第4話
昼食後。
御子柴らの乗る車はH社に向かった。
H社は、S市に広大な面積を所有している大企業である。
通用門がいくつかあり、守衛に道案内してもらって開発部のあるB棟にたどり着いた。
「さすがH社。広いね」
誰に言うともなく聖名がそのままの感想をつぶやく。左右をそれとなく見渡している。
「迷子になるなよ」
「あ。子供扱いだ」
「子供だからな」
それを聞いてむっとしたのか、星名が急に御子柴のもとに近づいてきて、耳に口を寄せてきた。
「あたし、意外に脱ぐと大人なんだよ」
御子柴は軽くむせたが、それを聞いていないふりでささやかな抵抗の意思として、早足で進んだ。
星名が追いかけてくるが、振り向かなかった。
H社の研究室は細部に分かれてはいたが、横関茂雄のオフィスは案内通りに進んで到達した。
二十畳くらいはあるだろうか、主人を失ったオフィスはまだ片付けがされておらず、横関が最後に退勤した状態を維持していた。
「ここだけ見ると、これから出勤してきそうだよね」
星名がつぶやく。
遺族である真由の要請を受けて、H社もあと1週間はこの状態を保持することを約束している。
横関が中心となって進めていたプロジェクトは、彼の死によって頓挫しており、オフィスがそのままだろうと片付けられようと、大した差はないと思われた。
オフィスが保全されているということは、横関夫人である真由以外による横関茂雄所有物の持ち出しは禁じられている。退出時には持ち物検査が行われる予定だ。
写真撮影は許可されているので、星名はあまり関係なさそうなものまで撮影していく。
今日は空調のある場所ばかり回る予定だからか、少しメイクをして髪を下ろしていた。あるいは、自身を大人に見せる演出かもしれない。
「この人が真由さん?綺麗な人ね」
夫婦で撮影したのだろう写真が入ったフォトフレームを指差して、星名が聞いてくる。
御子柴は首肯のみで返答とし、白手袋を着用して引き出しなどを開けていく。
引き出しの中には、文房具や機密性のない資料ファイルが入っていた。
机上のデスクトップPCは、機密性の高い資料が入っているので閲覧は許可されていない。
PCを見ることができたからといって、何か事件性につながるものがすぐに見つかるものでもないだろう。
横関の関わっていたプロジェクトは、新車開発。
新しい薬でもなければ、画期的なコンピュータソフトウェアでもない。誰から狙われるようなものでもないのだ。ライバル企業なら話は別だが、それにしても、ヘッドハントこそすれ、心筋梗塞に見せかけて殺害するものではない。
殺害。
横関夫人の真由が主張する通りの事態であれば、立派な殺人事件だ。
しかし、物証がない。
根拠も動機もないし、誰が実行したのかも謎だ。
人を殺害するほどのことをする場合、利益を得るためや快楽を得るためなどの動機がそこには存在する。
それらの意思といえばわかりやすいだろうか。とにかく気配が感じられないのだ。
御子柴は思わず応接用のソファに腰掛けて熟考したくなったが、この部屋に滞在できる時間は限られている。それに、アポイントもあるのだ。そちらがメインと言ってもいい。
「星名、ある程度でいいよ。移動する」
星名はうなずき、御子柴に近寄ってくる。行動が早い。
オフィスを出た。ドアを閉める。後ほど守衛が来て、施錠することになっている。
次のオフィスに向かった。
「横関が殺される、か」
ビークルコントロール研究主任、笹崎誠一郎は、御子柴と星名の自己紹介後につぶやいた。
「考えられませんね」
笹崎は36歳。研究主任としては若い部類に入る。身長は180cmほどの長身だったが、痩身だ。食べても太らない体質なのだろう。顔はメガネで目立たないが青白く、頬はこけて目の下にはくまができていた。
研究者という肩書きから白衣を想像しがちだが、H社のロゴが胸に入った普通の作業着姿である。
御子柴は自己紹介時に、フリーランスのライターだとは言っていない。
もう一つの肩書の、保険の調査員ということにしてある。
