第四話 生まれて初めて

「ねぇ、お父様」


 鈴を転がすような声をした。

 小鳥のさえずりがする朝露の庭園の中で少女は咲く花を見ていた。豊かな黒髪を揺らす、女性はお人形のような顔をしている。薄桃色の花模様の着物を身に纏っていた。


紗絵さえわしに話とは?」

「お嬢様。お茶が入りました」


 初老の男性が椅子に腰掛けた。


「ねえ、黒川銀行の若頭取わかとうどり。葵様はとっても綺麗な人だわ」

「坂田家のあの小娘、出しゃばりすぎなのよ、あの人はいらない。葵様の奥方は私の方が相応しいわ」


「わかった。儂にできることなら言ってくれ」

「……ええ」


 ◇◇◇


 千歳は待ち構えている。

 千歳は葵がお風呂あがりの濡れ髪のまま、洗面台の前に来て、お茶を飲み干す姿を見るのを楽しみにしていた。お風呂から出てきた。千歳は思う。これが見目麗しい我が許嫁を見るときの至福の一時なんだと。


 葵は濡れ髪を手ぬぐいで拭いて、お茶を飲み干した。最近の千歳の夜の楽しみである。葵の姿が消えて、葵は台所の方に行ったのかな、と思った。すると後ろから肩に手をポンと置かれる。


「こんなところで何をしている?」

 千歳は振り向くと、狼狽える。


「すっ、すみません!」

 千歳は葵にペコペコと謝る。


「……別に。俺に謝らなくて良いんだがな」

 葵は咳払いをし、表情で嫌ではないと表した。葵は言葉を続ける。


「お前。最近、ろくに眠れていないようだな。大丈夫か?」

 葵は微笑み、千歳を見遣る。葵は相変わらず仏頂面だ。


「あっ、大丈夫です、お気にならず……!」

 千歳はそう言う。なにかと気にかけてくれる、優しい人だ。


「本当か? 毎夜、悪夢にうなされているようだが違うか?」

 千歳は首を傾げ、答える。


「……そうですね」

 千歳は少し困った様子で答える。


「今朝は眼の下の隈がすごかったが、お前、本当に大丈夫なのか?」

 葵は間髪入れず、問うた。眠れないといえばたしかに眠れない。


「たしかに、そんなに眠れていなくて」

 首を傾げ、千歳はそう、呟く。


「そうか、今日から俺の部屋で眠れるか?」

 葵は問うた。千歳は嬉しいよりも先ず、恥ずかしさがこみ上げてくる。心臓が早鐘を打って、どくどくと鳴る。


「えっ……!」

 千歳は赤面した。頬に手を宛て恥ずかしがる。


(……え? 葵さまと寝床を一緒にする? わたし、とっても恥ずかしすぎるわ)


「一緒に眠れるのが嬉しそうだな。俺でなにを想像した?」

 葵の一言で一気に現実に引き戻されるが。千歳は未だに頬を赤らめる。


「少々想像しました」

 千歳は葵に正直に白状する。

 葵はいつもの無表情だが、たしかに嬉しそうだ。


「お前は乙女だな」

 葵は言い切ると眼の前のお茶を飲み干した。


 千歳の部屋に行き、葵が寝具を整えてくれた。夕暮れ時の頃、葵とお布団を並べることになる。千歳はお布団に包まって、寝静まる。葵が声を掛ける。


「……おやすみ」

 葵のつやのある声に、千歳はドキリとする。


(なんだか、恥ずかしいわ)

「おやすみなさい」

 千歳はそう返す。葵は隣に身体を横たえる。

 愛する人との睡眠は心地良い、けれど照れくさい。


(ね、眠れないわ……)

 寝返りを打ったりした。葵は起きてるようだ。


「……眠れないのか?」

 葵は上体を起こすと枕に肘をついて聞いてきた。


「……はい」

 今にも消え入りそうな声だ。


「縁側で一緒に茶でも飲もう、座りなさい」

「はっ、はい……」


 葵と隣に腰掛ける。

 葵が麦茶を淹れてくれて、一緒に飲んだ。

 葵の眼に千歳が映る。千歳は葵に頭を撫でられた。なんだか千歳はものすごく気恥ずかしい。葵は普段は見せない笑みを浮かべた。千歳は頬を朱く染め、目をウロウロさせている。


