第二話 再会

 青藍せいらんの空に雲がかかる。

 ぎなれた白露草しろつゆくさの香りが鼻につく千歳は高価な着物を身に纏い正座で三つ指をつき深々と頭を下げた。


 風鈴のがする。千歳たちが暮らす、もと国の夏は情緒じょうちょ的である。


「葵さま、一度お会いしたと思います。改めて、わたしは坂田千歳と申します」


「……お前が俺の許嫁か」

「はっ、はい……!」

「俺は黒川葵だ」


 黒川葵は見目麗みめうるわしい青年だ。

 背中まで伸ばした黒髪を首当たりで一つに無造作に束ねる。白く透き通った肌。長い睫毛に縁取られた目。切れ長の二重まぶた。形の良い薄い唇。長身痩躯ちょうしんそうくで、眉目秀麗びもくしゅうれいな青年。葵の噂は近隣の町にまで広まる。葵が、街を歩けばこぞって女性が振り返って見惚みほれるほどの美貌を持つ。そう、彼は日本人離れした美しさだ。街の噂話では葵はそもそも自分の容姿の話は好かないと聞かされていた。だが、どんな言葉をかければよいか解らぬままだ。そう、彼はとても美しい青年なのだ。


 葵が、眉をひそめる。チクリと刺す毒気に千歳は緊張する。葵の美しい容姿と豊かな財力では結婚相手などたくさんいただろう。けど、いままでの許嫁は全て破綻となっていた。彼も心の中に毒を持つ青年なのだろうか。そして、あの噂は本当なのだろうか。


 千歳は思う。否、そうに違いないだろう。葵はいままで許嫁がいたにも関わらず、誰とも結婚していない。ということは噂通りに彼は冷徹無慈悲な青年なのだろうか。


 彼と結婚しても幸せになどなれないのだろうか。考えるのはやめよう。


 この世の全てはお釈迦しゃか様の掌の上。自分ごときには解らぬと千歳は思った。


 葵は冷静沈着で寡黙な、男らしい性格の印象を受ける。


 千歳は黒川家の敷地をまたいだ。

 荷物はもう持ってきている。全て運搬された。千歳はビクリとする。両家の合意もあり、二人は許嫁だ。


 実父と養母の計らいもあり千歳はこれから葵の家で暮らしていけ、ということだろう。

 千歳は葵の言葉にビクリと戦慄せんりつする。


「ここでは俺の言うことは絶対に従え。いいか?」

「……!」

「俺が出ていけと言ったら出て行け」

「……!」


 千歳はきゅっと唇を固く結んだ。葵は続ける。


「俺の言うことを聞かなければえて死ね」


 千歳は葵の冷徹な言葉に身が縮こまる。

 良いという事なのだろうか。


「……おもてをあげろ」


 千歳が葵の顔を見上げると、葵は冷徹な眼だ。人を見下すとはこういうことだ、とそんな目つきだ。歓迎されていないのは百も承知。


「……お前、荷物はこれだけか?」

「はっ、はい!」


 なぜこんなに許嫁は冷たいのだろう。そう、葵は冷徹な人と噂されている。葵の真意のほどが読めない眼に戸惑いを隠せない。


 引っ越しの作業が終わり、千歳はおでこにひんやりとした汗をかいた。


「……お前」

「はっ、はい……!」


「お前の髪になにか付いてるが」

「え?」


「……花びらだな」

「そ、そうですか……」


 千歳はなれない暮らしを始めた。廊下で葵を呼び止める。


「あっ、葵さま」

「なんだ? 用があるなら手短に言え」

 そう言うと去っていた。千歳は呆然ぼうぜんと立ち尽くしたままだ。



 あさが来た。

 米を炊く匂いがする。千歳はおでこに手をやった。使用人が襖を開けてもよろしいでしょうかと尋ねる。大丈夫です、と答えた。葵と許嫁になって夜が明けた頃か。


「千歳さま、ご飯のお支度ができました」

 と使用人のたちばな一花いちかが声をかけてくれた。

 千歳は思う。昨日の葵の冷徹な瞳が怖い。あの眼は誰に向けられているものだろう。あんな目つきを見たことがない。


 朝は葵とご飯を食べた。

 葵は、ぱくつく。見ず知らずの男性と同じ家で暮らすのは緊張する。


「行ってくる」

「いってらっしゃいませ」


 葵が家を開けてるときはこうして、本を読んで過ごす。あとは雑誌を読んだりしていた。すると荘司そうじを産んで亡くなった母を思い出すと、目が潤んできた。母から形見でもらった匂い袋を抱き締めて泣き始める。


 ◇◇◇


 葵の屋敷は純和風の建物であり、建物は決して豪華絢爛で華美ではない。だが、良い雰囲気の屋敷だ。葵が甘味処の常連客のときは誠実な印象だった。だが、いまの葵は威圧的な印象で少し、怖い。だが、葵があの感じになるのはなにか事情があったのだろう。


 千歳はお塩を買いに街まで降りる。千歳は街中を一人で歩いている。ふと横目流しに見ると、葵の姿が見えた。葵の隣にはとても綺麗な女性がいた。葵はその女性と歩いていると、快活に笑う。千歳は悲しく思う。千歳に葵はあんな快活かいかつな笑みを浮かべることはない。千歳は胸に残るモヤモヤした気持ちを抱えながら、帰宅した。すると葵も帰ってきた。


