている訳ではない。業界自体は依然厳しい状況が続いているし、公共交通機関やインフラ整備により産業は転回を探ってもいる。

 それでも、約束を守りたかった、その思いが彼をここまでにしたのだ。

 同時期に上京した同年代が今どの地位にいるのか、社会でどれほどの活躍をしているのかはわからない。けれど街のしがない自転車屋であっても雇われではない、自分と共同経営者の食い扶持を自分で稼げるようになったのはある程度の成功を納めたと考えて良いでのはないだろうか。

 今更彼女とどうなりたいという訳ではない。

 それでも自分がここまでやってこれたのはあの約束があったからだ。

 恥じずに会いに行ける、そんな自分になりたいと思ったからだ。

 思いを伝えたい訳ではない、いや今の自分があるのは彼女との約束が支えになったからだという思いを伝えたい。

 彼女は高校に進んだ。地主の娘でもあったからきっと、大学にまで進んだかも知れない。

 そこでどんな学校生活を送ったのかわからない。もしかしたらもう伴侶を選んでいるのかも知れない。

 そう思うと慎一郎の胸は微かに痛んだが、それでもこの気持ちを伝えられたなら、ようやく約束の一歩先を自分も歩んでいけるだろう。

 胸を張って会えるか、と言われると断言はできない。

 あの約束のおかげで、こんな立派な自分になれた、と言い切れるほど自信家ではない。比較対象できる同年代がいないから、彼女の前に自信を持って立てる根拠を彼は持たないのだから。

 それでもあの約束の日が近づくにつれ、彼の思いは膨れ上がっていくのだ。

 だから。

 工場からもらったカレンダーにちらりと目を遣ると、彼は書きかけの帳簿を閉じて席を立つ。

 あの公園が瞼から離れない。

 朝靄の中にいる自分はきっと、あの日に戻ればどこかに進めるはずだ。

 そんなあやふやな考えを振り切るようにため息をつくと、荷造りをするため自宅へ帰っていった。






(あの日も、こんな海の中にいるような朝靄だった)

 慎一郎は皺だらけの手が掴む錆びついた鎖に目をやる。

 足元にはまるで仕事に行くかのような小さな鞄ひとつ。

 着のみ着のまま、最古の思い出を辿るため新幹線に飛び乗り故郷へと戻ってきた。

 いや、もう彼の人生の中でこの地で過ごした時間は僅かなものでしかないから、「故郷」「戻る」と言って良いのかわからない。もう方言も話せなくなって久しい。


 公園を取り巻く家々はほぼ建て替えられており、あの頃はなかった二階建てスレート葺きの一戸建てばかりになっている。あの時と変わらない朝靄はそれらを隠し、記憶のまま海の底へと彼を誘った。

(おかげで、あの頃の記憶を思い出せる)

 目を閉じて少しずつ思い出す。


 黄色いシーソー、タイヤ、囲いなどない砂場。

 周囲を囲む芝生と生垣。

 水色と桃色に塗られたブランコ。

 たったそれだけの小さな住宅街の公園。


 薄青の中に佇むあの頃と変わらない公園。

 十五の頃と変わらない景色の中で、ただ一人登場する人物である自分だけが年老いた。

 不安よりも希望に溢れていたあの頃はもう戻って来ない。ここにいるのはこの世界に自らの足跡を何ひとつ残せなかったことに落胆し、七十年を超えた生に虚無しか浮かばない哀れな老人だ。

 市場と技術の時勢に翻弄され、店と生活を守るために汲々としながら帳簿の数字を睨み、十五歳の輝きも二十五歳の躍動もいつしか失われた。そのことにすら気づかないほど、ただ生きていた。

 いや、それも正確ではない。

 生きていたのではない、死んでいなかっただけだ。

 今こうして、二十五歳に見た公園の景色を眺めていると改めてそう思う。


 自分はまだ先に行けると思っていた。

 だからあの時、約束の日に公園へ足を向けられなかった。

 どこに行けると思っていたのだろうか。もっと成長した自分の姿か、それとも大きくした店舗に腰を据える社長としての姿か。

 彼女に会うために必要だったのは、十五歳だった自分が二十五歳の自分になった姿だったはずなのに。

 中学を卒業して上京する子供が、社会人として成功した姿ではなかったのに。

 歩を進める先を間違えていたのだろう。

 十年経った自分として会えばそれで良かったのに、慎一郎としての自分で良かったのに、ダイヤサイクルという会社の経営者など彼女には興味も関係もない、彼自身のプライドの先を求めてしまった。

 だから「もっと先に進んだ自分を見せたい」と思ってしまった。

 約束の前日、あの日と同じように朝靄のかかった公園で幻想を見てしまった彼は、翌早朝を待たず東京へ帰った。

 自ら、あの約束を破棄してしまったのだ。


(自業自得だな……)