「葵さま、……あまり、わたしを子供扱いしないでください」

 千歳は少々ご立腹の表情だが、憎めない。葵に手玉に取られている。


「俺からしたら、お前は可愛い人だ」

 葵は首を傾げようとする。千歳は後退りをする。


「そうですか……」

 千歳は固く唇を結び、葵は笑みを浮かべる。

 遠くの空を見る、紺碧こんぺきの空ははかなく、あわい。頭を撫でる葵の手がゴツゴツと骨張っていて、男らしさを感じる。千歳は夜着のまま、葵に身を寄せる。葵の腕の中に千歳の華奢な身体はすっぽり収まる。数分間、頭を撫でられ、千歳はまんざら、悪い気もしないでも無い。


「もっとして欲しいか?」

「……はい」


 千歳は嫌でもなさそうな表情だ。

 葵は千歳を見ると、


「……素直だな」


 葵はそう独特の美声で囁いた。

 空には明けの明星みょうじょうが浮かんでいた。群青ぐんしょうの空になる。


「……葵さま」

「なんだ?」


「葵さまはわたしのような繊細せんさいすぎる女をなぜ娶りたいと思ったのでしょうか?」

「……別に。娶りたいのに理由は必要か?」

「ど、どうして……?」

「……お前を好きになったのは俺の勝手だったか?」


 千歳は上目遣いで葵を見上げる。


「そ、そんな事はありません、わたしは葵さまが……好きでしたから」

 葵は千歳を抱き寄せる。


「……こうしていなさい」


 葵に抱き締められる。数分も、うとうとしてしまう。


「ふえ……?」

 惚けた声が出る。


「……悪い。起こしたか?」

「……いえ」


「お前の髪が綺麗だ」

 葵は千歳の栗毛を触り、髪を撫でる。


「葵さま」

「……なんだ?」

「葵さまの髪の毛がくすぐったいです」


 葵は日中とは違って、組紐で結んでは居ない。


「まあ、そうだが」

 葵のツンツンとした濡羽ぬれば色の長髪がくすぐったい。


「……お前は美人だな」

 葵はしげしげと千歳の顔を眺める。


「な、な……? わたしは美人ではありませんし、葵さまの思うような理想の女ではありません」


「甘味処の客のなかでは、お前は美人だと言われていた」

「な、なら、……葵さまは? そのように綺麗な顔をなさっていたら、女性に慕われる事も交際したこともあったのでは……、ないでしょうか?」


 千歳は手首を壁に押しやられる。


「……まあ、女性と交際したことはあったが。なぜそんな事を聞く?」


「……な、な……」

「してほしいか? 俺のことをこんなに困らせたんだから」


「わたしは……な、なにをすれば、宜しいでしょうか?」

「なら、目をつむれ」


 千歳には全くその覚悟がない。

 千歳は目を瞑る。半ば接吻は葵に強引にさせられる。千歳は葵に後頭部に手を充てられる。


 千歳は思う。葵との接吻は心地よくて長い間、唇を重ねていた。千歳は慣れていなくて、息継ぎが出来ない。


「うぅん……」


 正直なことを言うと千歳にとって、葵は優しい兄のような人。それは変わらないものだと思っていた。葵に性的に見られることもあるのか、と思う。自分勝手に葵を思うのは良い。だが、葵とこうして過ごす事になるとは千歳は到底考えられない。


 思い合ってるはずなのに。


 今までの関係には戻れないのはなぜか悲しく思う。


「……あっ、葵さま」

「……なんだ?」


「葵さまはわたしとこうしていたいと思いましたか?」

「……まぁ、そうだが。男によこしまな心を持たないやつは居ない」

「そ、そうですか……」


「……もっとしたいか?」

「い、いいえ……!」


「……お前、耳朶みみたぶまで真っ赤だな。俺でなにを想像した?」


「な、なにも……」

「……お前は初心うぶでかわいいな」


「……葵さまはわたしのこと好きですか?」

「好きだ」


「わたしでよこしまな事を考えましたか?」

「考えた」


「葵さまは好色ですか?」

「……俺は好色こうしょく助平すうけいな男だ」


「……何度もその質問をしたが、お前からしたら俺は兄のような人か?」

「……はい! 葵さまは優しいお兄ちゃんみたいな人です……」


(……千歳は生娘きむすめだな。俺を旦那として見てない)


