きみがため

朝日屋祐

第1話 甘味屋の娘の朝

 夏の蒸し暑さの中、お天道様の光が雲間から差す。この街は朝焼けとともに活気が溢れ、街は動き出す。坂田さかた千歳ちとせは甘味屋の娘。丁度、千歳は早朝に家業の手伝いをしていた。千歳には好きな人がいる。それは。


(あ、あの人だ。わたしには雲の上の人だ)


 その人は甘味屋の常連客で、ツンツンとしたからす濡羽ぬれば色の髪をしている。陶器のような肌。切れ長の二重まぶた。長い睫毛に縁取られた眼。薄い唇。青藤あおふじ色の長着ながぎこん色の羽織を着用し、下は黒色のはかまを着て、青年は腰掛けた。


(あの人がわたしのことを好きなら良いのに)


 彼と結ばれる事を想像してしまう。

 いかんいかんと千歳は頬を朱くし、片手を自身の頬に手を当てる。恥ずかしく思う。千歳は彼にお膳を運んだ。


「こちらが甘味でございます」

「ああ、礼を言う」


 彼は低い独特の美声をしている。

 千歳はお膳を下げた。やはり美形な人だ、と千歳は思う。


「……お父様?」

「千歳。お前に話がある。家に来なさい」


「千歳。お前には嫁いで貰う」


「こ、婚約?」

「そうだ」


「千歳。お前には許嫁いいなずけがいる。相手は黒川くろかわあおい様。著名な実業家だ」


 千歳には、見知らぬ人物が思い浮かぶ。どんな人だろう。あの好いた殿方にも千歳の思いも届かないのか。千歳は黒川葵の容姿も中身も知らない。


「……で、でも」

 千歳は狼狽うろたえた。


「千歳。お前に是非は問わん。これは黒川家と坂田家が決めた縁談だからだ」


「……お、お父様」

 黒川様と婚約となると、あの殿方とは結ばれない。千歳は悲しく思う。思いを告げて黒川様のところへ、嫁ぐしかない。


「……そうですか」

 千歳は返答した。



 千歳は寅次郎からの許嫁を聞き、あの殿方がまだ席にいらして、ホッと胸を撫でおろした。きなこ餅を食べていた。ここで突然話しかけ、告白するのは億劫だ。


「お客様!」

「なんだ?」


「わたしは嫁ぐんです!」

「……そうか。会えなくなるな」


「最後になると思います。お客様のお名前をお聞かせください」


「ああ、俺の名は黒川葵だ」

 千歳は眼を瞬く。一瞬なにが、なんだかわからなくなった。


「く、黒川さま?」

「……何故、そのようなおもてをなさる?」


「わ、わかりました」


 千歳は訳がわからない。まさか。嫁ぎ先が好いた甘味屋の常連客だった。

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