きみがため

朝日屋祐

永遠の想い人

第一編 冷酷無慈悲な許嫁

第一話 甘味処の娘の朝

 夏の蒸し暑さの中、お天道様の光が雲間から差す。この街は朝焼けとともに活気が溢れ、街は動き出す。坂田さかた千歳ちとせ甘味処あまみどころの娘。丁度、千歳は早朝に家業の手伝いをしていた。千歳には好きな人がいる。それは。


(あ、あの人だ。わたしには雲の上の人だ)


 その人は甘味処の常連客で、背中まで伸ばした黒髪を首辺りで、無造作に一つに束ねる。陶器のような肌。切れ長の二重まぶた。長い睫毛に縁取られた眼。美しい人形のような輪郭。薄くて小さな形の良い唇。冷静れいせい沈着ちんちゃく寡黙かもくな、絶世の美貌を持つ青年だ。白い長襦袢ながじゅばんに、薄群青うすぐんじょう色の羽織を着用し、中はこん色の着物を着て、青年は外の長椅子に腰掛けた。友人を連れて来る事もあるようだが、今回は独りだ。


 丁度、今日は狐の嫁入りのあとで、晴れた空模様と殿方の頬はより一層きれいに照らされる。


(あの人がわたしのことを好きなら良いのに)


 彼と結ばれる事を想像してしまう。

 いかんいかんと千歳は頬を朱くし、片手を自身の頬に手を当てる。恥ずかしく思う。千歳は彼にお膳を運んだ。


「こちらが甘味でございます」

「ああ、礼を言う」


 彼は低い独特の美声をしている。

 千歳はお膳を下げた。やはり美形な人だ、と千歳は思う。


「……お父様?」

「千歳。お前に話がある。家に来なさい」

 店の奥に居た父親が、千歳を呼びに来た。千歳はもしかしてと思った。


(婚約の話……?)

 父親、寅次郎とらじろうは店の奥に千歳を呼んだ。奥には厨房があり、そこには弟の荘司そうじがいた。昔はもう少し古そうな寂れた甘味処だったが、西洋風な椅子とテーブルが置かれてあり、如何にも流行りの内装である。そういえば最近は甘味処はなみつは内装も外装もがきれいに整えられ、前よりお客も増え、繁盛している。千歳は寅次郎のほうを見遣った。


「千歳、お前には嫁いで貰う」

 寅次郎は冷静そうだ。

 千歳は絶望した。いきなりこの話だ。千歳は好いた甘味処のお客様にも思い届かぬ人なのだろうか。相思相愛ではない、愛のない結婚生活だったら、悲しい。好きでもない人と結婚させられたら悲哀ひあいの人生となってしまうから。


「こ、婚約?」

 と千歳は言った。


「そうだ」

 と寅次郎は千歳の眼をしっかりと見据えてそう言った。


「千歳。お前には許嫁いいなずけがいる。相手は黒川くろかわあおい様。著名なやり手実業家だ」

 寅次郎は告げる。


「……わたしに許嫁?」

 千歳は驚いた。許嫁を勝手に決められては困る。けれど、その相手は今もときめく若手実業家なのか。


「そのとおりだ。千歳。その黒川様は銀行の若頭取わかとうどりでな。お前を許嫁とする代わりに甘味処はなみつを傘下さんかに入れ、事業を引き継いでくれたんだぞ。そのおかげで我が家は再び繁盛した」

 千歳を許嫁とする代わりに事業を引き継ぎ繁盛させた。

 そして甘味処はなみつを再び繁盛させてくれた恩人? 千歳は黒川さまに感謝を述べたい気持ちも山々あるが。なぜ? 千歳に? そんなやり手実業家の方が許嫁にいるのだろうか。


 そして、親同士が決めた許嫁。


 千歳には、見知らぬ人物が思い浮かぶ。どんな人だろう。あの好いた殿方にも千歳の思いも届かないのか。千歳は黒川葵の容姿も中身も知らない。


「……で、でも」

 千歳は狼狽うろたえた。


「千歳。お前に是非は問わん。これは黒川家と坂田家が決めた縁談だからだ」

 と寅次郎は丸眼鏡の縁を光らせ、そう言った。千歳は寅次郎の言葉に従うしかないと悟った。


「……お、お父様」

 千歳は考え込む。

 黒川様と婚約となると、あの殿方とは結ばれない。千歳は悲しく思う。思いを告げて黒川様のところへ、嫁ぐしかない。


「……そうですか」

 千歳は返答した。



 千歳は寅次郎からの許嫁を聞き、あの殿方がまだ席にいらして、ホッと胸を撫でおろした。きなこ餅を食べていた。ここで突然話しかけ、告白するのは億劫だ。


「お客様!」

 と千歳は声を掛ける。

「なんだ?」

 と客人は言った。


「わたしは嫁ぐんです!」

 と千歳は言った。

「……そうか。会えなくなるな」

 と客人は独特の低い美声だ。


「最後になると思います。お客様のお名前をお聞かせください」


「ああ、俺の名は黒川葵だ」

 千歳は眼を瞬く。一瞬なにが、なんだかわからなくなった。


「く、黒川さま?」

「……何故、そのようなおもてをなさる?」


「わ、わかりました」


 千歳は訳がわからない。まさか。嫁ぎ先が好いた甘味処の常連客だった。



 日が暮れ、深い夕暮れときになる。


「あっ、その姿は佐由子さゆこちゃん?」

「あら? 千歳ちゃんじゃない!」

 倉城くらしろ佐由子は千歳の女学校時代の友人でもう結婚している。佐由子は珊瑚さんご色の着物を着ていて、近所の子供たちのお世話をしている。千歳は佐由子に声を掛ける。


「佐由子ちゃん! わたし、嫁ぐことが決まったの! 黒川葵さまという方よ」

 千歳は嬉しそうだ。佐由子は観念かんねんをする。

「黒川葵様……? その方、冷徹れいこく無慈悲むじひと言われてるのよね」

「えっ」

 千歳は思わず素っ頓狂な声が出てしまった。

 冷酷無慈悲? なぜそんな噂が? 葵は冷酷無慈悲なのだろうか。佐由子は情報通なため、どうやら噂は本当らしい。


「千歳ちゃん、気をつけたほうが良いわよ。黒川様の家柄は格上だけど、相当な女嫌いで有名な人物ね」

 と佐由子のおかっぱの髪が風で揺れる。千歳の長い栗髪を揺らした。


「……そ、そんな」

「千歳ちゃんも來村らいむらさんにはくれぐれも気をつけてね。そして黒川様にも」

 佐由子の忠告はいつも当たる。今回も当たるのだろうか。

 夕暮れときの空は綺麗で、日本家屋と夏の入道雲が千歳の視界に映る。


 佐由子は千歳に「そろそろ夕食の支度があるから」と言い、その場を足早に去っていった。千歳は佐由子の噂を思うとゴクリと生唾を飲む。夕暮れの風がそよぐ。千歳の心臓は早鐘を打つ。


「葵さまは冷酷無慈悲なの……?」

 千歳はそう呟いた。

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