第七話 愛とは如何なものか

 千歳は脱衣場で着物を脱いで、温泉に浸かる。ここは混浴だ。葵と入れたらなんてドキドキしてしまうんだろう? 葵は最近は俺は髪の毛に気を遣ってなかったから近々、少し髪を切ろうと思う。と言い始めてしまった。

 葵は完全なる短髪ではないと言っていたが、葵の長髪が好きだからどうか切らないで欲しい。


 千歳は葵の長髪は枝毛もなく、とてもきれいだ。髪から良い香の香りもする。どうか切らないで欲しいというのを上手く伝えるにはどうしたら良いか気になってしまう。寝てる間に葵の髪の毛に触れなくなる。


「温泉に一緒に入るか?」

「……えっ?」


 千歳は頬を染める。

 葵と二人きりで入浴なんて烏滸おこがましい。恥ずかしすぎる。


 千歳は脳裏に過ぎる。


『せいぜい醜い匹夫のところへ嫁ぐことね』


 葵はとても美しい青年だ。

 そんな男性の許嫁なんて烏滸がましいのだろうか。葵は自分を娶りたかったとは言っているが本心なのだろうか。


 葵が身体を洗ってると疑心暗鬼になってしまう。


「どうしたんだ?」

「なんでもありません……!」


 葵のことを突き放したら、相当怖いことになるのだろう。そして紗絵のことも話したらどうなるかは解らない。きっと黒川家の屋敷を追い出される。葵が紗絵とくっついたらそれはそれで困る。


 千歳はとんでもない想像をしてしまう。葵とは愛を深めに温泉旅行にやってきた。そして千歳が女学校時代に虐められていたことを知ったら葵はどう思うだろうか。また初恋の人だった朔太郎のように丁重に交際を断られてしまうのだろうか。昔はかつては紗絵とは友達だったが、当時紗絵の好きだった男性の白瀬しろせ修一しゅういちに好かれる羽目になり、紗絵とは友としての縁が切れた。女学校時代を卒業したあとでも、修一は噂では千歳のことを諦めてないと聞いた。また千歳は修一の策略にかかり、また愛する葵にも拒絶されてしまうのだろうか。


「どうしたんだ?」

「……はい。大丈夫です」


「千歳は琥珀色のつぶらな瞳だな」

「……?」


「なにかあったら俺に言いなさい。俺はおまえとは年齢差もあるからな。好きだけ俺を頼ると良い」

「……ふえ?」


 葵の上に乗った。

 葵は腰巻きを巻いているが千歳はほぼ、裸である。非常に頬が真っ赤になる。


「あ、葵さま……?」

「……俺のしてることが恥ずかしいか?」


「そういう訳ではなくて……!」

「おまえは恥ずかしがり屋さんだな」


「人がいらっしゃいます……!」

「俺とおまえと二人だけだが、違うか?」


 顔に熱が上昇する。心も火照る。

 本心がうっかり出てしまってはいけない。本心は隠さないと。


「葵さまに見られたら! より、八頭さまに虐められます!」

 本当に言ってしまった。葵との関係は終わってしまう。


「八頭とは誰だ?」

「八頭さまとは……その……」


「八頭とは? 來村らいむらの嫁か?」

「……まさかおまえ、この痣のことも親にも一切話さなかったそうだな。親御さんや荘司さんは薄々気づいていたようだが」

「隠してるつもりじゃ……」

「隠してるつもりではない? おまえはこの痣のことも俺に隠してるが?」


「実は……わ、わたしは……」

 千歳は目をウロウロさせる。


「……まあどっちでも良いが。話したくなかったら無理に話さなくても良い」


 いまはこれでも良いのかな? たしかこの温泉の効用は打ち身や痣に効くと聞いた。

 みるみると痣は温泉により、治ってゆく。千歳は目が潤んできた。一生治らないと思った痣が灯湯の里で治ったとは……。


「痣は治ったようだな……。では長湯をしたことだしそろそろ出るか?」


 葵の肩まわりはしなやかな筋肉で、着物を着ると細身だが、結構筋肉質だ。葵は意外とガッチリしてる。


「はい!」

「おまえは愛らしいな」

「お、お恥ずかしいです……!」


「どうやら明日は佐月城で歌舞伎をやるみたいだぞ」

「歌舞伎を見に行っても宜しいでしょうか?」

「ああ、構わないが」

(千歳は胸もお尻もきれいだな)