「おかえりなさいませ。葵さま」


 千歳は出迎える。すると葵は千歳に顔を近づけた。少々千歳は気恥ずかしい。


「お前、ちゃんと昼食を摂ったのか? 顔色が蒼白だ」

「は、はい。ちゃんと摂りました」


「本当か?」

「は、はい!」


「葵さま。今日は夕餉ゆうげは如何致しましょうか?」

「ああ、お前の好きにしていい」


 屋敷の料理人が作ってくれた豪勢な鍋料理に千歳はびっくりした。鍋をつついている。食べ終わる。二人は同時にごちそうさま、と言う。声が重なる。千歳は首を傾げる。箸を置いて葵はこう尋ねた。


「明日は俺の仕事が休みだ。お前と出かけようと思う。どうだ?」

「はい……」


 葵にあのご婦人は、と。聞きたいところだが直接聞くのは野暮な話だろう。千歳は台所の料理人の方に丁寧にごちそうさまでした、と礼を述べた。茶の間を後にした。先に入れと言われていたから先にお風呂に入り、髪に椿の油を塗っていた。自分の髪は栗毛だ。女学校時代は栗毛とさんざん、からかわれた事を思い出す。部屋で、一人になる。葵を思うと、そのときの事を思うと、千歳は息が少し苦しくなる、廊下を歩き、千歳はそのまま、寝室に向かおうとする。


「千歳!」

 誰かが千歳の手首を掴んだ。千歳が振り向くと葵がいた。


「おまえ、顔色が悪いが」

 葵は冷たい表情のまま、そう言う。


「……だ、大丈夫です」

「……そうか」


 千歳には、愛がなにかも解らない。


「……葵さま。今日は疲れたでしょうから、ゆっくりおやすみになってください」

「ああ、おやすみ」


 葵はそう返答した。それ以上は葵は何も聞かなかった。千歳はそのまま寝室に行き、布団にくるまって横になる。


 眠ろうとしてもなかなか寝付けず、ふと視線を投げかけると母、咲江の形見のお守りが枕元に置いてあった。引っ越しのときから持ち込んだものだ。擦り切れて、ぼろぼろになっている。隠り世にいる咲江は見守ってくれるだろうか。枕を濡らし、お守りを抱き締めて眠った。




 お天道様が昇る頃、お米を炊く匂いがした。庭の方から、小鳥のさえずりが聞こえる。千歳の意識は、ぼんやりとした中、起きた。千歳はおでこに手をやった。千歳は顔にひんやりと汗をかいていた。千歳が女学校の頃を夢で見た。最近は夢見が悪い。けれども、されども、千歳は家が恋しい。そして、優しかった許嫁はなぜ、こんなにも冷たいのだろう。


 千歳はつらいときは片時も離さず、持っていた母の形見を抱き締め、涙する。千歳なりの克服方法である。


(……お母さん、会いたいよ)


 千歳は母、咲江から貰った御守りを抱きしめ、涙を流す。嗚咽おえつを漏らす。千歳は泣いてばかりではいけない。前を向かなければ、咲江の供養にもならない。そう、必死に自分に言い聞かせる。涙をこらえられる。涙を拭き、鏡台に向かう。


 身支度をする。千歳はたおやかな栗毛を櫛で梳かした。



 女学校の外でたまたま、八頭やず紗絵さえが千歳の髪を引っ張って、頬を蹴飛ばした。


『貴女みたいな女が幸せな結婚などできるわけがないじゃない。貴女にはなにもないくせに』

 紗絵はニタリと口の端を吊り上げる。その場で高笑いをした。


『……八頭さま、おやめください』

 千歳は狼狽えた。


『はぁ? この私に意見するつもり? 甚だ冗談ではないわ。私の言ってることに従いなさい。じゃないと貴女はここから出れるわけがないじゃない。ほら、泣きべそをかく。そんなもんなのよ。貴女の才能の無さがね。私に逆らわないで頂戴。私、貴女の言うことは絶対に認めないって決めてるの。貴女のような薄気味悪い髪色の女が幸せになんてなれないわ。ばっかみたい。せいぜい、幸せになりたかったら醜い匹夫ひっぷのところへ嫁ぐことね』

 紗絵は葵のような冷たい顔だった。

 思い出されるのはつらい思い出ばかり。幸せなんて来るはずない。紗絵の言う通りだ。


『あら? まるで坂田さんはいらしていなかったように見えたわ』


 紗絵はきびすを返して去っていった。

 千歳は入院して頬の手当をしてもらうことになる。


『一路の希望も全て消えゆく……!』


 千歳はお膳を蹴飛ばし、布団の上で枕を濡らす。嗚咽おえつを漏らした。外は雷鳴が轟き、車軸を流すような雨が降り始める。庭園は椿の花が咲き誇って、雨露うろに濡れて、きれいであった。


 それはいまもだ。

 千歳は咲江からもらったお守りを抱いて、呟いた。


「一路の希望も全て消えゆく……」

 思わずその言葉がいまも口からこぼれた。

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