後日談 隣にいてくれるあなたへ:結
今や、彼の中には疑問が渦巻いているはずです。
ルリカ様が自分を愛していたならば、どうして解けない呪いなどかけたのか。
私もそうでした。
私も、あの日記を読み進めていくうちに同じ疑問にぶつかりました。
そして、その先に書かれていた答えを知って呆然となりました。
それが記されている運命の日付は、ラングリフ様の誕生日のわずか三日前。
日記帳の最終ページの、一つ前です。
「……何だ、急に字が乱れている?」
ラングリフ様の呟きが、私の耳に届きました。
ああ、ついに辿り着かれたのですね。全ての真実が記されている、その日付に。
「『アンジェリカ様が私の屋敷にやってきた。頼みごとがあるのだという』」
「……リリエッタ?」
私は、そこに書かれている内容を語り始めます。
彼の痛みを少しでも共有したい。そんな浅ましさが、私にそれをさせました。
「『最悪の頼みごとをされた。私の子供を、死産ということにして殺してほしいというのだ。そんなこと、できるはずがない。もうすぐ生まれてくるのに!』」
「ア、アンジェリカ様が……?」
ラングリフ様の表情は、凍りついていきます。私は、続けました。
「『先週、神官様に診てもらった結果、私の子供が男児であることがわかった。アンジェリカ様が私の子供の死を願ったのはそれが理由だった。サミュエル様以外に男児が生まれれば国が割れるかもしれないというのだ。そんなことはさせないと何度も説得した。でも、ダメだった』」
「……そんな」
虚ろな呟きをもらす彼の瞳は、何も映していませんでした。
私は、続けます。
「『陛下が王太子を定めても、法の上で約束しても、アンジェリカ様はどうしても不安を拭うことができないのだという。彼女の中の疑心暗鬼は、もはや彼女自身でもどうにもできないくらいに膨れ上がっていた。だけど、だけど……!』」
「…………」
もう、ラングリフ様は言葉もないようでした。
石となったかのような彼の姿を逃げずに直視しながら、私は、さらに続けます。
「『逃げることも考えた、よそに養子に出すことも考えた。でも、きっとダメ。今のアンジェリカ様は、どんなことをしてもこの子を殺そうとするだろう。もう、方法は一つしかなかった。この子を、王になれない状況に追いやるしか……』」
語りながら、私は息苦しさに死にそうになっていました。
ルリカ様が感じられていた痛みが、私の魂を切り刻んでいくかのようでした。
「『ごめんなさい、弱い母親でごめんなさい。私はあなたから笑顔を奪う。私はあなたに茨の道を進ませることになる。本当にごめんなさい。それでも私は、あなたに死んでほしくないの。あなたに生きていてほしいの。ごめんね――』」
「……もう、いい」
かすれた声で、喘ぐようにして、ラングリフ様はそう言いました。
私は語るのをやめて、改めて彼の方を向きます。
「ラングリフ様……」
そのお顔にあるのは一切の無で、瞳は塗り潰されたかのように光がありません。
でも、よく見れば唇が震えておられます。目じりも。
ラングリフ様は、このような状況でも自らに我慢を強いているのです。
「こんなひどい話があるか、リリエッタ?」
彼の声は震えていませんでした。ただ、とても硬かったのです。
「俺はずっと、母を恨んできた。俺を呪ったあの女を恨んで、憎んで、そして諦めていた。アンジェリカ様こそが俺の母なのだと、思い込もうとしてきたんだ」
「はい」
「だというのに、これが真実だと? 俺がこれまで信じてきたものと、まるっきり真逆じゃないか。こんなものを知らされて、俺にどうしろというんだ!」
吐き捨てるかのような、ラングリフ様の叫びでした。それは、悲鳴でした。
ついに身を震わせ出した彼に、私も胸が張り裂けるかのようです。
「なぁ、リリエッタ。俺は、誰を恨めばいいのだろうな? 誰を信じればいいのだろうな? 母ルリカもアンジェリカ様も、もう、この世にはいないんだ」
ラングリフ様は、途方に暮れて片手で頭を抱えました。
二人の母親を失って、彼には恨み言を言える相手もいない。何て、辛い……。
「陛下は……」
「知らなかったのだろう。俺が生まれた時期、父上は隣国との関係が悪化していて、開戦を回避するために近隣諸国を走り回っていたからな。アンジェリカ様と母が隠していたなら、それこそ知りようがない」
ラングリフ様のお話はおそらく正しく、少しだけ異なっている気がしました。
陛下は、事実を知らずとも半ば推測できていたのではないかと思います。
礼拝堂であの方が私に言いかけた『推察』は、これについてだったのでしょう。
陛下がそれを明るみに出さなかった理由は、私にはわかりませんでした。
「まだ、ルリカ様のことをお恨みですか?」
「我ながら度し難いが、な。知識としてそれを知っても、急に自分を変えることはできなさそうだ。感情とは、こんなにも御することが難しいものだったのか……」
そう答えるラングリフ様の瞳は、何も映さないままです。
その必要もないのに、彼は必死に自分の感情の手綱をとろうとしています。
「泣いても、よろしいのですよ?」
「それだけはできない」
ついには声まで震わせて、それでもかぶりを振る、ラングリフ様。
「俺は君の夫だ。君にとって、最も頼れる存在でありたいと願っている男だ。俺から君に頼ることはしても、みっともないところだけは見せたくないんだ」
本当は泣き叫びたいでしょうに、この人はそうやって私の前で強がるのです。
そのお姿を、私はどうしようもなくいとおしく感じてしまいます。
ああ、やっぱり私は、この人が好きです。
好きで、好きで、狂おしいほどにいとしくて、だからどうしても欲しいのです。
「ラングリフ様」
日記帳を手に立ち尽くしている彼へと、私は手を伸ばします。
両手で強張る彼の頬をそっと触れて、間近に彼の瞳を見据えて、告げました。
「私は、あなたの笑顔が欲しいです」
「リリエッタ……?」
理解できずにいるラングリフ様へと顔を近づけて、私は彼の唇を奪いました。
熱を持ったラングリフ様の唇は少し固くて、でもとても熱くて……。
私の内にあるこの人への想いの熱を、唇を介して彼へと注ぎ込みます。
一秒が過ぎ、五秒、十秒、私達は互いに動かず、唇を触れ合わせていました。
「…………ッ、は」
かすかな息苦しさに唇を離すと、そこに見えたのは目を丸くしている彼。
その表情がおかしくて、私は微笑んでしまいました。
「フフ……」
あ、これ思ったより照れ臭いです。自然と笑ってごまかしに入っています、私!