調査員であれば、その被保険者の死亡が病によるものか自然死か、あるいは他殺の可能性があるのかを調べてもおかしくはないからだ。
笹崎の方も、さえない中年の御子柴より若くて美人の星名の方に興味があるらしく、御子柴よりも星名の方に視線を配りつつビークルコントロールの簡単な説明をした。
ビークルコントロール。
自動運転の一研究部門である。
本来ならオートコントロールとでも言うべきなのだろうが、将来的な自動運転のみならず、現行の手動運転も快適にするための研究だとして、自動車という意味のビークルを使っているとのことだ。
星名はふむふむと聞きながら、熱心にメモを取っていた。
横関とは先輩後輩の中で、横関家にもお邪魔したことが何度かあり、真由夫人とも面識があるそうだ。ビークルコントロールという一部門ではあるが、説明のためにモーターショーにも出席している。
横関の交友関係を聞いても、社内の同期など数人が上がる程度。めぼしい情報はなかった。
調査の時間は20分という約束だったので、多忙な中で時間を割いてもらったことへの謝辞を述べて、星名をうながして退出することにした。
笹崎の方は、退出するまで星名の顔や体にもさりげなく視線を回していた。御子柴はそれに気づいていたが、あからさまではなかったし星名の顔色も変わらなかったが、何か質問事項が見つかればすぐに伺える約束を取り付けてすぐにその場を離れた。
「やな感じ」
助手席の星名がつぶやく。
「男の視線なんて、受け慣れてるだろう」
そう言う御子柴を星名が見て反論する。
「ただ見てるだけじゃなかったよ。何か勝手に妄想してるような目線だった」
「美人はつらいねえ」
と言うと。
「ねえねえ」
星名が顔をのぞき込んできた。
「ん?」
「あたし、美人なの?」
唐突に、しかも具体的に聞いてくるとは思わず、御子柴も少し戸惑う。
「美人。うーん。かわいい、方かな。美人はもう少し先の話か」
御子柴は斜め上を見上げ、周囲を見ているフリをする。
余計なことを言った気がしたが、もう遅い。
「なーんだ。あたしがもっと美人だったら女性の依頼なんて受けさせないのに」
「それは論点が違うな」
御子柴はバックミラーなどをちらちら見た。運転に集中しているように見せた。
「何が違うの」
今度は御子柴の視界に自分がしっかり入るように、体を寄せてくる。
「依頼者に容姿は関係ないってことだよ」
視界には入っているが、目は合わせない。
星名は聡明な子だ。御子柴の表情一つで本当か嘘かを的確に見抜く。頭の回転が早いのだ。細心の注意を払って答えないと、この後に影響する。
「ところで」
「何よ」
すでに機嫌が傾きかけているが、気にせず言葉を続ける。
「何をメモしてたんだ?」
「ああ。さっきの変態主任がつけてた腕時計が高級品だとか、実際に機械をいじらない仕事なのに、爪先が黒かったとか、そんなの」
「ビークル何とかのメモじゃなかったんだな」
「当たり前でしょ。あたし機械苦手なんだよ」
「感心したよ」
「え」
機嫌がどんどん傾いて、絶賛不機嫌中になりかけていた表情が素に戻った。
「詰問する相手の言葉全てに耳を傾ける必要はない。だから、星名には口を開かないでいいと言ったんだ。俺が注意を払えない時に、見えない部分を君が見てほしい」
先ほどまでの不機嫌な勢いはどこへ。
というほど、星名は笑顔を抑えるのに必死なようだった。
「ミコさん」
「何」
「ありがと。あたし、がんばる」
「お。おう。がんばってくれ」
御子柴も少し力が抜けた。女性は不機嫌になると危ないのだ。その原因を作ったことしか考えられなくなり、こちらが何を言おうが聞く耳を持ってくれない。
ようやくその状況は好転し、御子柴はピンチを脱した。ように見えた。
「でもね、ミコさん」
星名が続けた。
「依頼者の美人には、2人きりでは会わせませんからね」
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