第5話「99式自動貨車」(戦時の改修・量産体制の確立)

 17年に大日本帝国陸軍が比島作戦にてバンタムMk II (BRC-60) を鹵獲、内地に持ち帰る。


「なるほど、こんな方法があったか」


 分析を任されたトヨタ自動車の開発グループは、用途がほぼ同じBRC-60と99式の比較だからこそ理解できる様々な工夫(量産、車体強度保持、補修・修理など)に目を輝かせた。


「同じようなところで苦労してるな」


名も知らぬ開発者に親近感を持ったようである。

 本来、豊田自動車(戦前なのでこの名称)の自動車開発は、すべて日本国産にこだわりを見せていたが、実際にはフォード(シャーシ)やGMエンジンの良いとこ取りのデッドコピーとも言えるものであり、工員の人件費の低さからの車両価格を低く抑えることでシェアーを広げているに過ぎなかった。ちなみに、そのころのフォードトラックが5000円する中、豊田自動車のトラックは3500円程度。しかも、フォードやGMの広く普及している部品が使える利点を生かしていた。

 そのように、アメリカの強さを知っているつもりであった開発陣も、アメリカン・バンダムなどという日本では無名の会社(当時経営不振に喘いでおり、延命手段を必要としていたためにアメリカ陸軍の車のトライアルに参加した)でさえ、これだけの工夫・開発ができる現実に、アメリカの自動車工業力に驚愕するしかなかった。


 陸軍は鹵獲したBRC-60の量産性・汎用性に富むデザインに着目し、トヨタ自動車に99式の改修を命じた。

 これまでの甲型・乙型は、初期通達の安価な車を目指し、豊田自動車としてもかなり工夫を凝らしていたが、BRC-60を手本として設計を最初から見直して量産性を高め、叩き出しの丸いフェンダーなどを直線的なプレス加工のものに変更したり、ボンネットを大型に変更し、鋼板打ち抜きプレスを多用し、各所を溶接で接合したり、ネジ・ボルトをできるだけ統一したり、戦時の代用品利用のために荷台を木製主体のものに変更したりと、様々な変更を行った。また、トヨタ自動車が進めていた鋳造部品を多用するきっかけともなった。

 外観はかなり変更されたが、形式名は同一のものが使われていた。なお、戦時型の車は乱造的な視線が向けられるが、強度的には申し分なく、戦後民間に放出された車が修理しつつ昭和30年台後半でも地方を中心にかなりの台数使われていた。


 設計自体は1ヶ月で終わったものの、工場内の変更、ジグの変更には3ヶ月を要した。変更に伴い、月産数は一時減少したが、その後の月産数の増加(生産数の安定というべきか)には、トヨタ自動車に批判的な目を向けていた者たちを黙らせるきっかけとなった。


 トヨタ自動車の開発陣から、戦後に流れたエピソードであるが、


「外見が米軍車ジープに似すぎではなかろうか」


という意見が出された。一体、誰が、どの立場で言ったのかは定かにされてないが、


「戦地での敵味方の誤認を防ぐため」


などという正論めいた(今考えてみても難癖に近い)理由から豊田自動車の開発陣は黙ってしまった。

 これに対し、ある輜重科の佐官が(これも今となっては誰かは分かっていない)


「どのトラックも、米軍のものとよく似ているが」

「戦地での敵味方識別のためである」

「では貴官は、兵站を支える輜重は戦地に赴いていないとおっしゃるのですね?輜重兵は戦場である前線に出るなと…」


これには先の意見を述べた者も黙ってしまう。


「フォードやGMのトラックは、日米ともに使っている。今さら似ている似ていないを問題とすること自体おこがましい。万一、この変更を受け入れない場合、量産が数ヶ月遅れることもあり得る。トヨタ自動車を信じて、まずは、必要な機材を必要な戦場に送ることが先決ではなかろうか」


以来、トヨタ自動車への横槍は減少したと言われる。


 また、BRC-60のデザインをベースに「丙型」と呼ばれる量産タイプを開発した。戦後に「ジャパンジープ」「Jジープ」と呼ばれたものである。

 戦後、アメリカの車関係の雑誌で


「日本は、アメリカのジープのコピーを作った」


という記事がしばしば掲載されたが、事実はこれまで述べたような既存品の改良・改造であり、4輪駆動の戦場用軽車両は九五式小型乗用車(くろがね四起)の方が先であり、その土台は間違いなく日本独自のものであった。(用途が似たものは、似たものになるのは特に兵器開発の場合にしばしば見られる)

 運転席と荷台の境を取り払った二人乗りのピックアップトラックのタイプで、必要なら後部座席をつけたり、乙型のように機関銃筒をつけたりと、用途に応じた自由度が多いものであった。甲型が輜重科中心、乙型が歩兵科中心に配備されることが多かったが、この丙型は荷台が低いこともあり、重量物を載せがちな工兵科や整備科、砲兵科などに好評であった。先に述べたように、この車に対しては部隊内での改造が自由にできたので、装備や機械などを荷台に溶接やボルトで固定して作業に向かう姿も見られた。また、視界が荷台によって遮られることがなく、機関銃筒も取り回しが楽になったと輜重科・歩兵科からも配備要求が多く出された。


 18年から丙型とともに改修された甲・乙型が量産されたが、これらの量産を支えていた熟練工が16年頃より「赤紙」で招聘され、次第に工員の数に陰りを見せ、素人同然の工員を増やす必要が出てきた。トヨタ自動車の社員だけでなく子会社や下請けの工場でも招聘兵が多くなり、地元の中学校などからも勤労動員の対象となったことは言うまでもない。そのため、熟練工には熟練工が必要な箇所を任せ、素人でもできる箇所は工作機械を用意しての単純作業になるように工程を再設計した。(ちなみに、新たに募集された大量の婦人工員のため、保育園や朝昼晩の食事・惣菜を用意する食堂、また食材がとりあえず揃ういわゆるスーパーマーケットが設置された)

 トヨタの「ジャスト・イン・タイム」の考えはすでにこの頃より提唱されており、それを支える子会社や下請けにも同じ考えを求めた。


「必要なものを、必要な時に、必要な量だけ生産する」


 しかも、車の信頼性を高めるためには、部品一つ一つが高品質であることを望まれていた。トヨタのいわゆる『下請けいじめ』はこの品質の向上こそが原点かもしれない。トヨタとしても単に要求するだけではなく、「協力会」(後に「協豊会」に改めた)を設け、原材料の質・量を確保したり、工作機械を融通したり、必要であれば指導工員を派遣し、国内外の情報やトヨタ自身が行っている研究成果(例えば焼入れひずみなどの研究)を公開するなどの優遇措置を行った。

こ うして、国内自動車メーカーとしては18年後半から19年、トップクラスの生産量を維持しながら、品質の向上を目指したのである。

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