 葵の助平な心を千歳は見事にくすぐったのだった。




 夜が更ける頃に葵は千歳の枕元に来た。千歳は寝静まったふりをしている。葵はそのまま寝てしまった。


「……千歳。おまえはきれいだな」


 千歳は葵に首元に息を吹きかけられる。柔らかな栗髪にも触れられる。


「葵さまはなにをしてらっしゃるんですか?」

「……俺はおまえの全てが欲しい」


 千歳の心臓が早鐘を打つ。

 葵の許は気持ち良いし、葵に寄りかかれば応えてくれるだろう。けど、千歳は男である葵が、少々怖かった。


「……葵さま?」

「おまえの髪から良い香りがする」


 お布団にて、千歳は葵に組み敷かれる。千歳は葵に指を絡められ、葵の端正な顔立ちがしっかりと解る。千歳はなにがなんだが分からなくなった。葵は千歳の首元に埋もれた。


「……葵さま、お恥ずかしいです……!」

「……別に。俺はなんとも恥ずかしくはない」


「……怖いか?」

「怖いですし、なによりお恥ずかしいです」


「……おまえはこういうことをするのは初めてのようだな」

「そ、それは……そうですか。葵さまはお恥ずかしくないのですか?」

「俺は恥ずかしくない。おまえとの仲をいい意味でも、悪い意味でも誤解されても良い。俺とおまえは兄妹でもなく友人でもなく許嫁だからだ」


「嫌か?」

「……葵さまと一線を越えるのは怖いです」

「解った」


「……ふえ?」

「……千歳、今日は疲れだろうから今日はゆっくり休みなさい」

 葵は寝静まってしまった。


(……わ、わたし余計なことを言ってしまった?)


 千歳が視線を投げかけると葵の掌がある。触りたい気持ちもある。触れたら拒絶されるだろうか。拒絶してしまったから、許嫁であるし、葵に触れたいという気持ちが混在していた。千歳の心は勝手に切ないままだ。


 千歳は思う。千歳よりきれいな紗絵に会ったら葵は心変わりをして紗絵のほうへ行ってしまうかもしれない。


 千歳の心は葵から勝手に離れたままだ。


(葵さまのつんつんとした髪の毛がくすぐったいわ)

 葵の許へ行く。

 葵を後ろからギューッと抱き締めると寝ていらしている。


「……葵さまはわたしとはどんなときも一緒ですか?」


 葵は応答しない。葵の寝息が聞こえる。葵の心音が千歳の心をより一層緊張させる。


(……寝ていらしているのは解るけれど、葵さまが自分の許を離れないかが、とても不安だわ。かと言って起こすのもお気の毒だわ)


 不安な心をどうしたら良いか迷う。

 葵のことを拒否してしまった。それが悔やまれる。千歳はとてつもなく自虐思考なのだ。

 葵に組み敷かれたが、口吸うを拒否してしまった。それがすごく悔やまれる。


「……葵さま」

「……千歳が……好きだ」

 葵は寝言を言い始める。

 千歳の顔に熱が上昇する。とても恥ずかしい。葵は自分との関係をいい意味でも悪い意味でも誤解されて良いと言っていた。それはどういうことだろうか。



 千歳は禄に眠れないまま、陽光が差し込んできた。意識はぼんやりとしたなかである。


「眠れたか?」

「……ね、眠れませんでした」

「ふうん」


 千歳は別室で夜着から着物に着替える。葵も夜着から着物に着替えていた。


 豪勢な海鮮料理を食べてから千歳は身支度をする。鏡台に向かい、化粧をする。それを葵が見る。


「……化粧か?」

「はい、葵さまと出る際に不憫のないように」


 化粧を施したら、千歳はつげ櫛で髪を梳かす。母、咲江が使っていた形見の品だ。葵はふと見て、儚げな表情をする。


「もうそろそろ、歌舞伎座が開く」

「……楽しみです」


「……行こう」

「今日は久しく長雨だ。千歳。足元は大丈夫か?」


「はい。ご心配頂き、ありがとうございます」

「……千歳。許嫁なら気を遣わなくていい」

「ありがとうございます。嬉しいです」


 千歳と葵は近くの歌舞伎座へと到着した。千歳は男性と逢引したことはない。歌舞伎の幕が開く。見せてもらってる。歌舞伎は凄く嬉しいし、歌舞伎は楽しいな。仏頂面なまま嬉しそうな葵がとても綺麗だ。葵はこんな表情もするんだな。とても良い社会勉強になった。歌舞伎の幕はおりた。周りは恋仲の人ばかり。人混みのなかをはぐれてしまった。すると女学校時代の紗絵の友人の篠原しのはら八重やえがどこからともなく現れる。