「リ、リリエッタ……。いきなり、何を……」
「申し訳ありません、ラングリフ様」
指先で自分の唇に触れて、私はラングリフ様に理由を話します。
「これが、私がルリカ様から預かった言伝なのです」
「母からだって……」
「はい。こちらをご覧ください」
私が目で示したのは、ルリカ様の日記です。
その最後のページに書かれていたのです。ルリカ様から、私への言伝が。
『ラングリフの隣にいてくれるあなたへ』
言伝は、そこから始まりました。
『もしも、あなたがあの子を愛してくれているのなら、もしも、あの子が生きられる環境にあるなら、どうかあの子の呪いを解いてあげてください。呪いをかけた私がこんなことを頼むなんておこがましいことです。でも、お願いします』
我が子に向けたルリカ様の切なる願いを、私はこの文章に感じてなりません。
そして、次の部分に呪いを解く方法が書いてあったのです。
『私は、この日記の中に解呪の鍵となる術式を織り込んでおきました。日記を読むことで術式はあなたの体に宿るでしょう。あとは、あなたの想いを言葉ではなく行動で示してあげてください。それが術式を発動させる条件となります』
解呪不可能と思われていた呪いを解く方法は、実に容易いことだったのです。
でもそれは、私以外にはできない方法でもありました。
ルリカ様が残された、最後の一文。
それは、ラングリフ様へ向けた、とても短いメッセージでした。
『ラングリフへ。――どうか、幸せに』
非常に簡潔な、でも願いと愛情と、その全てが込められたメッセージでした。
「……母さん」
ラングリフ様の瞳が、その一文に釘付けになります。
呼吸を止めて、我慢も忘れて、食い入るようにして見つめ続けるのです。
今です。
「ラングリフ様!」
私はいきなり声を張り上げ、彼を呼びます。
「な――」
仰天したラングリフ様が、反射的にこちらを見ました。
頬をいっぱいに膨らませて、限界まで寄り目にしている私の顔をです。
「…………ぶふっ!」
そして彼は噴き出して、そのまま激しく咳き込みました。
「ぐっ! げほッ! くは、けふッ! な、リリエッタ、何を――」
嗚呼、嗚呼ッ!
「ラングリフ様!」
私は、これ以上ない歓喜と共に、ラングリフ様の胸に飛び込んでいました。
「リリエッタ……?」
「笑われました、今、笑われたのです! ラングリフ様が、笑われたのです!」
「ぉ、俺が……、笑っ、た?」
「そうです! 今、ラングリフ様は笑いました! 私の顔を見て、確かに!」
私は年甲斐もなくはしゃいで、ラングリフ様を見上げて叫びます。
すると、唖然となっていた彼は、その口元を綻ばせて、優しく微笑まれました。
「君を見て笑うなんて、そいつは何とも失礼な男だな。デリカシーがなさすぎる」
「ぁ、ああ、ラングリフ様……」
その微笑みを、私は涙なくして見られません。
これまで勇ましいばかりだったこの人が浮かべる笑顔は、とても大らかで……、
「私が見たかったものは、あなたのその笑顔なのです」
やっと、夢が叶いました。
ずっとずっと見たかったものを、ようやく目にすることができました。
「ああ、リリエッタ……」
ラングリフ様が、笑ったまま私を抱きしめてくれます。
私も彼の背中に腕を回して、彼が感じている喜びを静かに分かち合います。
「お願いがあるんだ、リリエッタ」
「はい、ラングリフ様」
「少しの間でいいから、このままでいてくれ。俺の顔を、見ないでくれ」
私の顔のすぐ横、チラリと見るとラングリフ様の耳が赤くなっています。
その理由は、すぐにわかりました。私は、それを尋ねません。
「ご存分に」
それだけ言って、私は目を閉じます。
何があっても彼の顔を見ないようにして、抱きしめて、抱きしめられます。
私の腕に、ラングリフ様の体の震えが伝わってきました。
呪いから解放されたこの人は、やっと笑えるようになりました。
もう、何も我慢する必要はないのです。
泣きたいなら泣いたっていいんです。私はそれを見ませんから。だから――、
「…………ッ、母さんッ」
声を殺し、肩を小刻みに揺らして、彼は私の腕の中で泣きました。
背を丸めるラングリフ様を抱きしめ続けます。妻として、母の代わりに。
あなたが笑えて、よかった。
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