「葵さまは女性経験もありますか? なら夜も……? むぐっ!」


 葵に口を塞がれた。


「乙女がそんな事を言うのではない」

「す、すみません……!」


「そろそろ眠るか」

「葵さま、おやすみなさい」


「……おやすみ」


 夜が更ける。

 葵の顔が月明かりに照らされる。


 千歳は瞼は閉じた。

 千歳はすぅすぅと寝息を立てる。葵は千歳の唇に口づけをした。


(千歳、眠ってるか……。俺の口吸うは記憶にもないだろうな)


 横抱きにして、寝かせた。

 葵も寝静まる。すると寝言を言い始めていた。葵は横たえながら肩を震わせる。


「葵さま、美味しいカステラが食べたいです……。葵さまが大好きです……」


 まるで子どものような無邪気さを見せる。少々、葵も安堵して眠る。


 ◇◇◇



 障子の隙間から太陽の光が差した。千歳は瞼を開く。目が覚めた。千歳は昨日はとても恥ずかしかった。だが、葵とはもうそういう仲である。夜着から、着物へ、着替えた。葵はもう外出していたらしく、見送れなかったことを千歳はやむ。


(……なんだか。わたし、とても変だわ)


 千歳は頬をペチペチと軽く叩く。

 女学校時代は本を読んでいたりした。昔の本はないか、と探していた。ふと一冊の本を見つけた。確か、万葉まんようびだ。千歳は万葉びを読んでいた。


 自分はきっと、こんな事にうつつを抜かすとはどうかしている。千歳は葵のことしか考えられない。仕事に行っているのであろうか。すると、使用人の一人である、たちばな一花いちかが千歳に声をかけた。



「千歳様。昼餉のお時間でございます」

「はっ、はい!」


「千歳さまは可愛らしいお人ですね」

「……?」


「私も、葵様のことが好きなんです」

「……え?」


「千歳さま。葵様のどこがお好きになられたのですか?」


「お、お好きになられた……?」

「確か千歳さまは女学校では綺麗な栗毛がご評判でしたね」


「……一花ちゃん」

「千歳さまと葵様は、このまま行けば正式なご結婚されるのですよね?」


「葵様は見目麗しい人です。……葵さまは奥方となられる方がいらっしゃる」


「……い、一花ちゃん?」


「ですが、私、葵様のことを諦められません。千歳さま。私は葵様がずっと好きでした。葵様の縁談が次々と破談になったとき、私は心の中はニンマリと笑いましたよ」


「……い、一花ちゃん?」

「千歳さまは可愛らしいお人ですね。一度も抱かれたこともないのに。私は葵様に優しく抱かれました」


「……」


「千歳さま。私のような使用人になにも言い返せないんですか?」


「千歳さま。いま、さぞかしお辛いでしょうね? 可哀想。未来の葵様の奥方さまなのに?」


 千歳は葵の言葉を思い出す。



「……わたしは一花ちゃんの言ってることなんて信用できません。葵さまはそんな事をする人ではありません。わたしは金輪際何があろうと一花ちゃんのことより、葵さまのことを信じます」


「ふざけないでください。葵さまは私こそが」


「橘、こんなところでなにをしている?」


 背後に気配を感じる。

 千歳が振り向くと葵がなぜかここに立っていた。


「……あ、葵さま!」

「橘、さっき、千歳になんて言っていた? 俺に言ってみなさい」


「そ、それは……」

 一花は言葉に詰まる。

「俺はお前のようなやり込める女は嫌いだ。橘」


「……な、なにを仰って?」

「なにが?」

 葵は一花に畳み掛けるように言葉を続ける。

「千歳に浴びせたことをもう一回言ってみろと言ったんだ」

 一花はだんまりを決め込む。


「……言えないか? これからはもう来なくて良い。この屋敷に足を踏み入れることを禁じる」

 葵は冷たく言い放つ。

 一花に見せたのは、冷徹な表情だ。


 ◇◇◇


「ど、どうして?」

「ここがからくり屋敷だからだ」


 掛け軸を見ると人ひとり入れそうな隠し通路が仕掛けてあった。千歳はびっくりした。葵の表情は憂いを含んでいる。


「ここを作ったのは俺が仕掛け屋敷が好きだからだ」

 千歳の頭をぽんぽんとした。すると照れくさそうにはにかむ。


「……そうですか。うふふ」

 千歳は口元を隠して花のように笑う。


「……俺の父は忍びとか好きだったからな」

 葵はもの優しげな視線を千歳に投げかける。

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