「……千歳ちゃん。こんなところでお会いするなんて御奇遇ですね」


「……篠原さん?」


「あら、貴女、千歳ちゃんって言うの? 美人でお顔だけでも食っていけそう」


「……いいえ」


「この豊かな栗毛には意味はないわ。この髪はお手入れしてるわね? お綺麗な目も意味ありませんわ。この美しい白絹の肌は傷だらけになれば良いのにね。貴女の美貌に全ては意味はないわ。綺麗な髪を全て切り落とし、髪を売り、尼になれば良いのにね」


「……そんな」


 とても辛辣な人だ。


「葵さまは貴方のような単に御綺麗なだけの娘には興味があるはずないもの」


「……」


「貴女には待ち人やご多幸ありますわ」

 八重はネチネチ言ってくる。八重は拳を振り上げる。


「俺の許嫁を侮辱したか?」

「……あ、葵さま!?」


「千歳に拳を振り上げたか?」

「……千歳ちゃんの近くに虫が飛んでいたんです」


「大概にしなさい」

「篠原、俺はおまえを見ると吐き気がする。俺はおまえのような女が大嫌いだ。俺の許嫁に気安く近づくな」


「……承知しました。失礼します」

「……千歳。無事か?」


 苦しくて体が震えた。綺麗な肌も意味がない。尼になれ、髪を売れなど紗絵からよく言われた言葉だった。


「千歳!」


 葵が後ろから手を出してくれた手を思いっきり振り払ってしまった。手を振り払っても葵は千歳を抱き締める。


「……!」


 頭のなかは所詮私は髪を切られるんだでいっぱいだった。けれど、実際に髪を切られることはない。それは葵が全身全霊で守ってくれるからだ。いまはひとりではない。


「おまえの苦しみは俺には到底解らないと思う。だが、俺はおまえと分かり合いたい。おまえが好きな揚げ出し豆腐も俺が作ってやるから安心しなさい」

「葵さま……! ありがとうございます……」


 すると笠をかぶった紅の着物を着た男の人がこちらを見つめている。


「あ、その姿は坂田千歳ちゃん?」

「存じておりません」


「あんたは可愛い女だよ? 心無い親から身を売られたの?」

「……いいえ」

「あー? 千歳ちゃんはもしかして俺の事を気に入って歌舞伎座に来たの? でもあのクソ親父の歌舞伎を観に来るなんて変わった子だな」


 紅蓮はニタァと微笑んだ。葵が観衆をかき分ける。


「俺の許嫁になにをしている?」

「おまえ、許嫁? 俺にはそんな殺気立てなくても良いではないか? 好きな女を見つめて愛しているだけなのだから」


「この子……男との交際は出来なさそうだね。俺が男の味を教えてやろうか?」

「許嫁がいます!」


「……美人の若奥様との不貞を働くなんて俺にとっては魅力的だな。そっかぁ。千歳ちゃん。やっぱり、可愛いよ?」

「……へぇ、千歳ちゃんはすっごく可愛い唇してる」


「そっかぁ、俺は千歳ちゃんの愛好者だよ」

「この大うつけ者が!」

 葵が、紅蓮に拳骨を食らわした。地にのめり込んだ。紅蓮は再び起き上がる。

「止めて下さい!」

 千歳は嫌がる。


「あー! やっぱり千歳ちゃんから良い匂いがする! 体もふにゃふにゃで柔らかそう! 俺と奈落の果てまで不貞を働こう?」


「……やかましい奴だな。残念だが、俺は千歳ほど甘くはない。もし、また俺の許嫁に手を出すならその時は拳骨だけでは済まないが。おまえはそれで良いのか?」

「……千歳ちゃんがかわいくて」

「……阿呆にはこれくらいしないと気がすまないようだな」


 葵が紅蓮の身体をねじ伏せる。歌舞伎座の関係者が次々と駆けつける。黒髪の美青年は片側の口角を釣り上げる。紅蓮の行動を関係者は目に余るようだ。紅蓮は親父と思しき男から歌舞伎座に身体を放り出された。


「もう二度と我が歌舞伎座の名誉を汚すな! 俺はもうおまえを勘当したからな! 俺の名を使って良くないことをしていたようだな! この歌舞伎座を出ていけ! そして二度とこの地を踏むことは許さん!」

