きみがため
朝日屋祐
永遠の想い人
第一編 冷酷無慈悲な許嫁
第一話 甘味処の娘の朝
夏の蒸し暑さの中、お天道様の光が雲間から差す。この街は朝焼けとともに活気が溢れ、街は動き出す。
(あ、あの人だ。わたしには雲の上の人だ)
その人は甘味処の常連客で、背中まで伸ばした黒髪を首辺りで、無造作に一つに束ねる。陶器のような肌。切れ長の二重まぶた。長い睫毛に縁取られた眼。薄くて小さな形の良い唇。
(あの人がわたしのことを好きなら良いのに)
彼と結ばれる事を想像してしまう。
いかんいかんと千歳は頬を朱くし、片手を自身の頬に手を当てる。恥ずかしく思う。千歳は彼にお膳を運んだ。
「こちらが甘味でございます」
「ああ、礼を言う」
彼は低い独特の美声をしている。
千歳はお膳を下げた。やはり美形な人だ、と千歳は思う。
「……お父様?」
「千歳。お前に話がある。家に来なさい」
店の奥に居た父親が、千歳を呼びに来た。千歳はもしかしてと思った。
(婚約の話……?)
父親、
「千歳。お前には嫁いで貰う」
千歳は絶望した。いきなりこの話だ。千歳は好いた甘味処のお客様にも思い届かぬ人なのだろうか。相思相愛ではない、愛のない結婚生活だったら、悲しい。好きでもない人と結婚させられたら
「こ、婚約?」
と千歳は言った。
「そうだ」
と寅次郎は千歳の眼をしっかりと見据えてそう言った。
「千歳。お前には
千歳には、見知らぬ人物が思い浮かぶ。どんな人だろう。あの好いた殿方にも千歳の思いも届かないのか。千歳は黒川葵の容姿も中身も知らない。
「……で、でも」
千歳は
「千歳。お前に是非は問わん。これは黒川家と坂田家が決めた縁談だからだ」
と寅次郎は丸眼鏡の縁を光らせ、そう言った。千歳は寅次郎の言葉に従うしかないと悟った。
「……お、お父様」
千歳は考え込む。
黒川様と婚約となると、あの殿方とは結ばれない。千歳は悲しく思う。思いを告げて黒川様のところへ、嫁ぐしかない。
「……そうですか」
千歳は返答した。
千歳は寅次郎からの許嫁を聞き、あの殿方がまだ席にいらして、ホッと胸を撫でおろした。きなこ餅を食べていた。ここで突然話しかけ、告白するのは億劫だ。
「お客様!」
と千歳は声を掛ける。
「なんだ?」
と客人は言った。
「わたしは嫁ぐんです!」
と千歳は言った。
「……そうか。会えなくなるな」
と客人は独特の低い美声で言った。
「最後になると思います。お客様のお名前をお聞かせください」
「ああ、俺の名は黒川葵だ」
千歳は眼を瞬く。一瞬なにが、なんだかわからなくなった。
「く、黒川さま?」
「……何故、そのような
「わ、わかりました」
千歳は訳がわからない。まさか。嫁ぎ先が好いた甘味処の常連客だった。
日が暮れ、深い夕暮れときになる。
「あっ、その姿は
「あら? 千歳ちゃんじゃない!」
「佐由子ちゃん! わたし、嫁ぐことが決まったの! 黒川葵さまという方よ」
千歳は嬉しそうだ。佐由子は
「黒川葵様……? その方、
「えっ」
千歳は思わず素っ頓狂な声が出てしまった。
冷酷無慈悲? なぜそんな噂が? 葵は冷酷無慈悲なのだろうか。佐由子は情報通なため、どうやら噂は本当らしい。
「千歳ちゃん、気をつけたほうが良いわよ。黒川様は奥方様を小間使いにするのよ」
と佐由子のおかっぱの髪が風で揺れる。千歳の長い栗髪を揺らした。
「……そ、そんな」
「千歳ちゃんも
佐由子の忠告はいつも当たる。今回も当たるのだろうか。
夕暮れときの空は綺麗で、日本家屋と夏の入道雲が千歳の視界に映る。
佐由子は千歳に「そろそろ夕食の支度があるから」と言い、その場を足早に去っていった。千歳は佐由子の噂を思うとゴクリと生唾を飲む。夕暮れの風がそよぐ。千歳の心臓は早鐘を打つ。
「葵さまは冷酷無慈悲なの……?」
千歳はそう呟いた。
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