 そうして社会の流れに忙殺されているうちに、約束を忘却の彼方に追いやった。

 経営者として様々な選択に迫られ、正解だったことも誤りだったこともあった。

 メーカーからの一括仕入れによるFC化を果たし、数十店舗のフランチャイザーに至ったのだからある程度の成功は収めたと言って良いだろう。その意味で自分の生に意味はあったと思うし、おおまかな選択の方向は間違っていなかったとも思う。

 それでも、慎一郎としての選択は誤ったのだ。

 後継者に席を譲った後、がらんとした自宅に戻って初めてそのことに気づいた。

 株式譲渡によって老後の生活に困らない資産はある。狭い業界で小さなFCながら工員で終わるより社会的地位を得たとも言えるだろう。自宅だって23区内ではないけれど高層マンションの25階だ。

 けれど、彼は何ひとつ得ていなかった。

 何ひとつ残せていなかった。

 それはきっと、約束を違えたからだ。

 約束を守るための道を違えてしまったからだ。


 けれど、時は戻せないし過去を変えることもできない。

 今こうして誰もいない広いマンションに一人でいることも、今まで積み重ねてきた彼自身の選択の結果であり、積み上げたものを突き崩して積み直すことなどできない。

 ただ、それを誇れるかどうかなのだろう。

 人生は選択の連続であり、自信を持って選べる選択肢などほんの僅かしかない。

 常に、多くの人が、目の前にある選択を恐る恐る選び取っていく。

 自信もない、根拠もない、不安しかないままに。

 無数の枝分かれした道の先に人生の終わりがあり、その直前で立ち止まった時、振り返って見える足跡に満足できるかどうかが生の証なのだろうと思う。


 だから、彼は全てをそのままに鞄ひとつを持って家を出た。

 せめて誤った自分を認識した、そのことにくらいは誇りを持ちたいと思ったから。




 きぃ、と錆びた鉄が擦れる音がする。

 静かな公園に小さく波を立てる。

 彼の座るブランコから正面のシーソーへと向かい、その先の生垣に吸い込まれていく。

 漣を感じながら、彼はじっとあの頃を見つめていた。


 彼女はどんな人生を送ったのだろうか。

 今どんな生を送っているのだろうか。

 あの約束は覚えていてくれたのだろうか。

 約束の日、同じ場所に座っていたのだろうか。


 眩しく思えるあの頃の自分たち。それなのに、どんな会話をしたのか、何があったのか、どんな友人がいたのか、思い出はもう朧げに儚い姿しか見せてくれない。

 けれど、それで良いのかもしれない。

 思い出はいつも明るく輝いている。

 なのに明確な形をとってはくれない。

 だからそれに縋ることもできるのだし、助けてくれると思い込むこともできる。

 実際に自分を助けるのは自分であったとしても、何かが支えとなってくれる、背中を押してくれると思えるだけでも選択の責任は軽くなるのだから。


(そうか……それでも良いのか)

 約束を守れなかった自分もまた、思い出のひとつ。

 そのことを抱え続けて重荷としてきたのではない、思い出となっているのだから。

 青く甘い約束を交わした自分も、道を違えた自分も、店を大きくした果てに虚無感を抱えた自分も。

 全てが今の自分に重なっている思い出。

 そう思えば少しだけ、ほんの少しだけ重い足取りで公園へきた時よりも心が軽くなった気がした。

 ただ一つだけ心残りがあるとすれば、約束を守らなかった自分を彼女がどう思ったのだろうかということくらいだが、それこそ今更どうにもならないことだ。守らなかったのは自分なのだから。


 早起きの小鳥がちち、と小さく鳴いた。

 合唱になる前に、朝靄が思い出を見せてくれているうちに帰ろうと考えた彼は、最後に思い出の公園を焼き付けようと周囲を見渡す。

「……あれは」

 思わず小さく呟いた。

 児童が悪戯でもしたのだろうか、ブランコの鉄柱に傷が見える。

 いや、解体されていないのが不思議なほど年を経た遊具だから傷自体は珍しいものではない。

 彼の目を惹いたのは、それが文字に見えたからだ。

 じっと目を凝らすと、徐々にその傷は明白な文字になる。

 他の浅い傷に紛れ、読みづらいけれど明確なメッセージに。


 ありがとう


 子供の悪戯かも知れない。

 自分とは無関係な誰かが、自分とは無関係な誰かに宛てたものかも知れない。

 何の意味もないものかも知れない。


 けれど、彼にはそれが彼女からのメッセージだとわかった。

 そう思い込みたいだけでも良い。

 彼女は約束を覚えていて、あの日確かにここに座り来ない彼を待っていた。

 そうして言葉を残した。

 それだけで十分だ。

 もう何も思い残すことはない。

 その一言だけで、彼の生に意味はあったし思い出は鮮やかな過去となった。

 それだけで、幸せな人生だった。






 朝靄の晴れた公園。

 誰もいないのに、ブランコだけが微かに揺れていた。

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揺れるブランコ 皆川 純 @inu_dog

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