第二話 再会

 青藍せいらんの空に雲がかかる。

 ぎなれた白露草しろつゆくさの香りが鼻につく、千歳は高価な着物を身に纏い、深々と頭を下げた。


「葵さま、一度お会いしたと思います。改めて、わたしは坂田千歳と申します」


「……お前が俺の許嫁か」

「はっ、はい……!」

「俺は黒川葵だ」


 黒川葵は見目麗みめうるわしい青年だ。

 髪はからす濡羽ぬれば色をしている。背中まで伸ばした黒髪を首当たりで無造作に束ねる。白く透き通った肌。長い睫毛に縁取られた目。切れ長の二重まぶた。形の良い薄い唇。長身痩躯ちょうしんそうくで、容姿端麗ようしたんれいな青年。


 葵は男らしい性格の印象を受ける。


 千歳は黒川家の敷地をまたいだ。

 荷物はもう持ってきている。全て運搬された。千歳はビクリとする。両家の合意もあり、二人は許嫁だ。


 実父と養父の計らいもあり千歳はこれから葵の家で暮らしていけ、ということだろう。

 千歳は葵の言葉にビクリと戦慄せんりつする。


「ここでは俺の言うことは絶対に従え。いいか?」


「俺が出ていけと言ったら出で行け」


 千歳は葵の冷徹な言葉に身が縮こまる。

 良いという事なのだろうか。


「……おもてをあげろ」


 千歳が葵の顔を見上げると、葵は冷徹な眼だ。人を見下すとはこういうことだ、とそんな目つきだ。


「……お前、荷物はこれだけか?」

「はっ、はい!」


 なぜこんなに許嫁は冷たいのだろう。そう、葵は冷徹な人と噂されている。葵の真意のほどが読めない眼に戸惑いを隠せない。


 引っ越しの作業が終わり、千歳はおでこにひんやりとした汗をかいた。


「……お前」

「はっ、はい……!」


「お前の髪になにか付いてるが」

「え?」


「……花びらだな」

「そ、そうですか……」


 千歳は慣れない暮らしを始めた。廊下で葵を呼び止める。


「あっ、葵さま」

「なんだ? 用があるなら手短に言え」

 そう言うと去っていた。千歳は呆然ぼうぜんと立ち尽くしたままだ。



 あさが来た。

 米を炊く匂いがする。千歳はおでこに手をやった。使用人が襖を開けてもよろしいでしょうかと尋ねる。大丈夫です、と答えた。葵と許嫁になって夜が明けた頃か。


「千歳さま、ご飯のお支度ができました」


 千歳は思う。昨日の葵の冷徹な瞳が怖い。あの眼は誰に向けられているものだろう。あんな目つきを見たことがない。


 朝は葵とご飯を食べた。

 葵はぱくつく。見ず知らずの男性と同じ家で暮らすのは緊張する。


「行ってくる」

「いってらっしゃいませ」


 葵が家を開けてるときはこうして、本を読んで過ごす。あとは雑誌を読んだりしていた。すると荘司そうじを産んで亡くなった母を思い出すと、目が潤んできた。母から形見でもらった匂い袋を抱き締めて泣き始める。


 ◇◇◇


 葵の屋敷は純和風の建物であり、建物は決して豪華絢爛で華美ではない。だが、良い雰囲気の屋敷だ。葵が甘味処の常連客のときは誠実な印象だった。だが、いまの葵は威圧的な印象で少し、怖い。だが、葵があの感じになるのはなにか事情があったのだろう。


 千歳はお塩を買いに街まで降りる。千歳は街中を一人で歩いている。ふと横目流しに見ると、葵の姿が見えた。葵の隣にはとても綺麗な女性がいた。葵はその女性と歩いていると、快活に笑う。千歳は悲しく思う。千歳に葵はあんな快活かいかつな笑みを浮かべることはない。千歳は胸に残るモヤモヤした気持ちを抱えながら、帰宅した。すると葵も帰ってきた。


「おかえりなさいませ。葵さま」


 千歳は出迎える。すると葵は千歳に顔を近づけた。少々千歳は気恥ずかしい。


「お前。ちゃんと昼食を摂ったのか? 顔色が蒼白だ」

「は、はい。ちゃんと摂りました」


「本当か?」

「は、はい!」


「葵さま。今日は夕餉ゆうげは如何致しましょうか?」

「ああ、お前の好きにしていい」


 屋敷の料理人が作ってくれた豪勢な鍋料理に千歳はびっくりした。鍋をつついている。食べ終わる。二人は同時にごちそうさま、と言う。声が重なる。千歳は首を傾げる。箸を置いて葵はこう尋ねた。


「明日は俺の仕事が休みだ。お前と出かけようと思う。どうだ?」

「はい……」


 葵にあのご婦人は、と。聞きたいところだが直接聞くのは野暮だろう。千歳は台所の料理人の方に丁寧にごちそうさまでした、と礼を述べた。茶の間を後にした。一人になる。息が少し荒いが、廊下を歩き、千歳はそのまま、寝室に向かおうとする。


「千歳!」

 誰かが千歳の手首を掴んだ。千歳が振り向くと葵がいた。


「お前、顔色が悪いが」

 葵は冷たい表情の儘そう言う。


「……だ、大丈夫です」

「……そうか」


 千歳には、愛がなにかも解らない。


「……葵さま。今日は疲れたでしょうからゆっくり、おやすみになってください」


「ああ、おやすみ」

 葵はそう返答した。それ以上は葵は何も聞かなかった。千歳はそのまま寝室に行き、布団にくるまって眠った。




 お天道様が昇る頃。お米を炊く匂いがした。千歳の意識は、ぼんやりとした中、起きた。千歳はおでこに手をやった。千歳は顔にひんやりと汗をかいていた。千歳が女学校の頃を夢で見た。最近は夢見が悪い。けれども、されども、千歳は家が恋しい。そして、優しかった許嫁はなぜ、こんなにも冷たいのだろう。


 千歳はつらいときは片時も離さず、持っていた母の形見を抱き締め、涙する。千歳なりの克服方法である。


(……お母さん。会いたいよ)


 千歳は母、咲江さきえから貰った御守りを抱きしめ、涙を流す。嗚咽おえつを漏らす。千歳は泣いてばかりではいけない。前を向かなければ、咲江の供養にもならない。そう、必死に自分に言い聞かせる。涙をこらえられる。涙を拭き、鏡台に向かう。


 身支度をする。千歳はたおやかな栗毛を櫛で梳かした。

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