「親父ぃぃ! そんなに怒らなくてもいいじゃんよぉ!」


「なにが? お客様に不貞を働いたからだろう? もう俺とおまえは血の繋がりはあれど、赤の他人だ! 俺の歌舞伎座から出ていけ!」


 葵は千歳の手首を掴んで走り出す。そのすきに逃げる魂胆だ。相賀紅蓮は葵に先手を打たれる。


「……あっ、雪?」


「綺麗ですね、あっ、雨から雪に変わりましたね」


「これからもう季節は冬の入り口か。この街は雪が綺麗だ。この街に降る雪をおまえとみたくてな」


「藤堂様のところへ行こう?」

「藤堂さま?」

 と千歳は葵を見上げて、少し駆け足である。


「俺の父親の知り合いだ。俺だけが話すからお前は好きなところへ行っていなさい?」

 と葵が手を引いてそう言った。


「薔薇園がありますね」

 千歳は美しい薔薇を見ている。

 薔薇園はここの灯湯温泉と合体した施設らしい。


 藤堂との会話が千歳の耳にも入ってくる。


「おお。もしかして、その姿は葵くん?」

 と藤堂と思しき、人は言った。

「藤堂様? この度は私の父が生前お世話になりました」

 と葵は丁寧に礼を述べる。

「いいんですよ。お気遣いなく。お日頃のお疲れもあることでしょう? 遠方からわざわざ足を運んでくださり、ありがとうございます。灯湯温泉でゆっくりと身体を休めてください。そう言えば葵くんはご婚約したそうですね。貴方のような女嫌いがご結婚するとは。雅竜くんが生きていられたら大変お喜びになれたことでしょう」

 藤堂は嬉しそうな声だ。


「つまらないものですが、どうぞ」

 と葵はそう言い、なにかを渡している。

「ありがとうございます」

 と藤堂は丁寧に礼を述べる。


「ご相手の女性は?」

「薔薇園でゆっくりしています」

 藤堂は少し考えるようにして言葉を発する。


「そうですか。雅竜くんが亡くなられた際は葵くんもお気持ちが落ちましたものね。ゆっくり身体と心をお休めください。私事で大変恐縮ですが、近々、二人目の孫が生まれるんですよ」

 藤堂が声で喜んでいると解る。


「……お孫さんの誕生おめでとうございます」

 と葵は言った。


「良いんですよ。私も齢を取りましたし、雅竜くんが生きていらっしゃるときは黒川邸によく遊びに行ったものですから。葵くんは私の妻の舞子が亡くなったときに弔電を真っ先におくって下さりましたから。温かいお心遣いありがとうございます。ここでは気楽になさってください。所帯を持つということは家長になることですから、よりご自分を大切になさってください」

 と藤堂は礼儀正しい人だ。葵はこう切り返した。


「お心遣いありがとうございます。自分は人をまたせておりますので、ここまで失礼させていただきます」

 葵は足音もなく去る。

「こちらこそ、ありがとうございます。許嫁の方とお姉様、お母様にも宜しく言って下さい」

 藤堂は丁寧に言った。

 葵は気配すらしなかった。千歳はびっくりした。


「葵さま」

「千歳、どうした?」

 と葵は見たこともない笑みを浮かべる。千歳は嬉しそうに抱きついてくる。


「今日は日和がよく、シロツメクサのお花を摘んで花冠を編んだんです」

 千歳の手元には確かに花冠が作られていた。

「宜しい。お前に被せてやりたいな」

 と葵は答える。

 葵と千歳は薔薇の庭園のベンチに腰掛ける。千歳は花冠を被り、長い栗髪を片方に寄せ、編みおろしをしていた。


(俺がずっと小さい頃に千歳と出会っていたらどんなことをしたんだろう……?)


「藤堂さまとはお話しできましたか?」

 と千歳は言った。

「俺の父親のことをよく覚えてくれていて、近々、結婚する予定だと話した。次は姉と母親と会うのが、良いか? 藤堂様の方も近々、孫が生まれる予定らしい」

 と葵は千歳の頭をポンポンした。


「良かったです」

「……姉さんは気の良い話好きな性格だから話しかけやすいお前と気が合うかもな」

 葵は憂いを含めながら嬉しそうだ。

「うふふ」

「おまえ、完全に傷は癒えたか?」

 千歳は頬に手を当て恥ずかしがる。


「はい。葵さまのおかげですよ」

 と千歳は嬉しそうだ。


 庭園では薔薇の花が咲いていた。これからの二人を祝福するかのように。

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